憂鬱 原案2
13話
未だ片付かないリビングにて座っている三人。
「おはよう。」
「おはよう、母さん。昨晩は…眠れなかったようだね。」
「ええ。」
レオナの目の下には、うっすらと隈が浮かんでいる。対するフィスとウォルはしっかりと寝た為か、はつらつとした表情だ。
「結論から言って…、ウォル・マーシャルさんの妻になることに決めました。」
「そりゃあ、良かった。」
「けど、勘違いして欲しくないのは、私は貴方を利用する。それは、此処に宣言するわ。」
レオナは、少し余裕を持った視線をウォルにぶつける。
「私に足りないものは、知識、経験…認めたくはないけど、偏った愛情。それを貴方に教えてもらう。つまり、フィスの成長を手伝ってもらう代わりに相手をしてあげる。体も許してあげるわ。三十路だけど、立派な生娘。性技はしっかりと仕込まれたわ。満足させられる。」
「楽しみだな。けど、フィスが望んでいたあんたの幸せはどうすんだ?」
妖艶に笑う女がそこには居た。
「あら?男を知らない女一人満足に幸せにできないの?…ふふ、気付いたのよ。フィスの姿からね。用意されたものを食べるより、自分で用意した方が良い場合もある。つまり、私の幸せはあなた次第よ、ウォル。」
「辛辣だねぇ。結局…なんだ、小僧が一番か。」
「何を言ってるの?当り前じゃない。フィスの為に全てを捨てる覚悟をしていたのよ。」
「おいおい…。」
「母さん、それは間違ってると思う。捨てるのに必要な覚悟なんてたかが知れてるよ。」
「え?」
「抱える覚悟。主人と従者、生と死、破壊と創造。すべての責任を負う覚悟が一番辛くて大切な物じゃないかな。月並みな言葉だけどね。母さんは、最初に見せてくれたよね?僕という命を抱える覚悟…そして、この社会において無能と罵られても言い返せないほどの無才を抱え育て上げた。」
「それはね、はっきり言えば、女としての自分、社会における自分…様々なものを捨ててきた結果に過ぎないの。それに縋って、今まで生きてきた。」
「母さんにとっては、そうかもしれない。僕にとっては、それが全てさ。大切な…大切な母さんが、多くの物より僕を選んでくれた事実が、僕に愛情を感じさせてくれる。けれど、僕自身はそこで止まってしまってはいけない。それを気付かせてくれたのが…ウォル。」
「おう。」
「母さんには、反抗的な態度をとったよね?僕にとってあれは必要な儀式だった…そう思うんだ。あんなことを言った後、凄く後悔したよ。傷付けてしまったかもしれないってね。後は…潜在的恐怖があったと思う。母さんに捨てられたら死ぬって、動物としての本能と幼く弱い餓鬼である自分が訴えていたんだろうね。」
「だから、強くなるって言ったのね。私という束縛から逃れて自らの脚で立つために。」
レオナは、仄かな笑みを向けつつも悲し気な感情を隠さない。
「一つ、言わせてもらおう。」
ウォルが、空気を変える様に大きめな声を出す。
「母親は、心が強くならなきゃいけねぇ。子供は一分一秒止まらずに変化し続けるからな。そこで、一人じゃ出来ないことがある。相談だよ。男親は男の子の気持ちは大体わかる。女の子はこの逆だがな。お互いの意見をぶつけ合って最適解を出す。それが子供の為になるか、子供に感謝されるか、そんなの博打と一緒で考えても始まらない。やるっきゃない…って『教師』から聞いた。」
「あら?貴方の考えではないの?」
「これも、俺の考えの一つさ。所詮、全ての考えはどこかで聞いたものだよ。」
「そういうことにしてあげる。そういえば、貴方が悪役で私が味方というのはどういう意味なの?」
「それはこれからわかるぜ。」
「それにしても、昨日とは凄い変わりっぷりだな。」
「ええ。子供の成長って分からないものよね。ついこの間までよちよち歩いて、立ったと思ったらもう大人。…あの子はね、不思議な子なの。赤ちゃんの時はよく泣いたけど、少し経ったらすぐに理性的になって、文句ひとつ言わずに言う事は聞いて気も利かせて、そして私の嘘とかもわかっている。あの子は、幼いながらにして自分というものを持っている…そんな気がするわ。だから、忘れていたのかもね…子供というものを。例え…知識だけだったとしても、ね。」
