憂鬱 原案3 ロノウェ
ネウラモス王国の小さな領地に、一匹の賢い魔獣が出現した。人のように二足歩行で、
手の指は七本ずつ。自らをヤァレドと名乗るその魔獣は片手にナイフ、もう片方の手に
は包帯が握られていた。
ヤァレドは力こそ無かったものの、その知恵を使い他の魔獣たちを従わせ村々を襲わ
せた。魔獣は知恵がなく罠にかかることが多いと知っている村人たちは、自分たちで対
処できると勘違いをした。統率された軍隊のような動きをする魔獣たちに危機感を感じ
るも時すでに遅し。彼らは必死に抵抗したのだが、その元気な姿に食欲を高ぶらせた魔
獣の軍隊は勢いを増し、通った後には骨すら残らなかった。
三つ目の村が滅ぼされ、ヤァレドの指示で精力の強い青年と、子を産める若い女以外
は食料にされた。命令により女達は適当に割り当てられた青年と性交をさせられ子を孕
むが、女達の産んだ赤子の半数は抱く暇もなく取り上げられ食料にされた。
多くの食料があり、人という玩具に満ちた生活を送った魔獣たちは一回りも二回りも
大きくなり、雌達は一度にたくさんの子供を産み落とした。初めは小さく貧弱な体をし
ていたヤァレドも引き締まった筋肉を身に着け、自分と近い種の魔獣と番になり子をも
うけた。
次の標的になった村は老人ばかりの寂しいところだった。しかし、その老人達はかつ
て戦争の最前線で活躍した元軍人。肉体は衰えても、その身に宿す熱だけは少しも冷め
てはいなかった。しかし、多勢に無勢な状況ではそれも役には立たない。早々に死を受
け入れた英雄たちは、村唯一の若者を書簡を持たせ町まで走らせた。英雄たちは武具を
身に着け来る災厄へと声を張り上げる。
「我ら、かつて無能と蔑まれながらも誰よりもこの国の行く末を案じ、死をも恐れず戦
った真なる英雄王ボーレス陛下を敬愛し仕えた、永遠なる忠臣。陛下の愛した家族を守
り、数多なる障害を乗り越えた最強の部隊。いくら年を重ね、いくらこの身が衰えよう
とも、一人十殺これを果たすまでは首だけになろうとも食らいつく。さぁ来い魔獣ども。
他国でも元首クラスにのみ知られ恐れられたこの力、身をもって味わうがよい。ネウラ
モス王国万歳、ボーレス陛下万歳!さぁ皆の衆、戦じゃあ!」
その戦いを知る者はいない。果たしてこの言葉でさえ本当に言ったのか知る由もない。
ただ、爺婆どもならこう言うだろうと、若者は自信と誇りに満ち溢れた表情で語る。
すでに声も届かない距離まで走ってきた若者は、履いていた靴を投げ捨て素足で大地
を掴む。背中に心地よい灼熱を感じ、己の心も猛っている若者にとって靴が邪魔だった
のだという。足の裏が血まみれになり熱くなろうとも、若者は足が勝手に止まるのを許
さない。
二つの山を越えると、ここいらでは最も大きな町が見えてくる。腕はついているのか、
足は削れて無くなってはいないか、感覚がない中虚ろな視界で捉えた人物にしがみつく。
「魔獣が」飲まず食わず幾昼夜走ってきたのだろう。「爺と婆が」希望を感じる暇など
ない「助けてくれ」あるのはただ使命感のみ。 __2p
兵士は真面目な性格をしていた。横たわる若者の意思を読み取り胸元の書簡を取り出
すと、若者を後輩へ託し急ぎ屋敷へと向かう。兵士の中でも評判の彼の言うことを信頼
した上司は、たまたま視察に来ていた領主へと話を通し、すぐさま討伐隊を出動させる
ことになる。
ヤァレドは老人の頭蓋骨をしゃぶりながら考える。何かが足りない。服が多い。何故?
ヤァレドは賢かった、皆が想像するより遥かに。この先の展開に気付いたヤァレドは下
僕を置いて逃げ去った。今はまだ己は弱い、雌伏の時が来ただけである、と。
討伐隊は、六つ目の村が滅ぼされたころに魔獣と戦闘に入った。人の味を覚え、村人
とはいえ人との戦闘に慣れた魔獣は手強かった。四足獣もいれば単眼の二足獣、腕の長
い猿など、それぞれ全く異なった戦い方をする魔獣は討伐隊の倍以上いた。
日が落ちるまで戦い続けたが決着はつかず膠着状態になる。疲労が溜まり、交代要員
の
少ない討伐隊だが、魔獣たちがなぜか聞くほど統率されていなかったので戦えていた。
しかし、魔獣は産まれてから数時間で狩りができるほどに成長する生き物。このままで
は勝ち目がないと判断した隊長は、領主の権限を使い、近くの村々から徴兵をした。
集まった民兵たちの半分に木製の槍と盾を持たせ、兵が回復するまでの壁とした。も
う半分は簡単な罠を作らせ、後は交代要員として待機させた。
ただでさえ指導者のいない集団であるのに、敵の変化についていけるわけもなく次々
と討ち取られていった。多くの血が流れ、剣の切れ味は落ち、槍は折れ、兵士たちの腕
が上がらなくなってきたころ、後方より馬の足音と鎧の軋む音が聞こえてくる。領主の
旗を持ち堂々とやってくるその様は、正に選ばれた者たちの姿。
騎士たちは次々と魔獣を殺していく。対人に特化しているはずの騎士が、魔獣相手に
も一歩も引かない姿を見て、民兵たちの中でも青年たちは目を輝かせて見ていた。三人
の騎士に守られるように姿を現したのは、豪華な衣装に似合わない柔和な笑みを浮かべ
る領主。
「立ちなさい。それでも勇ましく誇り高いネウラモス国民か」領主が檄を放つ。
一振り一振り、歯を食いしばって剣を振るう兵士たち。目の前の敵をとにかく殺す、
その事だけを考えていたことが間違いであったのか、横を通り抜けていく生き物へと意
識が向かなかった。騎士たちも滅多にない魔獣相手の戦闘で精神は疲れ果て、後ろに構
えている味方に託していた所為もあり、反応が遅れる。領主の周りに控えていた三騎士
は、巨大な魔獣を相手にしていて予断を許されない状況にいた。だから今、領主の目の
前には口を広げ、臭い匂いを放つ幼い魔獣がいるのだ。
幼い魔獣とは言えど、ひと噛みで頭蓋に牙を刺すことができる。復讐心を持つほど親
への愛情を育む時間は無かった。今はただ、産まれたばかりのこの体が新しい血欲して
やまない、食欲の一点のみ。あの柔らかそうな頭は美味しいだろうか、一向に前に進ま
ない時間の中考えるのは、そんなことだった。 __4p
村人の格好をした人物の手には、木を削って作っただけの槍が握られている。一直線
に顎の下から脳に向けて貫いた一撃は死を確定させた。唯一最大のチャンスをものにで
きなかったと、小さい脳みそで判断した魔獣たちは散らばりながら逃げ出す。
領主はその青年に感謝し、褒美を授けたいと考えるが、他の者たちが見ている中一人
だけ特別扱いは面倒くさいことが起きるに違いない。文官と相談し、騎士を通して褒美
をやることにする。中身は、希望するなら最優先で王都にある屋敷で雇うというもの。
貴族として、優秀な兵士を持つことは自慢にもなるし領民からの評判も上がるだろう。
そうすれば、後々社交界でも有利になるだろうと打算を重ねる。
