代償
走り抜ける町並みはまるで電車内の車窓から外を眺めた時のように後ろへと飛び去っていく。もう随分と走った。二人の少女は相変わらず、魔法で攻撃してくることもなく、イツキをひたすら追い掛けて来ていた。
「畜生、あいつらいつまで付いてくる気だよ?」
「そりゃあ、いつまででも追いかけてくるだろうな。お前を倒せば、あっちは優勝。願望を実現できるんだから」
「んなこたあ分かってる!」
イツキは声を張り上げて当たり前のことを答えるアヴァロンを叱責した。
「敵さんとしてはそりゃあ、極力魔法を押さえて、失う記憶を最小限にしておこうって魂胆なんだろうがな。こっちはもう持たねえぞ。早い所サエを見つけて応戦しねえと、体の方が先に音を挙げちまう」
「体の方が先に、ね。そらあ、いいね」
クク、とアヴァロンは嬉しそうに笑った。黙れ、と言いたかったが、最早その体力はなかった。かといって、相手の魔力を足止めに使う気にもなれない。
イツキはこれまでゲーム攻略のためにあまり積極的に魔法を使ってこなかった。魔法少女の戦闘服は想像していたよりもずっと高性能で、殴打や蹴りなどの肉体攻撃は人間であった時の何倍にも強くなったし、人間とは比べ物にならないほどの跳躍力も得られた。元々、貸与物の武器がメイスと強力であっただけに、この戦闘服の力で増強される攻撃力の高さは戦った魔法少女たちと比較しても随一であったと自負している。
だがそうした攻撃力の高さを誇るイツキがゲーム攻略のために魔法の使用を制限したい、と言いだした時に猛反発したのがサエだった。サエは「魔法少女になったからには、魔法を使わなければ絶対に勝ち残れないよ」と言い、イツキに何度も魔法を使うように勧めた。
「なんでそこまで魔法を嫌がるの。どうせ、私たちのことは、誰も覚えててくれないよ。イツキ。あなたが、人間だった頃の記憶を覚えている人は、もういないんだよ。世界中のだれもかれも。あなたの友達だった人も、あなたの家族も、もうあなたのことを覚えてなんていない。あなたの唯一の肉親だったはずの、あなたのお父さんだって、もうあなたのことを覚えてないんだよ。そんな思い出、覚えていたって、悲しいだけでしょう? なかったことにしてしまった方が、いっそのこと楽じゃないの」
イツキが魔法を制限していることに我慢が出来なくなったサエは、そう言ってイツキを諭そうとした。しかし、イツキは首を縦に振らなかった。
「例え世界中の誰が私のことを覚えていなかったとしても、私の中にある父さんや皆との思い出は、むざむざ捨てていいものじゃねえよ。それがなくなる、って分かってるなら尚更だ。そんなことしたら、せっかくゲームをクリアできても、何も残らないじゃねえか」
これは、イツキが魔法少女になってからずっと考えていたことだった。このゲームは横暴とも言える理不尽な条件で回っている。まず、それがおかしい、と感じた。たった一つの上文を読むことによって無理やり規約に従わされる。姿を奪われ、記憶を奪われ、相手の魔法少女に倒されればその時点でゲームオーバーとなり、命を奪われる。ゲームに反すれば、魔女裁判に処されて、どんな罰を受けさせられるか分からない。その癖、ゲームをクリアしたところで与えられるのは、記憶の復活以外での願いの実現のみだ。イツキはその悪条件の中で自分たち魔法少女が何か得られる利益があるとは到底思えなかった。そしてその不安は、戦闘を重ねれば重ねるほどに、どんどん強くなっていった。
「なあ。サエ、ひとつ聞くけどよ」
ある日の戦闘が終わった後、イツキはサエに尋ねた。
「お前、自分がいつから戦ってるのか、覚えてるか」
「いつ、って」
サエはこともなげに答えた。出会った時と同じ、純真無垢な笑みを浮かべていた。
「そんなの、イツキと出会ってからに決まってるじゃない。タッグを組まないと、ゲームには参加できないんだから」
「そうじゃなくて、例えばこのゲーム、規約に沿わずに自分一人でもできる、とか考えたことはなかったのか? そのために魔法を使おう、なんてことはなかったのか?」
サエはイツキが何を言っているのかわからない、と言ったようにきょとんとしていた。
「そんなことしたら、駄目でしょう」
「なんでだよ」
「規約違反だから。違反したら、魔女裁判、でしょ」
「それって本当にあるもんなのか」
「……? 何が言いたいの」
イツキの質問に、サエはまたもや首を傾げた。形のいい大きい目が、イツキを食い入るように見つめた。
「あまりにも、よく出来過ぎていやしないか、ってことだ」
「言ってる意味が、ちょっとよく分からない。それが魔法を使わないことと、何の関係があるっていうわけ」