「そうか…それは普通の親より大変かもな。子供の本当の気持ちに気付きにくい。」
「ええ、でも昨日感情のぶつけ合いをして安心したのよ。これが…これが普通なのよねって。」
「ふっ。なら、演出した甲斐があったぜ。」
連日連夜、山の中で数多くの木が倒れていた。それらは、横から潰されるような形で折れている。しかし、全ての木々は間引きに必要な分として折っているので環境への問題はないであろう。今日も、日が出て間も無くの内から鈍い音が響く。
「ふぅ、ふっ!」
右足の横蹴り。時折足を変えて、木を左右から蹴り潰す。
「はぁ、はぁ。っ!」
フィスの身体は、木を蹴り続けているのにも関わらず傷を負った様子がない。修行着として着ている何の変哲もない半袖シャツに、半ズボン。見えているところでも多少筋肉はついているが、見た目では町民と変わらないであろう。
「なんで、まだ技の修行をしないの?」
「まぁだ早いな。」
「なんでさ!」
「剣や斧を使うために必要な筋肉を鍛えるのに素振りをするが、そもそも持つことができる筋肉が無いのに素振りをしようとすれば、体を壊す。」
「理屈じゃわかるけどさ…。」
右足の蹴り、左足の回し蹴りからの、左肘での突き…そして大振りの右の突き。若い木は音を立てて倒れていく。
「何本目…だっけ?何十?かな?」
「フィス、来てるからそれを倒したら、家に帰っていいぞ。」
「りょーかい!」
「ただいま、母さん。」
「お帰り。今回はどんなことしたの?」
「聞いてよ母さん!ウォルの奴、全然技とか教えてくれないんだよ?組み手もしてくれないし!」
「そうなの。じゃあ、後で少し組み手でもしようか?母さん、フィスがどのくらい強くなったのか知りたいな。」
「いいよ!」
二人は、軽くお腹に食べ物を入れてから外に出て向かい合う。フィスは、かつて自分を教え強さの象徴であった母との組み手に、心を躍らせていた。一方レオナは、フィスと会えない時間を寂しく思い、酒こそ飲まないものの軽く狩りをして、後は家で過ごす日々を送っていた。
(多少は感覚が鈍っているかもしれないけれど、負けることは無いわよね…無い…わよね?)
何を合図としたか、二人はゆっくりと近づいていく。素早い攻撃を仕掛けるフィス。右手の貫手と同時に右足による前蹴り。
(くっ。)
何とか避けるレオナ。フィスは次々と追撃を繰り出す。まだ荒いが、今までよりも一撃の重さが遥かに違う。
「ふぅ、見た目に騙されそうね。」
「そうなんだよ、見た目は筋肉無いのに意外と力が出るんだよね。」
腕を曲げ、力こぶを出そうとするが、見た目では変わらない。
「ダメね。はっきり言って、このままじゃ負けることは無くてもまともな組手にならないでしょうね。ごめんなさい。」
「ううん。それより久々に母さんのご飯を食べたいな!」
「ふふっ、まかせて。飛び切り美味しいのを作ってあげる!」
その日は、夜遅くまで様々な事を話し過ごした。楽しかったこと、辛かったこと、悩んだこと…レオナは親身になって聞いていた。例えば、ウォルの技をいくつか盗んでやって、それを見せた時の驚いた時の面白さは、興奮しすぎて夜眠れなくなり次の日の修行が大変だったこと。木を蹴り続ける修行では、涙を流し鼻水を垂らし、足から流れ出る血の臭いを嗅ぎ付けやってきた獰猛な魔物に命の危機を感じたこと。一向に修行内容が変わらず面白くない日々を送らされ、本当に自分は強くなれるのか…不安が過ぎらない夜は無かったこと。話の中で、自らを生き生きと語る姿を何と美しく逞しいものかと、しみじみ思うレオナ。レオナを悩ませていた、不眠症とアルコール依存症はこの日を境に治るのであった。
「まさか、こんなに変わるとは思わなかったわ。流石と言うべきなのかしら?」
「そんな事ねぇさ。大した事はしていない。」
