傷だらけの青年
「……っ…はあ…。はあ…」
その青年は、何かから逃げるようにただひたすら荒れ果てた大地を走っていた。
焦げ茶色の短い髪は汗でべったりと額に張り付き、黒い瞳はまぶたに半分覆われ、今にも倒れんばかりの様子だった。
今時の若者を思わせるカジュアルな服は、ズタズタに切り刻まれ、所々血が滲んでいる。
彼はしばらく走り続けていたが、やがてよろよろとした足取りになってきた。
振り返ってみると、彼を追う追っ手の姿は見えなかった。
「はあ………なんとか…逃げ……切れた…な……。」
ドッ!
安心して気が抜けたのか、青年は地面に崩れ落ちるように倒れたのだった。
「………ぶ?」
声が聞こえる。
若い女性の声だ。
「………っ……」
「…大丈夫?」
今度はよりはっきりと聞こえた。
「ナイト…か……?」
青年は尋ね、ゆっくりと目を開ける。
彼の目に映ったのは………
「ナイトって人が誰かはわからないけど…無事…みたいで良かった!」
茶色く短い髪を持った女性だった。
嬉しそうな微笑みを浮かべて、青年を見つめている。
「あ……れ…?ナイトじゃねえ……あんた……誰……っ!」
「起き上がったら、ダメだよ!かなり深い傷もあったんだから!」
「傷……?あ、そっか…俺…確か……」
青年は記憶を手繰り寄せてみた。
覚えていることは、“奴ら”から逃げていて、逃げ切ったと思った直後に倒れてしまったこと。
それからは気絶していたのか、全く記憶が無い。
「ここは…どこなんだ…?」
「ここはホーム。神風の拠点…かな。あ、私は水野美奈子。何があったかわからないけど…力になれることがあったら言ってね。」
美奈子というらしい目の前の女性は、そう自己紹介した。
青年と同い年ぐらいに見えた。
「力になる、か…。サンキュな。俺は…草野 保。あんたが、俺を助けてくれたの?」
「う、うん…まあ。私はそこまで何したってほどじゃないけど…。ほとんど吹雪が…」
美奈子は困ったように頬をかきながら、口ごもった。
「吹雪…?そいつにも礼を言わねえとな…。」
「礼なら別にいい。」
保の声に応えるように、階段から一人の男性が言葉を返してきた。
「…あんたが吹雪って人?別に礼ぐらい言わせてくれてもいいじゃんかよ。あ、俺…草野…」
「…保だろ。少し前から話は聞いていた。」
吹雪は淡々とした口調で返した。
「聞いてたなら、会話に混じればいいのに。今、自己紹介してたところなんだから。…草野君、改めて紹介するね。彼が吹雪。神風の今のリーダーの風 吹雪。」
「………。」
吹雪は怪訝そうな瞳を保に向けた。
「…なぜあんな所に居た?」
「いやー、それがさ…俺にもよくわかんねえんだ。」
「わからない…?」
「俺さ、旅人なんだ。ナイトっていう相棒と“無風の草原”でくつろいでたら、何か…鬼みたいな顔した人間が襲ってきてさ。別に何もしてねえっていうのに…。」
全く、とんだ災難だったぜと保はぼやいた。
「一応、武器は持ってんだけど…奴ら、すっげえ強くてさ。しかも、一体じゃなくて五体だぜ?勝てっこないからさ、ナイトと別行動して、撒こうとしたんだ。無我夢中で逃げてる内に着いたのが、ここだったってわけ。」
「吹雪。“無風の草原”って…ここから近いの?ケガが治ったら、保君を送っていこうよ。」
美奈子の提案に、吹雪はすぐには頷かず思案顔だった。
「近いと言えば近いが…危険だ。契約者だらけの“荒れ果てた大地”を抜けて門を通る必要があるからな。」
「契約者って…あの化け物のこと?つか…自己紹介の時に言ってた“神風”って何だよ?」
保がきょとんとした表情で訊いた。
「契約者というのは…」
