表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

右利きとシェイクスピア

「お兄さん! お兄さんっ!」


 湊介は、体を揺すられる感触で目が覚めた。


 真っ赤な夕焼けと、ヒグラシが鳴く声。湊介は、六弦むげん駅の色褪せたベンチに座っていた。


「お兄さん、大丈夫? うなされてたけど」


 傍らに立っていたのは、駅員の女性だった。皺の寄った化粧気のない顔を心配そうに歪め、こちらを見ている。


「ああ……はい」


 湊介は間の抜けた声で返事して、辺りを見回した。所々に蜘蛛の巣が張られた天井に、朽ちかけのプレートが設置された柱。見慣れた光景の、いつもの六弦駅だった。


「俺、寝てました?」

「ええ。随分と長い事」

「そう……ですか……」


 駅員の言っている事は本当だろう。湊介が六弦駅に到着した時にはまだ日は高かったのに、すでに夕方になっていた。


 全身の力が抜けていくのが分かった。ワイシャツが汗でビショビショで、喉が死ぬほど乾いている。鞄から水筒を出して冷えた麦茶を飲むと、ようやく安堵の笑みが零れた。


(全部、夢だったんだ……)


 きっと、電車を待っている内にうっかり寝てしまったに違いない。自分が体験した事はあまりにも鮮やかに思い出せたが、それが夢だと知ってしまえば、もう何も恐れるものはなかった。


 大体、『ムゲンさん』だとか、止まらない電車だとかが現実のはずがないのだ。いつもの自分を取り戻した湊介は、先程の恐怖を嘲笑ってやりたくなった。


「じゃあ、あと少しで電車が来ますから」


 駅員は急に笑い出した湊介を不審そうに眺めつつも、飾り気のない指でポケットから改札鋏を取り出し、駅舎の方へ向かって行った。


 その様子を何気なく見ていた湊介は、麦茶を飲む手を止めた。


 何故か、駅員のその仕草が、しっくり来なかったのだ。胃がザワザワするような違和感。その正体に気が付いた湊介は、息を呑んだ。


「あ、あの……!」

 湊介は思わず駅員を呼び止めていた。


「駅員さんって……前から右利き……でしたっけ?」


 彼女は、右のポケットから鋏を取り出し、それを右手に握っているのだ。こんな事をするのは、右利きの人間だけである。


「ええ。そうですけど?」


 駅員は、いきなり何を聞かれたのか分からずに不可解そうな顔をして、事務室へと消えていった。湊介の水筒を持つ手が震える。


(違う……。あの人は今まで、『左手』で切符を切ってた……)


 湊介の息遣いが荒くなる。彷徨う視線が、駅舎の待合室にいる老人を捉えた。


 ホームからでも、老人の様子がいつもと違うのが分かった。彼が読んでいるのは、スポーツ新聞ではなく薄い文庫本だ。目を凝らすと、タイトルに『オセロー』とあるのが分かる。シェイクスピアの悲劇だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