月光が雲に遮られ、天井の弱い魔法の光が良く目立つ。男女は、テーブルにて向かい合うようにそれぞれコップを傾ける。透明のグラスに入っている物はワイン、その色は光の反射によって宝石から赤の薔薇…赤の薔薇から宝石へと移り変わる。
「美味い…な。随分な代物だろ?」
「ええ、そうね。」
会話が弾まない。しかし、お互いにそんな雰囲気を楽しんでいるような…そんな表情をしている。
「フィーは、大人しく聡明で、優しく気配りができて、素直で真面目。心配なんかまるでしていなかった。ただ、私が…あの子を失うことに恐怖を覚えていた。だから知ろうとしなかった。あの子の抱えている物に…。」
「そう…だな。」
「もう少し早く、こうすれば良かったのにって今になって、酷く後悔しているわ。」
レオナの顔に影が差す。
「俺の口からは、もう何とも言えん。後は、あんたとあいつの問題だ。」
「…そうね。」
カタカタっと、風が戸を揺らす。レオナは、大きく胸元の空いた薄い服を直すようにもぞもぞと身体を動かす。その豊満な胸は、寄せられたり揺れたりと忙しいように見えるが、それは男を誘う娼婦のように、いやらしいものではなく…薄い服を着ている時点でどうなのかと思わなくもないが、美しいものである。数々の女性を抱き、女の色気には耐性のあるウォルだが、そんなものは関係無しだと、興奮しこの後のことを想像してか、心臓の高鳴りと感情の高ぶりを押さえるのに精いっぱいで、いきり立つナニに気付いていない。
「その…なんだ。報酬は…貰えんだろうな?」
「当り前じゃない。私の初めては相当高くつくわよ。多くの貴族、大商人の誘いを断った穢れなき物。これからもよろしく頼むわね。」
ようやく整った服を、するりと床に落とし肌を晒す。下着は身に着けていないようだ。ウォルが、頭の先から足の先まで舐めまわすように観察をする。水浴びをした後なのだろう、黒のストレートの髪がしっとりとしていて、ふんわりとした花の匂いが漂う。肌は年齢を感じさせない、少女のように瑞々しい。しかし、女の象徴である双丘は大きいのだがだらしがないほどでもなく、張りがあり先端は上向きになっている。
「今夜は、子供がいないわ。ゆっくりしましょう?」
「お、おう。」
月明かりが、雲間から射し穢れなき絹が如き女神を飾る。女神は、目の前の雄へ手を差し伸べ、寝室へと誘う。
「エスコート、してくれるかしら?」
「う、うす。」
立場はまるで逆。緊張を解し、隠すために程よく酔った女と、緊張のあまり酔いが醒め何から始めればよいのか分からなくなった男。しかし、お互いに本能で分かっているのだろう。何も言わずとも、次第に息が合い嬌声が上がる。男は、今この時を逃すまいと激しくし、女は、男の興奮を優しく受け止める。今この時、二人が一つに溶け込み、雌雄と化す。
破瓜の赤は、どのような酒よりも二人を酔わせた神酒であろう。
「いってらしゃい。気を付けてね。」
「うん、行ってきます。」
フィスの朝は忙しい。自分の分とウォルの分の獲物を狩り、料理する。その後、家で使う水を川から運ぶ。ウォルは何をしているかと言えば、適当に魔物の間引きをして、ほどほどに厳しい修行環境を作っていた。最近の修行は、魔物を倒して食べ、組み手をし、また魔物を倒して食べるといったサイクルになっている。フィスは、着実に実力がついていることに喜びを感じ、レオナに楽しそうに話をする。そんなある日のことだ。
「母さん?」
静かに倒れこみ、口を押さえるレオナ。顔が青くなり、一目で貧血になっていることが分かる。
「母さん!」
「大丈夫だ、フィス。」
「なんで!」
フィスを落ち着かせるウォルに対して、苛立ちを隠せない。
「つわりだよ。知ってるだろ?」
レオナの、僅かに膨らんだお腹を撫でながら問いかける。
「え?」
「お前は、お兄ちゃんになるって訳だ。」
「…は?」
「喜べ!今夜は、修行休みで栄養のあるもん食べるぞ!」
その日は、祝いだ!と、とにかく騒いだ。新しい命に栄養が行くようにと健康にいいもの、精のつく物、温まる物、等々心温まる光景が広がった。
時は少し遡る。
「ふむ、報告にあったものは聞いておるな?」
「はい、父上。」