青年はすぐに跪き、希望する旨を伝えそのまま隊列に加わり町へと向かう。その後王
都へと向かい仕事を始める青年は、真面目で清潔で紳士なので、同僚は勿論屋敷のメイ
ドからも覚えがよく、門番を任されるまでそう時間はいらなかった。太陽に輝くレモン
イエローの髪はよくある色だが、彼ほどに似合う者はいないだろうと給仕の少女たちは
囁いていた。
ヤァレドは更に一回り大きくなり、手には長い剣を持ち立派な鎧を身に纏う。新たな
下僕を手足にし、以前よりも慎重に人を襲わせた。何度も失敗し、時には片腕を失う程
の怪我をしたが、ヤァレドは必ず生き残った。おかげで、自分より遥かに強力だが忠実
な僕を得ることもできた。ヤァレドの頭の中には多くの考えが浮かんでは消えを繰り返
している。一つ上の存在になるまでそう時間はかからないだろう。多くの子を産める雌
がおり、優秀な子供もいる。だが、満足はしないできない。ヤァレドの頭の中は常に絶
対の恐怖が刻まれている。力を得るのも、僕を集めるのも逃げるため。剣を鞘にしまう
と、首元にぶら下げた袋の中身を確認する。これこそ、悪魔の一部。シルクのように滑
らかで蜘蛛の糸のように儚げな白き恐怖の象徴。あの目を思い出すだけで生きることを
諦めそうになる。ヤァレドは常に思う。己に知恵がなければ、このように悩むこともな
いだろう、と。
「フォールぅ! 飲んでるかぁ?」
「ああ、飲んでるさ。さっきっからな」
フォールは何度目とも知れぬ質問を軽く流し周囲を覗う。しばらく前から、寝取られ
たと友人を責め立て殴り合いをしている男ども。次はだれを誘うか、あそこの兵士に挑
戦するかと夢に生きる童貞が聞きたくないだろう恐ろし気な会議を開いている娼婦たち。
明日の事など考える余裕もない、なけなしの金をグラスへと注ぐ日雇い者。一時間ほど
前から同じ会話を繰り返す安いオルゴールに成り果てた、酒に弱い同僚。
ここは、後ろ暗い者もそうでない者も平等に酒を注ぐぶっきらぼうなマスターの経営
する”ビヤ樽の勇者亭”。マスターの過去が壮絶なものだったのだと、酒におぼれた老
いぼれは語るが、本人は笑って受け流す。ただ、どんな勇者だろうと人知れず愚痴を零
す場所が必要だと静かに言う。それを知ってか知らずか、時折フォール達のような兵士
が訪れてゲロと同じ分だけ愚痴を吐いていく。
「フォールよぉ、お前はぁ、成り上がろうとか、思わねぇのか?」
男はグラスを高く掲げ、中で反射する光をじっと眺める。
「んー、無いな」
「うぅそこけぇ。んなわけあるかよ。毎日毎日まじめに仕事しやがってよぉ、不真面目
な俺らの身にもなれってんだ」
「なんでだよ、お前がまじめにやればいいだけだろ?」
二人の身なりは整っている。髭は丁寧に剃られ、髪も整っている。庶民であれば髭や
髪を整えることにこだわるなら寝たい、という者ばかりだ。妻がいる男であればしても
らうこともあるが、よっぽど位の高い人物と会うことがなければ、それらは少数派だろ
う。
テーブルの上には、たまの贅沢に食べるような食事が並べられている。
「お前はいいよなぁ。顔もいいし、まじめでマメだし、貴族の兵士でみーんなから気に
入られているし……、俺とはおおちげぇだこんちくしょー」
手羽先の塩焼きを相手に涙を流し始める。
「絡み酒かと思ったら泣くのかよ。めんどくせぇなお前」
「ぐこぉー、ぐこぉー、ぐがっ」
「はぁ」
フォールはため息交じりにグラスの氷の音に耳を傾ける。
「おやっさん、こいつの後始末任せた。色付けとくから勘弁な」
マスターは慣れた手つきで男を動かし、フロアの隅に投げ捨てる。
同僚を酒場に置いてきたフォールは、糞尿死臭漂う裏道を通りある場所を目指す。そ
の足取りは、落ち着いているようにも見えない何かに急かされているようにも見える。
鼻歌を歌うこともなく歩む先に月明かりが差し込む小さな広場があり、薄いベールで
顔を隠した高級娼婦のような服を着た人物が、微笑みながら近付いてくる青年を静々と
見つめている。
「遅いじゃない」
怒りとも、からかいともとれる絡みつく声。
「すまない。だが、男は遅れてくるものだ、と言ったのは君のはずだが?」
「それにしても、よ」
不機嫌な雰囲気を隠そうともしない女性と、余裕の表情でそれを受ける男性。
「悪かった。詫びはいつものところで、な」
顔を隠す布を取り払い、唇をフォールへと差し出す女性。その素顔は少女のように純
粋にも見え、多くの苦悩を抱えながらも必死に生きる女の顔。
「ん」
「ふぅ。短く、だぞ」
ねっとりとしたはちみつの様で、熟したライチの様な接吻を交わす二人。女性の上気
した頬やうるんだ瞳、荒い呼吸は色気を隠そうともしない剥き出しの本能。
理性が主導権を握り始めると、名残惜しそうにゆっくり、ゆっくりと離れる女性。
「安っぽいけど、甘い味ね」
「だろ? 俺じゃ、手に入れるのはこれが精一杯なのさ」
「今夜は、どんなことを教えて下さるの?」
「ん? そうだな、趣向を変えていこうか。新しい鍵を用意してあるからな」
「ふふ、早くいきましょう? 秘密の遊技場に」
「おはよーございます!」
「おはよう、嬢ちゃん」
「へへ。今日は何かいいものありますか?」
「そうだな。これなんかどうだ?」
「わぁ、真っ赤でつやつやだね!」
「おうとも、今朝採りたてのイタルの実だ。最高にジューシーでな、冷やすともうたま
らん!」
「うぅ、ずるいよ。食べたくなってきたじゃん」
「ははは。嬢ちゃんはお得意様だから、一つ銅貨四枚のところ特別に三枚。更に五個買
ってくれたら一個おまけするぜ?」
「むむむ。買った! ついでにそっちの葉っぱと、お芋三つください」
「毎度! 今日も良き一日になりますよう、天のサンミラ様に祈っとくぜ」
「おじさんもいい日になりますように」
「おう、ありがとさん」
少女は重くなった籠を肩に背負い、近くのパン屋へと入っていく。
「おはようございます」
「おはようさん。いい話はあるかい?」
「おばさん、なんとね!」
「なんと?」
「お隣さんのところに子供ができたんだって!」
「あの馬鹿ベレットのとこに、ようやっとかい! めでたいねぇ」
「ベレットさんの家、少し前に泥棒が入ったらしいの」
「なんだって?」
「でもね。少しのお金と食べ物が盗られただけで他は何も」
「それでもねぇ」
「それでね? 大きな袋が置いて行かれてたんだって」
「ふぅん?」
「中身は赤ちゃん服だったの。見せてもらったんだけど、すごくいい布が使われててす
ごく可愛くて、一目であのフルーレンの服屋のものだってわかったの」
「そりゃ、不思議なこともあるもんだ。盗品なんじゃないのかい?」
「ベレットさんも気になって服屋に聞きに行ったら、おめでとうございますって言われ
たんだって」
「ほう。粋なことをするもんだね。あの旦那、地獄耳だからね。店の余った布で作った
