右利きとシェイクスピア
「お兄さん! お兄さんっ!」
湊介は、体を揺すられる感触で目が覚めた。
真っ赤な夕焼けと、ヒグラシが鳴く声。湊介は、六弦駅の色褪せたベンチに座っていた。
「お兄さん、大丈夫? うなされてたけど」
傍らに立っていたのは、駅員の女性だった。皺の寄った化粧気のない顔を心配そうに歪め、こちらを見ている。
「ああ……はい」
湊介は間の抜けた声で返事して、辺りを見回した。所々に蜘蛛の巣が張られた天井に、朽ちかけのプレートが設置された柱。見慣れた光景の、いつもの六弦駅だった。
「俺、寝てました?」
「ええ。随分と長い事」
「そう……ですか……」
駅員の言っている事は本当だろう。湊介が六弦駅に到着した時にはまだ日は高かったのに、すでに夕方になっていた。
全身の力が抜けていくのが分かった。ワイシャツが汗でビショビショで、喉が死ぬほど乾いている。鞄から水筒を出して冷えた麦茶を飲むと、ようやく安堵の笑みが零れた。
(全部、夢だったんだ……)
きっと、電車を待っている内にうっかり寝てしまったに違いない。自分が体験した事はあまりにも鮮やかに思い出せたが、それが夢だと知ってしまえば、もう何も恐れるものはなかった。
大体、『ムゲンさん』だとか、止まらない電車だとかが現実のはずがないのだ。いつもの自分を取り戻した湊介は、先程の恐怖を嘲笑ってやりたくなった。
「じゃあ、あと少しで電車が来ますから」
駅員は急に笑い出した湊介を不審そうに眺めつつも、飾り気のない指でポケットから改札鋏を取り出し、駅舎の方へ向かって行った。
その様子を何気なく見ていた湊介は、麦茶を飲む手を止めた。
何故か、駅員のその仕草が、しっくり来なかったのだ。胃がザワザワするような違和感。その正体に気が付いた湊介は、息を呑んだ。
「あ、あの……!」
湊介は思わず駅員を呼び止めていた。
「駅員さんって……前から右利き……でしたっけ?」
彼女は、右のポケットから鋏を取り出し、それを右手に握っているのだ。こんな事をするのは、右利きの人間だけである。
「ええ。そうですけど?」
駅員は、いきなり何を聞かれたのか分からずに不可解そうな顔をして、事務室へと消えていった。湊介の水筒を持つ手が震える。
(違う……。あの人は今まで、『左手』で切符を切ってた……)
湊介の息遣いが荒くなる。彷徨う視線が、駅舎の待合室にいる老人を捉えた。
ホームからでも、老人の様子がいつもと違うのが分かった。彼が読んでいるのは、スポーツ新聞ではなく薄い文庫本だ。目を凝らすと、タイトルに『オセロー』とあるのが分かる。シェイクスピアの悲劇だった。