第二十一話 その頃、苦悩する雫の懺悔
ネレイダは大国であるネレイダ王国の首都であり、人口も多い。そしてその中で存在する少なくない数の孤児を路頭に迷わせないためのセーフティネットとして、複数の孤児院が存在していた。
その中の一つである国木孤児院は、国木才が藤堂家に引き取られる十歳まで育った実家であり、窮地にある才が姓としてとっさに名乗る程には心の拠り所でもあった。
「ふぅ」
孤児院の建物へ入ったところは大広間になっており、そこを一通り掃除し終えたはちみつ色の髪を三つ編みに結った少女が達成感を息にして吐く。
才の様に特別に引き取り手が現れる場合を除いて、通常は成人である十五歳で孤児院を出ることになる。そしてこの少女は十四歳であり、孤児院内でも保護者側に近い立場であった。そしてそれ故に、こうして学校が休みの日には“甘い”掃除をする妹・弟たちの尻拭いとばかりに掃除に励むのだった。
「お兄ちゃん、どうしてるかな……」
周りを見渡して誰も居ないことを確認すると、少女はすっかり口癖になった言葉を今度はため息交じりに吐き出した。
少女にとって一つ年上の才は共に育った兄であり、何にも代えがたい存在だった。しかし大貴族である藤堂家の人間となってからは、当然の如く会うこともできず、街中や学校で偶然に見かけても話しかけることすらできずに五年が経過してしまっていた。
「わたしのスキルも魔法系だったらなぁ」
才が藤堂家の目に留まる程の有力魔法系スキルである『召喚魔法』に開眼しながらも、その実用に至っていないことは噂に聞いて少女も知っていた。しかし藤堂家内でそれがどういう意味を持つかなど、庶民に過ぎない少女に知る由も無く、ただ自身のスキルを恨めしく思い返すのみだった。
「何なんだろうな、『感応』って……」
少女が口にしたスキルは、少女自身の開眼したもので、また王国史上例のないものでもあった。十歳当時に方々でそれは騒がれたものの、しかし本人がどう頑張ってもそのスキルを行使できないと知れ渡ると、徐々に周囲の騒めきも収まっていったのだった。
実際スキルそのものには万人が開眼するが、それを行使できないということは、珍しくはあっても例のあることとして知られていた。そのため少女の持つ『感応』スキルも、既に学者ですら知るものはいないという代物となっている。
そうして物思いにふけっていた少女の耳に、こんこんと扉の叩かれる音が届く。
「誰だろう?」
少女は最年長ではあってもこの孤児院の運営側の人間ではない。だから応対しても結局は誰かに取り次ぐことしかできないが、とはいえ来客が誰で用事が何かくらいは聞くことができる。そんな益体もないことを思い浮かべながら手にしていたほうきを置いた少女が扉を開いた。
「え……?」
来客を見た少女は、よく特徴的だと言われる大きな目をさらに大きく見開いて、さらには可愛らしい口もぽかんと開いて動きを止める。
それは開いた扉の向こうに立っていた人物のあまりの場違いさからの驚きが原因だった。
「ここの……、方ですか?」
「……っ! あ、は、はい!」
地味な色使いながらも非常に高級感のある布地で作られた服を着た、どこからどう見ても貴族である若い女性は、その顔の造形もまた派手さの伴わない美しさの極致とでもいえるほどに恐ろしく整ったものだった。しかしその艶のある長い黒髪にはやや乱れがあり、もとより白いのであろう肌は白磁のようなというのを通り越して蒼白だった。
「えっと……?」
何も言わずに視線をさまよわせる貴族らしき女性に、少女は戸惑いをそのまま態度として返す。
「あ、ごめんなさい。私は藤堂雫です、今日は…………」
名乗りかけて動きを止めた雫――少女の予想通りやはり貴族であった女性――に、少女は二重に驚きを感じていた。
一つは姓を聞いただけで貴族と判別できるほどの大貴族が突然訪ねてきたことに、もう一つはそれが少女の兄と慕う才が引き取られた藤堂家の人間であったことに。