んだろう」
「うらやましいなぁ」
「そうだねぇ」
「パン安くしてくれないかなぁ」
「いっぱいパン売れないかねぇ」
「これとこれとこれ。これはサービスしてね?」
「上手くなったね、嬢ちゃん。毎度ありっと」
「ありがと」
「また面白い話待ってるよ」
「はいはーい!」
少女の足取りは重いが、心は軽い。楽しげな様子に店主たちはいつも癒されている。
「ねぇえ? もっと会えないの?」
女性は、しっとりとした髪をまとめながら問いかける。
「無理に決まってる。俺を殺したいのか?」
「分かってる。利用し利用される……そんな関係。悲しいわぁ」
「この女狐が。可愛いな」
「あら」
二人の間には、重苦しい湿った空気が流れている。涎が滝のように流れる甘さとも例
えられる、そんな物。
女は、枕元にあるハンドバッグから指輪を取り出す。小さな赤い宝石の付いた、特別
な装飾の無いそれをフォールの左の人差し指にはめる。
「今日の報酬はこれよ」
「ふーん……。クイーンスカーレット、上物だな」
言葉とは裏腹に、フォールは指輪を外すと、壁にかけているズボンのポケットへと放
り込む。
「相変わらずつれないのね。まじめなフォール君?」
「ええ。不真面目なレディ」
「キザったらしいわ」
朝になれば、またいつもの一日が始まる。フォールの仕事は挨拶をすること。時には
諦めの悪い商人等が雇った者たちと戦う事もある。
近所のマダムに人気の爽やかな青年……少なくとも日が沈む時までは。
「おはようございます、旦那様。いってらっしゃいませ」
「ん? ああ、フォールか。ああ、いってくる」
馬車から優しい声が降り注ぐ。
「進め」
馬車には、銀に縁どられた口文本紋と言われる家紋があり、その存在感は馬車を食う
程である。口文本紋とは、フォールの仕えるロノウェ子爵家の家紋であり、
銀縁の中には、口の形をした文字でびっしりと埋まっている開かれた本が描かれている。
不気味ではあるが、そのこだわり抜かれた作品は家の力を示すのに分かり易い。
「いやぁ、いつ見ても立派な馬だな。なんっつー種類だっけ?」
「確か……、黒眼鬼馬と単眼妖馬を掛け合わせた奴だとは思いますが、正式な名前まで
は……」
「どちらも飼育が難しい魔獣の筈だよな? よくもまぁ、互いにヤル気なるよな。単眼
妖馬なんて、物凄い不細工じゃねぇか」
「んー、見た目で選ぶのかどうかは知りませんが……、きっと何頭も殺してきたんでし
ょうね……出来損ないを」
フォールは、厩舎の方を眺める。
「なんだ? 思うところがあるのか?」
「いえ。ですが、我々は一方的に魔獣を殺し、飼育し、実験し。何様のつもりなのだろ
うか、と思っただけです」
「お、おう。難しい事を考えてるな。宗教家みたいだ……、っ!」
にこぉ、と笑いかける者にうすら寒さを感じる先輩兵士。
「同じにしないでください。神なぞ……」
「あのぉ、すみません」
「ん? なんだ貴様は? 平民がこんなところに何の用だ」
比較的整っている見た目だが、あまり良いとは言えない服装がこの地域においては目
立つ。彼は、手に持つ書簡を差し出す。
「こ、これを」
「誰からだ」
「名前は知りません。ですが、その……、高貴なお方であるのは分かったのですが」
「取り敢えず、受け取ります。厳重なる検査の後、主人へと届くでしょう。使い、ご苦
労様です」
「い、いえ」
振り返らずに立ち去る青年。
「じゃ、取り敢えず、執事長に聞いてくるは。ここ、任せた」
「はい」
先輩兵士は予想しなかった……、いや想像する事すらなかっただろう。本来、言われ
た事しかできない、役立たずなのだから。
フォールは気付いていた。一波乱起きる……と。なぜなら、書簡を平民に持たせ使わ
せた人物の事はよく知っていたから。
これから起きる事件の登場人物は、フォールと、その彼と関係のある女性、先輩兵士、
そして、主人。歯車は、書簡が届いてから七日程経った頃だった。
「クリィン、これを読め」
「はい、旦那様――」
ベーシックな書斎。本棚と机と、紅茶を淹れる為のセットが揃っているカートが一つ。
この場には、二人しかいない。
端正な顔立ちだが、特別優れているように見えず平凡な雰囲気の男……ケラン・ファ・
トルズス・シングル・ロノウェ。貴族位27番ロノウェ子爵家当主。
「――これは!」
――隣の雌しべは、隣の雄しべから運ばれた花粉に喜びを隠せない。蜂は蜜を貰った――
手渡された書簡には、汚い文字でそう書かれていた。
「ふぅ。誰とだ? 叔父上は既に不能となっておられるし、従兄弟共は近くに居ない。
……他家か内部か」
「内部かと具申させていただきます」
そう、頭を下げるのは、幼さ残る青年。クリィンは、執事でもなく奴隷でもないがケ
ランを主人と仰ぎ、特別扱いをされている。
「ああ、悲しい。心が張り裂けそうだ! 誰だ! 妻に手を出したのは!」
「……心中お察し申し上げます」
「お前は……裏切らないよな?」
「ええ」
このワンシーンは、愛憎劇のクライマックスの様な仰々しい振付を二人の役者が熱を
持って演じるかの如き。カーテンが降りる。この先は観客にとって刺激の強いものがあ
るだろう。万人に見せるには、指定年齢を上げなくてはならない。ただ……、二人の息
の音は不自然に近かったとだけ。
「ふぅ、暇だ」
フォールが守っている門はロノウェ子爵家の物。平民が暮らす地域に比べて治安が良
いのは利点だが、人通りがなく程よい喧噪もない様は酷くつまらないという欠点もある。
「お疲れ」
「お疲れ様です先輩、交代ですか?」
「ああ、休め。今日の飯は美味いぞ」
先輩兵士は、笑みを浮かべながら立ち去る彼の背中を眺める。その視線は、やや鋭い。
「フォールさん! お疲れ様です」
「キニ。お疲れ様。今日の当番は君だったんだね」
三角巾をつけたメイドは、健やかな笑顔を浮かべながら盛り付けを行う。
「今日こそは、美味しいって言わせますからね! いっぱい勉強しましたから、覚悟し
てください」
「こら! キニ! 手を止めない!」
「はい! じゃあ……」
「うん、じゃっ」
お膳には、ジャガイモがほろほろになっているポトフと皮が裂けるほどカリカリに焼
かれハーブの良い香りのするグリルソーセージ、そして焼きたての白パン。これは
平民にとってかなり贅沢なのだが、この屋敷の兵士におけるフォールは高めの地位にい
るので、給料とは別に配給される。
「いーぃい匂いだなぁあ! フォールっ! この前はよくも置いて帰ったな! おやっ
さんにどやされたんだぜ?」
「何だよ、ボルテ。さっさと座れ」
「へっ。おー悲しいなぁ、俺は黒パンにポトフだけだよ。こんなんじゃ出るもんも出や
しねぇ」
「煩いなぁ、お前が出すのは精々屁だろ?」
「へっへっへ、こりゃ一本取られたな。で? 俺を置いて行ってどこに行ったんだよ?