「裏の世界にはこびる魔物!神風っていうのは、契約者を倒す組織のことだよ!」
吹雪に代わって、美奈子が簡潔に答えた。
「へえ…じゃあ、あんたらは魔物退治をしてんだ?この世界を守るために。」
「この世界だけじゃないよ。表の世界も守っていることになるの。」
誇らしげに説明する美奈子をよそに、吹雪は少しだけ顔を曇らせた。
「なんか…すっげえ。俺もさ、仲間に入れてくんねえ?旅人だから、ふらりと抜けるかもしれねえけど…。ここでそいつらと戦ってたら、いつかナイトにも会えるかもしれねえし!」
「えっ…でも…神風は…その…」
「ダメだ。そんな生半可な覚悟では戦わせるわけにはいかない。第一…おまえは力を持っていないだろ。」
言葉を濁す美奈子の横で、吹雪はズバッと言ってのけた。
「力…?俺、こう見えても筋肉あるぜ。契約者っつう化け物には勝てねえけど…まずは俺の手並み見てから…」
「そういう力ではない。神風として…全てを背負って戦う“力”だ。」
保は、なんだかよくわかんねえなと後頭部を軽く掻いた。
「何って言えばいいのかな…契約者と対等に戦うためには、特殊な力が要るの。吹雪はもちろん…私も最近覚醒したんだ。保君は…どうなのかな…。あっ。」
「ん?何かいい考え、浮かんだ?」
保の問いに、美奈子はうんと頷いた。
「弐穂華様だよ、弐穂華様!会って、素質があるか聞いてみたらどうかな?」
「…弐穂華?誰だよ、それ。」
「えと…この世界の予言者って呼ばれている人かな。」
美奈子は考え考え答えた。
「美奈子…そのくらいにしておけ。何と言おうが、そいつを神風には入れられない。ケガが治るまではホームに居ても構わないが、治ったらすぐに出て行ってもらう。」
そう言うと、吹雪はスタスタと二階へ上がっていってしまった。
「あ、吹雪!…もう。ごめんね、草野君。吹雪…本当は優しいんだけど、毒舌でさ。」
「いや、別に謝らなくてもいいぜ。悪い奴じゃねえってことはわかるし。」
保は特に気にしてないように、普通の調子で言った。
「…それはいいんだけどさ。さっきの話の続き…」
「弐穂華様のこと?」
「そうそう。どこに行ったら、会えんの?」
「どこって言われても…決まってないかも。大抵はホームから少し離れた所かな。荒れ果てた大地をうろうろしとたら、もしかしたら会えるかも。」
「じゃあ、うろうろして弐穂華って奴に会おうぜ。美奈子ちゃん、案内してな。」
保は、でも…と躊躇する美奈子の背中を押し、荒れ果てた大地へと出て行ったのだった。
「あんたが弐穂華様?」
荒れ果てた大地。
保は友達に話しかけるような軽い調子で尋ねた。
「…そうじゃ。我は弐穂華。そなた…何か用か?」
弐穂華は、チリンと鈴の音を響かせながら振り向いた。
相変わらず、表情は窺えない。
「た、保君!弐穂華様には敬語で話さないと!」
「訊きたいんだけど…俺には“神風”の素質ある?」
美奈子の注意を聞かず、保は言葉を続けた。
「………。」
「答えてくれ!あんたに“素質ある”って言われないと、神風に入れてもらえないんだよ…。」
「ならば、そなたも我の質問に答えよ。そなたは…何のために戦いたいのだ?」
反対に質問され、保はえっ…と面食らったような顔をした。
「何のためって…」
「理由が無ければ、戦う必要も無い。よって、力も不必要ではないか?力が必要だというのならば、理由を申せ。」
「あーっと…この世界を救うのが目的の神風って…なんかかっこいいじゃんか。それに、俺…強くなりてえんだ。」
「………。」
弐穂華は何か考えているかのように、黙り込んだ。
「保君…。」