「…………」
「あ、う……、その」
才の近況を訪ねたい気持ちと大貴族へ不躾に話しかける恐怖感に挟まれてどもる少女は、しばし押し黙る雫と見つめあっていた。
「……、あなたは……、花梨さん、ですか?」
しかししばらくして、不意に雫は少女にとって意外な言葉を呟いた。まさにそれが少女の、花梨の名前に違いなかったからだが、何をどう思い出しても、目の前の美しい貴族女性とは初対面のはずだった。
「そ、そそそ、そうです! わたゃ、た、わたひが何かしてしまいまひたでしょうか!?」
自分が大貴族の、それも才の引き取られた藤堂家の不興を買ってしまったのかという恐れから、花梨は殆どまともに喋れないほどに困惑する。
「ふふ、違うのよ。あなたのことは才からよく聞かされていたものだから」
本人以外からすれば滑稽な花梨の慌てように、少し気がほぐれた雫は小さな笑みを見せて名前を知っていた理由を話す。
「へ? お兄ちゃんが、ですか?」
安堵や嬉しさで複雑な表情となった花梨は何とかそれだけ呟き、しかしその後で急激に不安を抱いていた。
「(さっきまでの雫さまの雰囲気……)」
扉を開いた時の雫の悲痛な表情と、そして今才のことを弟として暖かく話す表情から、花梨は一つの最悪な推測へと至っていた。
「なら、まずはあなたに話さないといけないわね……」
「えっと……」
悲痛さも暖かさも表情から消して、いっそ凛々しさすら感じる無表情となった雫に、花梨は胸中の不安が膨らむのを感じて、何も聞かずにこの場から逃げ出すことを検討し始める。
しかし花梨がその考えを後先考えずに実行に移すより、雫が覚悟を固めて口を開く方が早かった。
「私の弟、そしてあなたの“お兄ちゃん”でもある才が、藤堂家の不注意により奈落の遺跡にて事故に遭い、……亡くなりました」
「――っ!」
聞いた瞬間に、花梨は声もなく膝から崩れ落ち、自分で掃除したばかりの床へとへたり込む。その表情は笑っているようにも泣いているようにも見える奇妙な歪み方で、ただその両目からは尽きることなく涙が流れ落ちていた。
その状態のまましばらく時間が流れたところで、表情も涙もそのままの花梨が脱力していた体を跳ねるように立ち上がらせて、目の前に立つ雫の両腕を掴む。
「どうしてっ! どうしてどうしてどうしてぇっ! わたしからお兄ちゃんを奪っていって、お兄ちゃんからも命を奪うなんて! どうしてなの!?」
自分でも何を言っているか分かっていないほど取り乱す花梨は、ただただ雫の腕を掴んだ手に力をこめ、まっすぐ立ってちょうど正面に来る雫の胸元へ向かってわめき続ける。
「っ、く……う……」
掴まれた部分を爪が突き破り、服の布地に血がにじむほど強く揺さぶられながらも、雫はただ黙ってされるがままとなっていた。二人の身分を考えればあり得ない行為でありながら、それは雫にとっては当たり前に受けるべき糾弾であった。
しばらくの間、「どうして」と繰り返していた花梨は、いつの間にか雫の胸に埋めるようにしていた頭に、ふと熱を感じた気がしてほんの少しの正気を取り戻す。
「え……」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
顔を上げた花梨の目に映ったのは、決定的な言葉を告げた時の無表情が嘘であったと思えるほど小さな子どものように謝りながら泣く雫の顔だった。その「ごめんなさい」が花梨へ向けてか、あるいは才へ向けてかはわからないものの、後悔や悲痛さが本物であることだけはその感情を共有する花梨には確信が持てた。
「わた、えぅぐ、おにぃ、ああ、うわあああああ!」
「ごめんなさい、うぅ、うぐぅぅぅああああ!」
そのままどちらともなく抱き合った二人は、大声を聞きつけた孤児院の職員が様子を見に来るまで、ただただ泣き喚き続けていた。