逢引きか?」
酒は入っていないのだが、常に赤ら顔で絡みだすと止まらない厄介者。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれん。お前が食うのは飯だけか?」
「うるせえ。そんなのは俺の勝手だろ」
「そうだな。じゃ、俺は行く」
フォールは少し残った汁を呷り、ゆっくりと立ち去る。
「つまんない野郎だ」
月が浮かんでいるが星は見えない。この時間の巡回で緊張しない者はいない。
「異常は?」
「無し!」
「しっかし、本当に来るのかね?」
兵士たちは屈強である。一部の隙も無い。
「っ! 誰だ!」
「俺だよ、俺」
「ふぅ、なんだボルテ貴様か。こんな時間に何をしている」
「月に愛の告白をしに来たんだよ。おっと勘違いすんなよ? 俺じゃねぇ、ダチの代わ
りにな」
「そうか。うまくいくといいな。お前の髭面じゃ無理だろうがな」
「お前たちの槍が俺に当たるよりは可能性あんだろ」
兵士たちは屈強である。一部の隙も無い、がそうであるが故に持ってしまう余裕と傲
慢。
「聞こえんな、何も聞こえん。さっさとダチに報告するんだな」
「ああ、そうだな。報告しないとな」
強さは時に人を酔わせ、曇らせる。もしこの時、真面な兵士がいたのならばもう少し
よい未来が待っていたかもしれない。
「今日は一段と激しかったわね。何かあったの?」
「君の前に鏡を用意しようか?」
「いじわる」
フォールは静かに笑う。
「前回で新しい鍵が手に入った。だから、かな」
「へぇ。扉の先には何が待っていたの?」
「溢れんばかりの黄金と、愛に狂っている夫婦、だったかな」
「よくわからないわ、それよりまだ時間あるでしょ? お願い、もっと私に新しい世界
を見せて?」
「今日は一段と素晴らしいものを用意してあります。とある筋から珍しいものを仕入れ
ましたので、いつもと違った楽しみが味わえます」
「ふふ。貴方は私を退屈させない天才だわ。思う存分私を楽しませて?」
「かしこまりました」
柔らかいものを叩く音、紫の煙、絶え間なく響く嬌声。
女はいつも感謝している。狭く暗い世界から連れ出し、自分の内に隠した激しい感情
を容易く暴き、毎度新しい手法で楽しませてくれる彼のことを。
女は分かっている。これは許されないことで、いつ終わるかも、いつ見つかり殺され
るかもわからない危険な状況であること。故に彼女は宝石を渋る。
この、背徳的でスリリングな快感をより長く味わうために。
「お、お帰りなさい。フォールさん。今日は早いですね」
足の不自由な女。決して美しいとは言えないが、純朴な雰囲気を持つ女。
「ああ、そうだな」
「お腹は空いてませんか? お隣からお芋を貰いました。茹でて潰して焼き団子にして
みました。美味しいですよ」
「そうか」
「お向かいのお子さんが私に抱き着いて甘えてきたんです。お母さんと間違えたんでし
ょうか、可愛かったです」
「そうか」
「この前、窓から知らない男の人が私を見ていたんです。昔のお客様かなとも思いまし
たが違ったようです」
「そうか」
「そういえば、もうすぐお祭りですね。その日はここにいられますか?」
「仕事だ」
「そう、ですか。お祭りの時まで仕事なんて大変ですね。次のお休みはいつでしょうか?