「ならば行け、お前の、将としての初陣だ。期待しているぞ。」
「はっ!」
ニヤリと笑い犬歯を覗かせる壮年の男と、それよりは若い軍服を着た男。両者に共通している点は、耳が獣のそれであるという事であろう。
「必ずや、ご期待に沿った結果を持ち帰りましょう。」
幸せな家庭に、不幸の嵐が訪れようとしている。
「この、サレオス家に!」
14話
レオナがつわりを起こし始めてから、八カ月程経った。安定期が過ぎ、現在妊婦にありがちな貧血などを起こしているが、知識のあるウォル曰く、このままなら問題なく出産まで至れるだろうとのことである。しかし、フィスにとっては初めての経験であり、毎日健康を支える薬草をメインとした食事を作り、修行の合間を縫って狩りや家事をして、レオナに対する態度は最早過保護になりかけていたのだが、ウォルの諫めによりレオナがストレスに感じることは無かった。
「母さん、子供の名前はどうするの?」
玄武の季節、つまり冬なのだが、彼らがいる場所は山であり標高が高い場所にて生活している。即ち、非常に寒い。外は雪が積もり、狩りに出かけることは無く、ここしばらくは保存食である。
「まだ、決めていないのよね。あの人が帰ってくれば考えてくれるのだろうけれど。」
「ウォル…父さんは、いつになったら帰ってくるんだろうね?」
ウォルは、ギルドの要請により遠出をしている。世界でも隠れた実力者として、一部の上層部に知られており、今回の依頼は恩人からの物で断るわけにはいかないと、四カ月ほど前に旅立った。
「帰ってこなかったら僕が決めちゃっていい?」
「ふふっ。いいわよ。」
レオナは、信じられないくらいに幸せである。まさか、フィスとこのような会話を交わすことになるとは…と。幼さが残る顔だが、徐々にエルフとしての…ハイエルフとしての特徴が目立ってくる。愛する息子と、夫。そして、お腹にいる我が身の分身。しかし、身に余る幸せに毎晩不安になる。何かが…何かがこれを壊してしまうのではないか。その原因が…。
「ふぅ。」
「あ、お茶淹れてくるね。」
(産まなくてはいけない。そんな気がしてならない。このような時ばかり、頼ってしまうのは申し訳ないとは思います。しかし、子供たちだけはお願いします。サンミラ様。ルナミラ様!)
悲劇。それは、人生において必ずある物。誰もが経験した、もしくはこれからするモノ。運命に守られたものは、悲劇を喜劇へと変えてしまうのだろう。それこそ、物語の王子さまやお姫様のように。しかし、守られていないものは?その結果は、この世の誰も予測することは叶わないだろう。
悲劇、それは物語を引き立てるスパイス。あるのと無いのとでは、深みが変わってくるだろう。
さて、レオナの願いは彼の神達へと届いたのだろうか。そして、叶えられたのだろうか。この星ファザームにおいて、神という存在は地球のそれとは違う。信仰による結果、奇跡が起きることは同じなのかもしれないが、神がその姿を見せることが多々ある事は違うだろう。実際に私は、ファザームに存在している生物に強い興味があり幾度も下界へと降りている。時には神殿にて。時には、寂れた村の教会にて。珍しい時は、俗にいうスラム街や墓場であった。逆に最も多いのは戦場だろうな。戦や力などを司る神々共が、願いを聞き届け気安く力を貸し与えている時は特にそうだ。
話題が逸れてしまったが、つまり何が言いたいか…というのは、何となく分かるのではないか?我ながら、下界の影響を受けすぎたかもしれん。
最後に、この事は恐らくは奴の仕業であろう。しかし、私に出来ることはした。後は思うだけだ。なるべく、穏やかな結果になれば…と。
スティージャの日記より
レオナは、ほぼベッドの上で生活をしている。細かいことはフィスがやってしまうので、産まれてくる子供の為に小物などを作り暇つぶしをしている。
(嫌に静かね…。)
現在フィスは、予備の薬草と清水を採ってきている。どちらも冬でしか採れない貴重なもので、長持ちもしないので、雪の中探しているのだ。
(嫌な予感がする。清水は後!)
