止まらない電車
「電車が参ります。ご注意ください」
ホームにアナウンスが流れ、湊介は我に返った。青い車体の短い車両が、こちらにやって来るのが見える。けたたましい踏切の音とアブラゼミの大合唱。まるで失われた聴覚が戻ってきたように、辺りがにわかに騒がしくなったように感じられた。
あの女はいなくなっていた。まだ、あの奇怪な笑みが瞼の裏に張り付いて離れないような不快な感覚を抱えつつも、湊介は他の乗客たちと共に電車に乗り込んだ。
「……!」
だが、湊介は車両に足を踏み入れた途端に固まってしまった。すぐ目の前の席に、あの女が座っているではないか。
湊介は、思わず後ずさりした。しかし、靴のかかとが扉に触れる感触にはっとなる。いつの間にか、ドアは閉まっていた。
湊介が扉の前で凍り付いたまま、電車は動き出した。
奇妙な事に気が付いたのは、その直後だった。湊介は、確かに他の乗客と一緒に電車に乗り込んだはずだ。だが、辺りに人気がなかったのだ。不気味なほどに閑散とした車内で、湊介は、この得体のしれない女と二人きりになっていた。
――『ムゲンさん』の世界に連れていかれちゃうんだよね。
不意に、脳内に鼻で笑っていた怪談話が蘇ってくる。嫌な予感に胸がざわめいた。
(まさか、この女……)
都市伝説なんて信じていないはずの自分がそんな事を考えている事に、猛烈な違和感を覚える。だが、馬鹿らしいと一蹴するには、この女もこの静まり返った電車も、あまりに不気味すぎたのだ。
湊介の背中を汗がじっとりと濡らす。居ても立っても居られずに、湊介は足早にその場を離れた。とにかく、この女から少しでも距離を取らねば生きた心地もしなかった。
湊介は隣の車両に移った。これで一安心だ。しかし、その安堵は瞬く間に裏切られた。
(な、何で……)
誰もいない客車。その車両の中程の座席に、あの女が腰掛けていたのだ。後ろを振り返ってみると、先程まで湊介がいた車両には、誰もいなくなっていた。
あまりに異常な事態に、湊介の心臓が早鐘を打つ。女の首がまたカクンと折れてこちらを向き、湊介が大嫌いなあの笑みを浮かべた。
頭が真っ白になった湊介は、我知らず駆け出していた。だが、行けども戻れども、あの女は当たり前のようにシートに座っており、振り切る事はできなかった。
最前列の車両まで来た湊介は、堪らずに乗務員室のドアを叩いた。その様子を、女が厚い前髪の向こうから見ている。
「止めてください! 早くっ! 早く……!」
湊介は、拳を痛める程に強くドアへと打ち付けた。しかし、返事はない。湊介は、いつもなら駅員が乗っているはずの乗務員席に、今は誰もいないと気が付いた。
全身から血の気が引いていき、足に力が入らなくなる。湊介はその場にへたり込んだ。その背に影が差す。力なく顔を上げると、あの女がすぐ近くに立っていた。
「ようこそ、私の世界へ」
女の声はじっとりと湿っていた。錆びた機械のような仕草で首が傾き、その前髪の隙間から、深海魚のように大きなぎょろりとした目が覗く。それは光のない、見ている者を深淵に引きずり込んでしまうような、暗い目だった。