久しぶりにあの湖へ行きたいです」
「知らん」
「今頃は木々も青々としていて、綺麗なんでしょうね。この時期はポルポ鳥の雛も泳い
でいるでしょうね」
「そうだな」
「暖かくなってきたので、水の中に入ってもいいかもしれません。この足では泳ぐこと
は出来ませんが、きっと気持ちいいです」
「寝る」
「わかりました。おやすみなさい。私はあなたを愛しております。例えどのようなこと
があろうとも」
喧噪渦巻くならず者たちの溜まり場。そこでボルテは一人酒を飲み続けている。
「いい加減にしたらどうだ」
「とは言いますがね、旦那。あんな職場は反吐が出る。酒は俺を裏切らない女でさ」
「まあいい。それで?」
「余裕、と言いたいんですがね」
「兵士長は、流石のお前でも苦労するか?」
「兵士長? ああ、あの雑魚の事なら心配ありゃせん」
「なら、近衛か? あいつらは戦うだけ損だ。意味もない」
「違いまさ。近衛も俺の敵じゃねぇ。ただ、不気味な男が一人」
「お前がそこまで言う相手だ。相当の輩か」
「旦那の一番の手駒と同程度だと。悪ぃがね」
「いつの間にあいつと会ったんだ、で? 成功率は?」
ボルテは残った酒を飲み干す。
「まぁ9割大丈夫でしょ」
「わかった。任せた」
「御馳走さまでさ、旦那」
長髪の男は静かに去っていく。周りの男どもも彼には喧嘩を吹っ掛けたりはしない。
それは愚かな行為であると学んだからだ。
「へへっ、旦那。届け物でさ」
小汚い男は、綺麗な布に包まれた物を兵士に手渡す。
「またか。わかったご苦労。厳重に検分して然るべき者に渡されるであろう」
「へへっ、わかりやした」
「帰ってよし」
「へへ、ここまで来るのは苦労したんでさ。今頃飯にありつけたはずなのに、腹が減っ
て仕方がねぇ」
「ゴミが」
兵士は腰の袋から数枚の銅貨を地に投げ捨てる。
「拾うことを許可する。それは私の物ではないし、何も見ていない」
「感謝するぜ。へへっ、兵士もめんどくせいな」
男はそそくさと立ち去り、すぐに見えなくなる。兵士は貴族に仕えている。主人の顔
に泥を塗るわけにはいかない。
小汚い者に直接金をやるのは恥だと考えられているこの国ではそのような時の為に、落
とし物用の財布を常に腰に付けている。
少額の落とし物であれば、役所もとやかく言うこともない。
「しかし、これで何度目だ? 意図は分かるが理由がわからん。まぁいい」
「はぁ、どうして私がこのようなことで悩まなくてはならん。可愛い可愛い私のクリィ
ン、癒しておくれ」
ケランは目の前の奴隷に声をかける。それは、恋人に投げかけるように、妻に乞うよ
うに、母に甘えるように。
「ご主人様、私は貴方様を愛しております。ですが、早く終わらせなくてはならないお
仕事が残っておられるのでは?」
クリィンは問いかける、答えのわかっているいつもと同じ誘い文句。
「そんな生意気な口を叩くようになったんだな。この前といい調子に乗ってやいないか?」
「それがご主人様のお望みであると、そう思いました。ご主人様だけのこの体、ご主人
様に夢中のこの体。存分に味わい尽くしてください」
お互いにわかっている。これをしなくては何も始まらない。マンネリなどあろうはず
がない。
ケランは焦らされ昂ぶりきったモノをぶつけたいがため、クリィンはそんな主人の情
けない姿を特等席で眺めるため。
「誰にも渡すものか。こんなに可愛い奴隷が他のやつに触られると考えるだけで!」
「んっ! ご主人様、私はどこにも行きません。例えこの身が穢れようとも心は常に貴
方様へと。それに、必ず守ってくださるのでしょう?」
「当たり前だ!」
ガジュマルという植物は、大きな木に絡みつきながら全長20メートルにまで成長す
る。その身を食べに鳥や蝙蝠が来るため大きな木にとっても
助かる。ガジュマルは観賞用に育てられる事もある、絡みついていた木は取り除かれ残
ったそれは、神秘的な美しさを持つ。
「久々に相手してくれねぇか?」
ボルテはいつもと違う雰囲気を身にまとい、目の前の青年に誘いをかける。
「遠慮するよ。お前とやるんじゃ訓練にならん」
「ふぅ、なら一つ賭けをしよう。勝者は敗者に何でも一つ質問ができる。答えるかどう
かは別だがな」
この場の空気は、既に殺し合いのそれそのもの。仕掛ける方も受ける方も一言一句、
所作の一つまで気を張らなくてはならない。
「そんなに、俺に質問させたいか?」
青年は、前髪をかき上げ目を細める。右手は常に腰の獲物へと添えられて。
「わからんぞ。前の時は勝負がつかなかった上にお互い欠片の実力も出さなかった」
「受けるしかない、か」
「そうだ。やっとできる」
「本当の食い合いをってか? ほざけ」
二人の装備は瓜二つ。兵士として支給された小剣と丸盾、軽鎧のみ。ここは練兵場、
時は昼間だが他の者たちは食事をするか仕事中。ぶつかり合いには
適した空間。
初撃は同時。斜め上段から振り下ろす基本的な剣技は、お互いの実力を悟らせるに
十分だった。交差した剣を挟み、二人は静かに笑う。
「見た目に反して、真面目で素直な剣だな」
「お前は、想像以上に荒々しいな」
後の先、先の先。読み切った方が勝つという、兵士という雑多の枠組みには収まり
切りようのない駆け引きは最早芸術。
「お前の、仕込みはある程度察している! だが意図がわからん」
「わからんだろうな。わかるはずもない」
「ほう? 優しいこった。目的は近いんだろう? 手を組むってのはどうだ?」
小剣といえどもかなりの重量があり、切るというよりは叩き潰す鈍器のようなもの。
ましてや軽鎧とはいえ、金属とぶつかれば刃がつぶれる。その
衝撃による疲労は重い。
「これだけの実力だ。ここの兵士長、いや近衛だって相手できるだろうよ。損はない
はずだ」
空中に数本の髪の毛が舞う。ボルテは荒々しく、猛々しく音を立てる心臓を煩わし
くも心地よく感じていた。
「損はない、か。」
「ああ、無駄に手間を増やすのは俺たちのような仕事じゃ御法度だ」
「確かに」
剣は走る走る。まるで会話と戦闘の脳とで二つあるかのような光景。
「だが」
一瞬青年がボルテの視界から消えると、真下の死角からまっすぐ突きあげる。
「お前とは手を組めないな」
「なるほど」
青年の首元にも、ボルテの靴から伸びた暗器が当てられる。
もう会話は続かない。二人の思惑は交わらず、ぶつかり続けるのだと最も重要なそ
れを確かめられたから。
青年の指には赤い宝石のついた指輪が、怪しく輝いていた。
「お疲れ様」
甘ったるく、脳を痺れさせる香の中で女は男をいたわる。
「随分、目が見えるようになったんだね」
「貴方のおかげよ? フォール」
女は、媚びるようにねっとりとフォールの首筋を舐め上げながらじっと見つめる。
「そろそろお祭りかしら」
「そうだな、数日と経たずに夜空に花が咲くだろうな」