フィスは、首筋に走った悪寒を信じて木々の合間を縫うように疾走する。
「うっ!うー!」
レオナが急に、苦しみだす。陣痛である。予め、一通りの知識をウォルから教わっていたので混乱することは無かったが、あまりの痛みに気絶しそうになる。
「ぐっ、うっ、はっ!ぐっ!あっー!」
水のようなものが出てくる。破水である。
「ううぅー!がぁ…。」
必死に口に布を噛ませ、痛みに耐える。
「ううぅー!!」
「おいおい、こりゃあ…。」
レオナの部屋の前に、一人の男が立っている。レオナは、根性で腹に力を入れ赤子を出す。尋常ではない痛みに襲われるが、近くにあったきつけ薬を口に含み無理矢理意識を覚醒させる。
「あれ?そう言えば…、特徴を言っていたような?」
「はぁはぁ、誰よあなた!」
新生児を抱えたレオナは、意識が飛びそうになるのを唇を噛むことで耐える。出産自体は、短時間に、滞りなく終わったが、へその緒等事後処置をしなくてはならないところに得体のしれない男がいるので警戒をする。
「思い出した!黒髪に、泣きぼくろ。そして、とんでもねぇ美人。お前だろ、超優先殺害人物、コードゼロ。」
「なっ!」
「餓鬼は…それじゃねえよな?まぁ、半殺しにして聞けばいいか。」
「くっ!」
(やばいやばいやばいやばい!)
フィスは、本来の帰り道より遥かに遠回りをし時間がかかっていることに焦りを感じていた。
(なんで、人族の軍隊がいるんだ!)
そう、そこかしこに兵隊らしき者たちがいる為、気付かれないように走っている。何故なら、戦闘になれば、その音を聞きつけ余計時間がかかると踏んだからだ。
もう家は、目の前。漂う臭いから予測される事態を想像しないように急いで入っていく。
「母さん…。」
血だらけで倒れる母。抱えられた赤子に、剣を突き立てようとする男。
「貴様…。」
「ん?あ!そっちから来てくれたか、こいつなかなか吐かないからどうしようかと思ってたんだぜ。賞金首よぉ。」
レオナが倒れている。最早、助かりそうにないだろう。どのタイミングだったのかは分からないが、恐らく胎盤が出るときの痛みに気を取られあれだけの怪我を負ったのだろう。フィスは、自分が非常に冷静であることに気付く。
「お前は、俺を楽しませてくれるよなぁ?なあ!下向いてんじゃねぇよ!何年探したと思ってる!15年!15年だぞ!笑えるぜ。こんなやつらに、俺は…。まぁいい。少しずつ殺してやる。まずはその綺麗なおめめだなぁ!」
伏せていた眼を上げれば、目の前にいる敵。
(ああ、血が熱い。燃える様に。精霊も余りの怒り静かになっている。ああ、殺さなきゃな。)
「ほらほらぁ?どうした?怖くなっちゃたかい?ぼうぎゃばっ!」
男の口に二本の針が生えている。
「おじさん、安心して。楽しい死をあげるから。」
「ひっ。あっ!」
フィスの拳が、流星群の如く男の顔に吸い込まれてゆく。二発目以降から声は聞こえなくなったのだが、その拳は無慈悲に振るわれる。
「母さん…。」
レオナの美しかった黒髪はぼさぼさになっており、切り刻まれている。美しかったその顔は、鼻が潰れ目はくりぬかれ、歯は一本残らず抜かれ、舌も切られ耳からは血を流し、豊満な胸は抉られ、出産直後の陰部には白く臭い液体がかかっていた。