「わかったよ、もういいよ」
不服そうに顔を歪めるサエに対し、イツキはこの質問でゲームについてのある確信を得たのだった。
「いいって言われても、あまり納得できないんだけど」
「なかったことにしてしまった方がいいこともある。さっきお前はそういったばかりだろう」
「それはそうだけど、それとこれとは話が違う気がする」
「気にするな」
ぽん、とサエの頭に手を置いてなだめた。サエは訝しりながらも何度か頭を撫でられているうちに気持ち良いと見えて脹れっ面を納めた。
「じゃあ気にしないよ。どうせ魔法使ってる間に忘れるしね、こんなこと。とにかく、イツキが魔法使わない、っていうなら、私がサポートに回って、どんどん強化していけばいいだけだし」
自分が自分の理屈で動いているならば、サエもサエの理屈で魔法少女という状況をやりくりしているらしかった。そこが問題なのだが、とイツキは思ったが、あえてそれは言わないことにした。
そのときの発言通り、イツキが魔法を使わないのを補填するかのように、サエは魔法を使い続けた。サエの使う白魔法は、イツキの攻撃の強化と防御を主としていた。強い武器に強力な戦闘服、そしてサエの白魔法による能力の増強を行なわれたイツキの攻撃は、他の黒魔法少女の使う黒魔術に匹敵するほどだった。その甲斐あって、イツキとサエは、最後の戦闘まで生き残ることができた。イツキにとっては、サエの白魔法はもはやなくてはならないものだった。
だがそのサエが、今はどこにいるともわからない。最後の最後に限って、どこにも見当たらない。これでは魔術を使ってくる相手に対して、応戦することもできず、逃げまどうだけだ。
「もう、お前もいい加減、諦めたらどうだ」
アヴァロンが焦る気持ちに追い打ちを掛ける。記憶を惜しんでいる場合ではない、と言ってくる。
「いや、まだ行ける。サエが、見つかれば」
この期に及んでまだ他力本願にならなくてはいけない自分自身が恨めしかったが、一つの結論に辿りついた以上は、ここで引き下がるわけにもいかなかった。アヴァロンが、そうかい、と呆れたように言った。イツキは尚も走った。
と、直後、背中に向けて凄まじい水流が浴びせられた。氷のように冷たい水が背後から押し寄せて、イツキの体を直撃する。骨が折れるかと思う水圧に、イツキはうめき声を挙げた。
「うう」
強化と治療がない分、ダメージは深刻だった。一人でいるところを襲撃されることが思いがけずイツキを孤独に突き落としていた。規則がどうとか、記憶がどうとか、そういった問題を全て流してしまうほどに、痛みが深刻だった。さすが、最終戦といったところだろうか。イツキの頭に、早くも敗北の字が見え始めていた。
だがまだ少しではあるが体が動いた。叩きつけられた地面に手をつき、膝を押さえて立ち上がる。つま先の辺りに力を入れると、先ほどとまではいかないものの、大きくジャンプが出来た。イツキはない力を必死で振り絞り、追いかけてきた二人に見つからないように、今度は物陰に隠れながらあたりを走った。
いつの間にか大分時間がたったらしい。空には星が輝き初め、静かに月が浮かび上がっていた。影になる場所を選びながら、時々地べたに座り、休憩した。追いかけてきた二人の少女の姿は、もうどこにも見当たらなかった。イツキは腰かけた場所で深く息を吐くと、そのまま思い切り寝転んで、頬を冷たいアスファルトに寄せ、軽く目を閉じた。ひんやりと熱を吸収していく、石の硬さが心地いい。
ここまで一体どれだけの距離を走ってきたことだろうか。サエはどこにも見当たらなかった。このままサエに合流できずに、再びあの少女たちに見つかったら、今度こそ自分は終わりだろうと思った。
「なあ、アヴァロン。質問がある」
イツキは使い魔に声をかけた。
「おう、何だ」
「もし、ペアになった白魔法少女と黒魔法少女のうち、片方がやられた場合、残された方はどうなるんだ?」
「クク。早くも自分より仲間の心配ってか。お涙頂戴の展開だな」
「いいから答えろよ」
口を吐いて出てくる言葉には力がこもらず、やや迫力に欠けた。
「さあな。そんな例、俺は見たことねえから知らねえよ」
「そうか。よくありそうな例だと思ったんだがな」
イツキはアヴァロンの答えを聞くと、安堵したようにため息をついた。どうやらこの使い魔が自分にもたらしてくれる情報は、殆どなしに等しいらしい。ならば逆に都合がいいのかもしれない。イツキは口を開いた。