「あら、楽しみね。でもその日はきっと、あなたとの約束の日。そうよね?」
ベッド脇の台にある、安いワインに漬け込んだチェリーを手に取る。
「これ、嫌いなのよね。下品で臭くて、甘くもない。女を喜ばせる要素が何もないの」
「だが、食べてみたいという欲求は確かにある、と?」
「ええ。もしかしたら時間が経って美味しくなっているかも」
黒々としたワイン滴るそれを口に運ぼうとするが、思い出したようにグラスのワイ
ンを飲み始める。
「安いワインも美味しくなるのね。チェリーの香りと甘みをその身に出させて、より
美味しく頂けるようにする。可愛くも醜いわね」
「チェリーは?」
「もっと、甘くて大きくて、香りもいい私好みの者がそこにあるのに、いらないわ」
「すっかり、舌が贅沢を覚えたようだな」
ここは非合法の娼館の中の一部屋。フォールのつてで借りられた、秘密の部屋。こ
こは世間には見せられない、金持ちどもの遊び場。
「私を置いていくの?」
「すまないな、こればっかりはどうしようもない」
「この女ったらしの、最低男。お姉さんも大事にしないと」
「最低男の沼から抜け出せない女は、少しばかり調子に乗っているようだ」
「あら、いけない?」
女は男の匂いを嗅ごうと、掛け布の中でもぞもぞと動き始める。
「そんなことはない。お調子者は釣りやすいからな。それに、お仕置きが捗るっても
んだ」
「最高」
「ああ、チューレリア様。愛しき君」
可愛らしい少女は目の前に旦那がいるにもかかわらず、ここにはいない想い人で快
楽を貪る。
「ああ、クリィン。早く君の中に飛び込みたい」
立派な髭の中年は目の前に妻がいるのに、やはりここにはいない思い人でポエムを
作りながらいたそうとしている。
「おい、出るぞ、開け」
「はい、どうぞ」
これが、結婚初日から続く二人の夜伽。お互いでは立たず濡れずで始まらぬ。だが
子供は作らなくてはならない。
「はあ、気持ち悪い」
「さっさとその汚いものをしまって出て行け。私は忙しいんだ」
「はいはい、畏まりました」
決して美しくない。貴族としての悲しい面がここには表れている。しかし、生物と
して子孫を残さなくてはならないという本能に逆らっては
避けられぬ現実。
「もうすぐだ。花はもうすぐで満開だ。あの男もうまくやっているようだし、ふはは」
この貴族は、机の上に広げられた報告書を何度も読み返し穴がないか確認する。す
べては、己が欲望の為に。
出て行った少女は、クローゼットの底板を外しそこに大事に保管されている布を取
り出し陰部に当てる。
「我慢よ我慢。あの家が潰れて、あの方を私が助ける。囚われた姫は私に恋をして、
死ぬまで幸せに愛し合うことになるの。うふふ」
似た者同士故に反発するが、協力したときは強い。二人の我慢は限界へと近づいて
いる。
「お帰りなさいフォールさん。今日は遅かったですね」
女はにこりと微笑みかける。恋する乙女のようで、貞淑な妻のようで、真面な男な
ら緩まずにはいられないそれを向けた相手は
真面でない男。
「約束を果たす時が近づいてきた」
「本当ですか! 嬉しい」
素直な女は、見た目より遥かに幼く見える。
「あの日の約束。この国を出て、どこか静かな農村で一緒に暮らす。死ぬ間際だった
娼婦の私を助けてくれた救いの言葉。一瞬たりとて忘れたことはございません」
ぽろぽろと止まらぬ涙を拭う女は、ゆっくりと頭を下げる。
「俺だって同じだ、忘れたことはない。俺は契約は守る」
「けいやく? ともかく、家に食事に服、言葉遣いまで教えていただいて、感謝しき
れません」
「そうか、ならよかった」
「はい!」
「しばらく帰られなくなる。寂しいだろうから、今夜一晩抱いてやる。それで我慢し
ろ」
フォールは作業的に女の服を脱がし始める。
「だ、だめです。いえしていただくのは嬉しいんですけれど、その」
「なんだ」
「臭い、ので」
女は恥じ入るように、か細く訴える。
「かまわん」
荒々しさを受け止める女はあまりの喜びに涙が止まらない。例え約束が嘘であって
も、今のこの幸せを守れるのならば馬鹿な女になる。その覚悟まではフォールは感じ
ることができない。
隙間だらけのこの家では音は駄々洩れだ。隣の家でも小さい喘ぎ声までしっかり聞
こえる。しかし、文句を言う者はいない。夫婦のように見えるのに
初めて聞こえるそれを誰が止められるだろうか。寝るに寝れぬ周りの家々では、その
声に当てられ乗ってしまう者もいれば、明かりに使うオイルの消費に嘆く者もいた。
権謀術策渦巻く政治の世界においても、欲望は人を狂わせる甘美なる麻薬。いかな
る賢人でも、欲望には勝てない。とりわけ性的欲求は、生き物である限り逃れられな
いもの。恋とはどんなことをしても理由になりえる便利な感情。
想い人を手に入れるためならば、騙そう、殺そう、嵌めよう、死のう。およそ生物
として間違えていることでも、正当化してしまう強力な兵器。
兵器は使い手によって効果は千差万別。恋愛という兵器もまた然り。男も女も関係
ない。人の心理を学べば、人形劇のように決まったストーリーを歩み進めさせること
も可能だろう。だが、それを生業にするには人の心の脆弱さが邪魔をする。鬼になら
なくてはならない。
「なあ、聞いたか? ある貴族様が喧嘩を吹っ掛けているんだってよ」
「そんなのスラムのガキが飢え死にするくれぇ毎日のこったろ? それこそスラムの
ガキが貴族に見初められたぐらいの話じゃなきゃ安くできねぇな」
「いやいや待ってくれよ旦那、その目的が面白いんだ。奥さんの土産話にすりゃ、そ
りゃ喜ばれるぞ」
男は目の前のパンの匂いを嗅ぐ。
「女は鼻がいいけどな、この話はさっき聞いてきたばっかの出来立てほやほや。うま
いぞぉ」
「それだけじゃな」
「憎いねぇ、旦那。いいだろう少しだけだ。目的は言えねぇが、理由は言える」
「なんだよ?」
「恋、さ」
パン屋の旦那は興味が魅かれたとばかりに、男の持つトレイに一つパンを置く。
「なんでも、吹っ掛けた相手の奴隷が大層可愛くてな。話したこともなく一目ぼれだ
ったそうな。だが、その奴隷の主人は妻よりも大事にしてるもんだから、金で解決で
きず、怒り狂った」
「それで喧嘩ってわけかい」
「ああ、もうすぐだって噂だぜ」
「情報源は?」
「そりゃ無理だ。義理は果たさねぇと俺の首が飛ぶぜ。じゃ、ごちそうさん」
薄汚れた少年は、スラムの仲間たちとの賭けに負けて淫靡な香り漂う小綺麗な建物
の裏口へと来ていた。
「こんなはした金じゃ、握ってすらもらえねぇよ。大人はいいな、早くなりてぇぜ」
スラムの子供ですら、楽しみは女を抱くことばかり。時期を迎えればそこらにいる
貧乏な女になけなしの金を握らせ快楽を貪る。だがいい女は大人や力のある女が独占