「母さん…。いつかこうなるって分かっていたのかな?母さんが何をしたのかな?なんで、母さんがこんな目に合わなきゃならないんだ?…、どうして涙が出ないんだろう。酷く冷静なんだ。」
フィスは、無造作に置かれている赤ん坊を抱える。
「お前の母さんが、死んだんだぞ。泣かないのか?」
「あう!」
「元気だなぁ。よく、生きててくれたなぁ。流石父さんの血を引くだけあるかな?」
「だー。」
「ははっ。そうだな、立ち止まってなんかいられないよな。まずは、弔いをしないと。ソロモン王国の愚者共の、阿鼻叫喚、地獄絵図、真っ赤な弔火より派手な、噴火をあげてやろう。お前は、此処で待っていろ。少しの間だよ。うん、いい顔だ。」
その者の顔は、およそ人のモノではない。ニヤリと笑った口から太く長い犬歯が覗き、その瞳は、らんらんと輝き、血走っている。
「やるからには、全力で行こうか。【魔力解放】!【精霊力装纏】!【霊魔導全開】!【狂】!【肉体制限解除】、【思考制限解除。】」
その物は、あらゆる色が混ざった黒き衣を纏いゆらりゆらりと、森の中を進んでゆく。
その山に、名は無かった。敢えて言うならば、近くにあった村が呼んでいた、恵山というのか。だが、ある日を境に正確な呼び名がついた。黒銀死狼の山。これは、のちに地図にて正式に書かれることになる。私は、唯一の生還者だ。兵士として、山狩りをしていた時に起きた災いの。
その時私は、先輩に水を持ってくるように言われ、近くにある小川へと向かっていた。丁度、水が切れかけていたのでたまたまだとは思うが、今ではその先輩に感謝している。いつも、私をパシリにして、切れると当たってくるような、酷い人だったが、毎日訓練が終わると、酒と女を奢ってくれた。そしていつも言うのだ。俺が耄碌して退役したら、取り立てに行く…と。今思えばそんな気は無かったのだろう。浮き気味な私にも積極的に話しかけてくれる、気さくでいい人だった。話が逸れた。その、綺麗な小川から帰ろうとした私は、本陣が騒がしいのに気付き、茂みに隠れながら覗いた。そこは、地面が見えないくらいに血が広がり、人の肉、脂肪、内臓、脳…余りの空間に、自分の全ての機能が麻痺したように思えた。そして、隠れている自分の目の前を通ったものに目を奪われる。それだけは覚えている。人型で、血に塗れ、先輩の頭を片手に持ったその姿で、この現状を造り出したのはこいつだと、思ったのを覚えている。
太陽の光が反射して煌く白金の体毛、気高い狼の顔。身に纏った、黒き衣は薄く靄の様で、私は、あるモノを連想した。悪魔…生温い。その上…魔王かもしれない…と。
風が、頬を撫でたかと思えば同僚たちが肉塊へと変わる。その蹂躙の様は最早芸術の域だと思う。股が温かくなっているのも気付かずに、見惚れてしまった。災いが去った後に、私は、大将の下へと向かった。直属の司令官もその上司も死体だったのでそれを辿って行ったら、大将の下へと辿り着いた。いや、大将であったモノ…か。大樹に括りつけられたその姿は、罪人の十字架の如し。(かの有名な武のサレオス伯爵家長男でこれだ。)()の部分は消されている。
私は、山を下り町へと向かった。何も持たずに来たので、道中草を食い走った。魔物など無視だ。そうして、私はこうして筆を執っているのだが、今になってこう思う。
わざと逃がされたのではないか?