「少し話を聞いてくれ、アヴァロン。今から言うのは、私のほんの世迷言に過ぎないし、推測の域を出ない。だが、今まで魔法を使って来なかった私だから、逆に一つだけ分かることがあるんだ。いいや、分かると言うと少し言い過ぎだ。これもあくまで予想の一つだ。だけど、サエではこの答えには辿りつけないだろう。私だから分かるんだ。まあ、死ぬかもしれないやつの独り言だと思って聞いてくれ」
アヴァロンはククと笑った。死ぬかもしれない、という言葉を、ボロボロになった本人から聞いて、より現実味が増したのだろう。最後の最後まで悪趣味な奴だ、と思う。それもこの不敵な使い魔であれば仕方がないのかもしれないが。
「……私は最初からこのゲームのルールは妙だとずっと思っていた。私には、自分自身の記憶を犠牲にしてまで叶えたい願望なんてない。せいぜい、昔別れた知らない母親の顔を一目見てみたかったな、と思うくらいだった。だけど、このゲームの魔法少女は、生成された時に姿を奪われ、任務をこなすための燃料として記憶を奪われる。そしたら、あまりその願望と言うのは、実現できないだろうと考えるのが妥当だ。けど、それでもなぜか戦う。常人には考えられないようなリスクを背負ってでも、少女たちは戦いをやめないし、記憶を燃やして魔法を使い続ける。それはなぜだ? どうあってもリスクの方が大きく見えるのに」
アヴァロンは黙って聞いている。頷くでもなく、話すでもない。ただ沈黙を守って、じっとイツキを見ていた。
「だから私は考えたんだ。このゲームは、初めからよく出来過ぎていたんじゃないかって。だからあえて、魔法と言うのに乗らない選択肢を選んだ。魔法を使うと、記憶がなくなるらしいなら、魔法を使わずに、記憶を溜め続けたらどうなるか、試してみることにした。それで、分かったことが一つあった。サエが私に、気付かせてくれたんだよ」
そこまで言ってイツキは激しくむせ込んだ。背中の痛みがじわじわと全身に広がっていくのがわかったのだった。喋ることすら困難になるほどの激痛だった。だがイツキは手で唇をぬぐい、再度話し始めた。
「なあ、よく考えてみりゃあおかしいんだ。魔法を使う度に記憶が蝕まれるなら、もし最後にこのゲームをクリアできたとして、その先にある実現可能な願望っていうのは一体何なんだよ? 全く記憶がない状態でも、願望って言うのは生まれるものなのか? 魔法を使うたびにどんどん記憶がなくなっていったら、最初考えていたような願いとやらも、いずれは思い出せなくなるんじゃないか」
咳き込んで切れた口の中から、黒々とした塊のようなものが溢れ出た。イツキの言うことを無視して、アヴァロンは黙り続けた。
「私は、サエを見ていてこれに気付いた。あの子は私が魔法使わない、って言ったら、その補填をしようと他人の倍の量で魔法を使って、記憶を消失させていたんだ。そしてな、いつしかその記憶を消失する速度が、記憶を蓄積していく速度を上回ってしまった。するとどうなると思う? 覚えてないんだ、何もかも。今、自分が魔法少女だということも、昨日まで私と一緒に戦っていたことも、全部その場で忘れてしまうんだよ。記憶の蓄積を上回る忘却は、最早彼女の人格そのものを突き破ってしまった。これで今日、戦いに来なかった理由も説明できるだろ」
頭の中が徐々にぼんやりとしてきた。いよいよ自分が自分で亡くなりそうな恐怖に侵食される。だが段々逆にそこから冷めてくる自分も発見する。まだ全てを語ったわけではない。
「それで、だ。もしこの憶測が正しいとしたら、サエは今どこにいる? 答えは簡単だ。さっきお前に聞いただろ。私は、サエの心配をしていたんじゃない。お前に聞いたときに、一緒に死ぬんだよ、とか言われたら、私のこの話は成立しないからな。そうでないと、私があの連中から追いまわされている間のことの説明が付かないし。まあ、ここまできたら、もうそんなことも関係ないか……眠くなってきたよ、いよいよ」
ほう、いい顔するじゃねえか。ようやくアヴァロンは沈黙を破って一言呟いた。るせえ、と消え入りそうな声で返そうとすると、呼吸が口からすうと漏れただけだった。心なしか、その息は鉄の味がした。服についていたはずの、シャボンとも花ともつかない不思議な香りは、決して拭いきれない真っ赤な匂いに塗りつぶされた。
「俺はただの使い魔だからな。お前の話には何とも言えねえ。だが」
首のあたりに、風が当たるのを感じた。
「今のお前の顔は、最高に綺麗だぜ。寝顔の中では最上級の部類だ」
そいつはどうも、イツキは心の中でほほ笑んだ。きっとサエもこういうときには笑っているに違いない。どこかで会ったら、「お前は忘れてるだろうけど、私はお前の事はちゃんと覚えてるぞ」と言って、あの陽だまりのような笑みに笑い返してやろう。