するため、満足にいたすことができず毎日悶々としている。
「中だけ覗いて帰っちまお、ん?」
隙間から中を覗き、耳をそばだてる。
「あいつ、可愛いくらいに夢中だよ。流石僕だね」
「いやはや、この店の元トップ男娼の君なら当たり前だろう?」
高めと低めの笑い声が聞こえる。
「ベッドの上で何でも喋ってくれるよ。金の事、人の事、裏の事。ふふ」
「恐ろしいねぇ。かの有名な傾国の美少年にも届く勢いじゃないか」
「はぁ? ふざけんなよ。あいつは僕より何年も後に入ってきたんだ。場所さえしっ
かりしていれば、僕の足元にも及ばないさ」
「ああ、そうだな」
薄汚れた少年は、きらきらと華やかな衣装を着た色気のある少年を静かに見つめる。
「そうさ、僕はこんなところで終わるような玉じゃない。もっと凄い奴らを手玉に取
るんだ。あんな奴らで終わってたまるか」
「怖いねぇ。女が怖いのは十分わかっているが、男も捨てたもんじゃない」
「ふん。今回の分け前は7・3だからね?」
「ふざけんなよ? 小僧。誰のおかげで仕事ができてると思ってる」
「そっちこそ、誰のおかげで首がつながってる?」
「くっ」
窓を隔てて世界が違うと、そう理解していた少年は、思ったより差がないのだと気
付く。
「それに、僕みたいな光がないと虫は寄ってこないよ? あれみたいにさ」
もはや境界はないのだと少年は溶け込むように部屋へと入り、光を見上げる。
「君は才能があるかもね。無くても僕に身を任せれば、食うに困ることなんてないよ。
さあおいで、ここが君のいるべき魔窟だよ」
一度嵌まったら抜け出せない。金と性の快感に取りつかれた仕事人は特に。
吹く風によって篝火が揺れる。
「これだから嫌いなんだ」
数個の篝火の炭からは黒い煙と不快な香りが発生している。
「さて、仕事だ」
顔を隠したりはしない。その髭面は特徴的で忘れられないものだが、流儀は通す。
「いつ、ぶつかるか、それが問題だ」
目撃者は皆殺し。女だろうが赤子だろうが、首を描き切って黙らせる。
「恐らく、ガキは大人しくついてくる」
ボルテは自分の腕を力強くこする。
「あの兵団から逃げ出すのとどっちが楽か。旦那でもわからねぇ、なんてな」
屋敷の中でもとりわけ豪華な扉の前で目を閉じる。
「音は無し。気配も、か」
音を立てずに扉を開けば、目の前にイヤリングとペンダントを付けた可愛らしい奴
隷が立っている。
「来い」
「随分と遅かったじゃないか。新しいご主人様に早く会わせておくれよ、寂しいんだ」
奴隷は手を後ろに回しもぞもぞとする。
「悪いが俺はそういう趣味はない。黙ってついてこい」
ボルテが歩く後ろを楽しそうについていく。
「男は皆最初そう言うんだけど、なんだかんだ愛してくれるよ。君だって例外じゃな
い。可愛いもんさ! ちょっとなよなよして潤ませて、上目遣いで一言」
奴隷はボルテの横に並び歩く。
「もう我慢できません、お情けをご主人様」
二人は足を止め見つめあう。見下しつつ口を開いたのはボルテ。
「碌な死に方しねぇぞ」
「わかってる」
廊下は怖いほどに静かで、季節に反して寒々としている。
「これはこれはチューレリア奥様、ご機嫌麗しゅう」
そんな廊下の中、違和感なく立っていた女性に大仰な挨拶をする二人。
「早く行きなさいな。私は眠いの」
「そのような格好で仰ることでしょうか? さぞかしお楽しみだったのでしょうね」
チューレリアは、胸元が開きスカートには際どいスリットの入った真っ赤なドレス
を自らの体ごと抱きしめる。
「ええ、彼とは今夜が最後だったから激しいのをお願いしたの」
「おや? 驚かれないのですね」
「私にも腕くらいついてるわ」
「それは、彼でしょうか?」
「どうかしら? って誤魔化してもいいけれでそんな必要がないからきちんと否定す
るわね」
奴隷は置いて行かれていた。こういった言葉の戦いはしてきたつもりだが、いかん
せんフィールドが違う。
「ほ、時間がないんじゃないの? 旦那が来るわよ」
「それはそれで手間が減って楽なんですがね」
ボルテは奴隷を見る。
「ま、行きまさ」
チューレリアは、目をこすりながら部屋へと戻る。
「あの女、あんな奴だったか? まあ、もう関係ない。行くぞ」
しばらく進み、中庭に出る二人。明かりはない。
「まさか、な」
二人の障害は暗闇と、たまに出会う通行人のみ。余りに楽な仕事に警戒心は拭えな
い。障害があり、それを乗り越えられればこれ以上の安心感はない。だからこそ、こ
れがメッセージのように感じてしまう。
「怯えろ、そう言いてえのか? フォール」
「旦那、今日はとびっきりのニュースだぜ? おまけ弾めよな」
「わかってるさ」
パン屋の暇な時間。どちらにとっても得になる会話は、なんとも楽しげだ。
「この前言ってた喧嘩なんだけどよ、結果がやべぇんだよ」
トレイに小さいパンが増える。
「何でも、売ったのはベリト家買ったのはロノウェ家。死人そこそこの事件になった」
白いパンが一つ。
「結果を言やぁ、勝ったのはベリト家。だが、中身は不思議なもんさ」
レーズンパンが二つ。
「貴族の家は兵士がたくさん。もちろん、死んだ兵士もいたがあまりに少なすぎる。
ほとんどのやつらは寝ちまってたんだとよ」
小さいパンのかけらが一つ。
「まぁ待ってくれ。死んだのは兵士だけじゃなくて、なんと」
レーズンパンが揺れる。
「主人。つまり、貴族殺しが起きたんさ」
レーズンパンとバターロールが一個ずつ。
「気になるかい? 犯人は分からねんだが、凄腕らしい。なんでかって? さあな、
聞いた話だ。それでな、無くなったものはその貴族の宝物」
バターロールが浮き沈み。
「どうせ捨てるんだろ、けちんなや。まぁ、男娼なのさ。そうさ、件の奴隷。今じゃ
ベリト家にいるって聞いたがどうだかな。今じゃその奴隷は爆弾さ。手に入れたやつ
は貴族殺しの大罪を背負うことになる。おっと、ありがとな」
湯をすすり一息。
「わからねぇことばかりだが、ベリト家は今、国の調査の対象さ。どんな埃が出るか
ねぇ。調査官は、厳格で有名なカルトン将軍だとさ。終わりかな? こりゃ」
陰からサンドイッチが姿を現す。
「そう来なくっちゃ。主人の消えたロノウェ家は、ケランの弟が仕事を引き継いでい
るそうだが、ダメだな。ポンコツすぎる。チューレリア様に夢中で、ほとんどの権限
を譲っちまった。まるっきり傀儡だな」
ドーナツが控えめに顔を出す。
「それ、大好きなんだ。その夜、唯一起きていた兵士が責任を被って斬首。今頃飾り
の準備してるんじゃないか。名前は、ファ?ファウル、だっけ。まぁいいや。まとめ
るとな、一人の男娼を取り合って、二つの家がボロボロになったっつーことだ。恐ろ
しいね」
山ほどの廃棄のパンを抱え、意気揚々と帰っていく男。
「あいつ、甘いの好きなんだな。贅沢者め」
「随分な手柄だな、ボルテ」