と、な。大将の腹に掘られた文字は、『俺は鏖にするまで止まらない竜巻。血の雨は、やがて海となる。』…だ。文字は、誰かが読まなければ意味がない。それを腐りやすい人の体に?奴は、狼の顔だった。臭い等で私に気付いていたのではないか?ならば私は、まんまと踊らされたわけだ。ああ、私は後悔などしていない。あの方に殺されるまで生きなくてはならないのだから。私は、あの刹那の芸術に魅せられた狂人の一人だ。
マイク・フルーレンの日誌より抜粋
「何があった。フィス。」
「見たまんまだよ。父さん。」
ウォルは、悲しい顔を浮かべる。
「お前の口から、聞きたい。」
「母さんが殺された。目の前の敵を殺した。今は、この子の世話で精一杯ってところかな。」
フィスは、眩しい笑顔をウォルに向ける。しかし、ウォルは更に沈痛な表情になる。
「遅くなった俺が言えることではないと思うが…。その子は、俺が見ておく。外に出て、心を剥き出しにしろ。あと、戦闘態勢を解け。俺は、味方だ。」
「?ふふっ。わかった。よろしくね。」
フィスが外に出た後、ウォルは綺麗にされているレオナの遺骸を見て涙を流し耳を澄ませる。聞こえる音は、声にならないノイズ。きっと、喉が切れているのだろう。時折せき込むのが聞こえる。深紅なる感情に、どす黒い悪感情が、それぞれ渦巻き合わさっては離れを繰り返していく。森が、大地が、大気が震える。ウォルは、思い出す。高位森半精霊族は、精霊の最愛の子にして、最大の友。それが、悲しみに暮れたら?怒りに我を忘れたら?精霊は、諌めることを知らない。ただ、力を貸すのみ。故に、世に災いが起きる…と。
「フィス。此処を離れるぞ。」
「どこへ行くのさ?」
「魂喰族が、最期を過ごす揺り籠。名は無い。皆からは、ただ隠れ里と呼ばれているのさ。」
ウォルは、布に包まれたレオナの遺体を背負い、そして赤子を抱いている。
「そこで僕は、何をするの?」
「学べ。治せ。」
狂った笑みを浮かべるフィスに、そう答える。
「ふーん。分かった。時間はたっぷり…あるもんね。」
風が、不気味な音を立てる。夜に、女がすすり泣いている様な、そんな声。木々は強張る。およそ感情など持ち合わせていない筈なのだが、災いに目をつけられないように。子は母に縋りつき鳴き始める。群れのボスは、仲間を守らんと勇気を振り絞り災いへと毛を逆立て、牙を剥き、爪を立てる。
「そう言えば、この子の名前はどうする?」
ウォルは、腕の中にて静かな寝息を立てる幼子を見つめ問う。
「そういうのは、親が決めるものじゃないの?」
「そうだな。そうなんだろうけど…。」
「珍しく歯切れ悪いじゃん。どうしたの?」
「んー。俺さ、あと、何か月かしたら死ぬわけよ。」
「…は?」
「いや、まぁ詳しいことは隠れ里で話すけどさ。」
「なら、少しでも、その子に父親らしいことしてあげたら?」
「そうなんだが…。やっぱり、お前に決めて欲しい。そして願わくば、そのまま、面倒を見てやって欲しい。」
「・・・。」
ウォルは、珍しくその顔に悲しげな表情を浮かべる。
「頼む。」
フィスは、ウォルの真剣な、何かに迫られるような雰囲気に断ることができずに頷いた。
「…、なら、そうだな。フラウ…、フラウリア。フラウリア・ゼロゲート。」
「確か、リアはエルフの言葉の中でも特別な言葉で意味は幸福。幸せの花…か。センスあんな。」
フィスは、今までその身を包んでいたモノを霧散させ、慈しみに満ちた感情を持って幼子…フラウリアに笑顔を向ける。
「リア。今日から、君はフラウリア・ゼロゲートだ。よろしくね。絶対守るから。あらゆるものから、君を。」
フィスブラッドは、才能がない。それは、神の悪戯。しかし、諦めるという事だけは、神は奪い忘れた。いや、それもまた遊びのうちかもしれない。
フィスブラッドは、運がない。これも、神の悪戯。しかし、別の神は見放さなかった。運が良いのか悪いのか、それは運命を司る神ですら即答できない。
果たして、最後に笑うのは誰なのか。分からない。余りにも私の子供たちは自由に動きすぎる。
嗚呼、憂鬱だ。