「冗談でしょ、旦那」
薄暗い屋敷。二人は簡単な食事とワインを囲み報告会を行う。
「踊らされただけでさ」
「ふむ。恐らくは本来の優秀さが出てしまったときの言い訳だったんだろうな、あの
表面は」
白パンに、よく焼かれたソーセージ、ポトフが湯気を立てている。
「キニちゃん、あいつの事好きだったんだよな。うめぇもん、これ」
「嫉妬か、珍しいな」
「違いまさ。ただ、それすら策略の内だったかもしれないと思うと、ねぇ?」
ボルテは一口ワインを含み堪能する。
「調べたのだが、キニという女はとんだ娘だ。もう既に他の優秀な兵士に媚び売って
食い物にしている」
「はぁ、怖いねぇ」
「フォール・スリゼコン。不気味な男だ」
「出身、年齢、家族構成、経歴、全部でたらめだ。名前だってどうだか」
「奴が仕込みに使ったのは三名。ロノウェ婦人、娼婦、奴隷商」
長髪の男は荒々しくソーセージを咀嚼する。
「奴は人か? 真面じゃない」
「全員、壊れたからな」
「色狂い、身代わり、無能。もはや人体改造だっ!」
強く叩かれたテーブルが小さく抵抗の声を上げる。
「何より、俺たちが慈悲をかけられたってのが気に食わねぇ」
「俺たちにも流儀がある。それを奴は分かっていない」
「分かっているさ、分かっててやらないんだ」
「意味が分からん。密偵、工作員、先導者、戦争屋、あいつらも持っている」
「どれでもないからさ」
「ふざけるな! だからと言って目標以外を壊すのは意味がない!」
「意味ならある」
「言ってみろ!」
「復讐さ」
長髪の男はボルテのいた椅子に座る青年を見つめる。
「ボルテは?」
「逃げ足の速い奴だよ。そもそもここにはいなかった」
「は?」
「あの男はこちら側の人さ。お前のような凡人とは違う」
「何を」
カタカタ。ろうそくが揺れる。今日は珍しく寒い風が吹く。
「さあ、今夜の晩餐会の材料は貴方様。料金は情報。最高の料理を提供いたします。
アミューズは、オドムスの眼球スープ。コラーゲンたっぷりなので肌が綺麗になりま
すね。アンティパストはオドムスの髪のサラダ、こちらはシーザードレッシングで召
し上がっていただこうかと思います。臭みは、多くの香草を使い和らげ旨味に変えま
す。同時にパンはいかがでしょう? 塩味が続く中、甘みのあるパンでリセットして
ください」
「嫌だ」
オドムスは脂汗を流し、必死に逃げる算段を立てようと努力する。実らない努力を。
「プリモピアットは、オドムスの足からだしを取りまして、濃厚なミルクと血をじっ
くり煮詰めたクリームパスタです。パスタは自家製でアルデンテな触感はきっとお客
様をウキウキさせる事でしょう。更に、柔らかくしたオドムスの爪の炙りを添えます。
貴重なものですが、贅沢に香りづけに使用します」
「頼む」
「セコンドピアットは、なんとフォアグラ。ではなく、より貴重なオドムスの肝臓を
赤ワインとアンツァレ、ルージャン・レオーノ、オドムスの骨の粉末、オドムスの
血、オドムスの尿を使った特製ソースをかけまして、コントルノには特別にオドムス
の陰茎の炙り、睾丸のフライ、さっぱりとしたフィアンノソース。あっ実はこのソー
スが私のオリジナルの物なのでございます」
「やだよぅ」
涙を浮かべ鬼を見上げる。
「ドルチェは、ブラッドジェラート。これは食べてからのお楽しみでございます」
「なんで?」
「貴方の事は全て調べました、ミスターオドムス。斡旋屋オドムス、界隈では幹部ク
ラスだとか」
「そうだ!」
血走らせた瞳は、狂いに狂っている。
「斡旋業だけでなく、後進の育成、スカウトにも力を入れていますね。ボルテもその
一人だと思い込んでいる、おっと」
「へ?」
「まぁ、彼から伝言を預かってます」
にっこりと笑った青年は楽しそうに語りだす。
「まあまあ楽しかったぜ旦那。だが、歩みを止めた事は罪だぜ? しっかり償うこと
だな」
「糞野郎め!」
「さあ、きりきり吐きましょう! 中身全部出しても足りませんよ? さあ、調理開
始です」
「甘いパンが好きなのは俺じゃなくて、隣の家のかわいこちゃんだぜ」
男は軽い足取りで住宅街へと帰っていく。
「喜んでくれるかなぁ?」
曲がり角に差し掛かって少し落ち着くと虚空に向かって語りだす。
「おいおい、この時間だけはいけねぇ。許されねぇな、いくらあんたでも」
「分かっている。だが、これだけ聞きたい」
「あの日の首の正体か?」
男は顎に手を当て、記憶の海にダイブする。
「確か、お姉さんじゃなかったか?」
この時間はいつ襲われてもおかしくない。例え、人通りの多いこの道であっても。
「早く見たいなぁ、あの子の笑顔。おっと忘れないようにっと」
男は袋を拾う。
「いやはや、偉い人はめんどくせいねい」
フォールはチューレリアに性的快感と世界の知識を渡し、チューレアは夫であるケラ
ンの弱みを専属の密偵に依頼しフォールに渡す。
酒場で一緒に飲んでいた先輩兵士は他の貴族のスパイで、得た情報を主人
より前にケランに売る。
ボルテは、今仕えている貴族より前にフォールと接触し契約を交わして、ロノウェ子
爵家を弱体化させる手伝いをしている。
フォールの目的は、ケランとボルテの抹殺。ロノウェ子爵家とベリト子爵家の弱体化
ケランは、戦神の狂信者で、実力至上主義者。ボルテは、未来主義者の抹殺の命を帯
びた暗殺者。
ボルテを雇っているベリト子爵家の目的は、ロノウェ子爵家の弱体化。
フォール・スリゼコン
仕事は門番。若手のホープで、腕前とその性格から同僚や雇い主である貴族にも好
かれている。
ベーシックなショートソードとラウンドシールドを持っている。(支給品)
種族はエルフ。年齢は150歳程と申請している。
家族は、足の不自由な姉が一人。(貧乏娼婦を雇い生活の補助をする代わりに、演
技をしてもらう契約。足は本当に不自由、フォールが腱を切った。
契約が終わったら、国を離れ結婚するという口約束をしている。女はフォールに
一途である。)
雇われた経緯は、ある魔物討伐の時に私兵(雑用)に欠員が出た為、一般募集がか
けられたので応募。様々な試験を通り合格。先輩兵士のお世話からスタート。
屋敷に来た少数の盗賊を一人で捕縛。その功績が認められ、雑用から卒業。屋敷内
警備になる。
領地に入ってきた危険な魔物とフォールを含めた少数で撃破。その功績が認められ、
王都の屋敷の門番に抜擢。
ロノウェ子爵家 家紋 開いた本の文字に口のイラストが描かれている。(口文本紋)
ケラン・ファ・トルズス(T)・シングル・ロノウェ(ロノウェ子爵)
チューレリア・クインティプル(Q)・ナベリウス・リリス・ロノウェ(ロノウェ子爵
第一夫人……ナベリウス家5番目の子供)
ベリト子爵家
ジャノレス・ファ・マルコシアス・シングル・ベリト
シェルリリー(白百合)・