「俺の相棒…ナイトは、めちゃくちゃ強いんだ。無風の草原で契約者って化け物と戦った時…ほとんどあいつが戦ってさ。自分から囮になって、俺を逃がしてくれた。その時、思ったんだよ…俺ってカッコ悪いなって。強くかっこいい自分になりてえって。何か一つでもいいから、自分から望んで成し遂げたいって。」
「………。」
弐穂華は、変わらず無言だった。
しかし、少しだけ顔を上げ保を見つめているように見えた。
「俺…ホームでは、旅人だから抜けるかもしんないとか、軽く見えたかもしれない。だけど…本当は、俺だってこの世界のために何かしたいんだ。契約者って化け物から、世界中の人を守るために。」
「………ある。」
「へっ…?」
「そなたに素質はあると言っているのじゃ。心の奥底に熱い想いと力の芽をわずかにだが感じる。しかし…」
弐穂華は一度言葉を止めた。
美奈子は弐穂華と保の顔を交互に見ていた。
口出しするべきか否か、悩んでいるようだった。
「しかし…何だよ?」
「…足りない。戦う理由は申し分ないが、そなたは心から力を求めていない。本当に戦いたいのか、そなた?」
「た、戦いたいに決まってるぜ!」
「………ならば、戦うが良い。」
弐穂華が空間に手をかざすと、そう遠くない場所からグオオオという雄叫びが響いてきた。
「なっ…あんたがあの化け物を…?」
「…肯定も否定もしない。そなたは、自分が戦う器に値するか、一度戦って考え直してみよ。」
「あっ…弐穂華様!」
美奈子は手を伸ばして弐穂華を止めようとしたが、弐穂華の姿はあっという間に空間に溶け込み消えてしまった。
「………素質はあるのに、戦う勇気が無えとでもいうのかよ。」
「保君…。弐穂華様は勇気が無いって言ったわけじゃなくて…」
「俺は…強くないけど、腰抜けなんかじゃねえ!」
保は怒ったような調子で言うと、雄叫びのする方向へ一心不乱に駆けて行った。
「保君!お、追いかけなきゃ…!」
慌てて、美奈子もすぐに保を追いかけていった。
吹雪は、またか…とウンザリしたような顔をして額に手を当てていた。
一階に下りると、リビングには美奈子と保の姿は無く、布団が無造作に置かれたソファがあるだけだった。
(説教は後から嫌というほど聞かせるとして…問題は二人の居場所だな。弐穂華様の話をしていたから、探しに行ったと考えるのが妥当だが…。)
「グオオオ…!」
考え込む吹雪の耳に、契約者の雄叫びが入ってきた。
「今のは…まさか…」
嫌な予感が胸によぎる。
吹雪はリビングの電気も消さないまま、声の方向へと走っていったのだった。
中身が飲み干されたコーヒーカップが、カランカランと音を立て床に落ちた…。
ホームから一キロ先、荒れ果てた大地。
契約者の前には、五歳ぐらいの男の子が立っていた。
ずっと泣いていたのか、両目は赤く腫れ小さな両手はびっしょり濡れていた。
「うっ…ママ…どこ…?」
「グウウウ…。」
契約者は、見下すような視線で男の子を見ていた。
眼は血走っているが、意識は消失していないようで、男の子に手を出すことを躊躇しているようだった。
「うりゃ!」
「ヌウッ!?」
突如、背中に激痛を感じて、契約者は振り返った。
その瞳に映ったのは、厳しい目つきをした青年だった。
彼の手には、チャクラムのような断面の鋭い円盤が握られていた。
「その子から離れやがれ!」
「我ハ…マダ何モシテイナイ…」
「そんなこと知るかよ!おまえなんか…俺が倒してやる!…はっ!」
保は再び、円輪を契約者に向かって投げつけた。
契約者は、今度はゴツゴツした腕でバシッとそれをはたき落とした。
「怖いよ…ママ!」
その隙に、男の子は泣きながら安全圏へと逃げ去っていった。
「保君!危ないから、下がってて!」
彼の後を追いかけてきた美奈子は、守るようにバッと前へ出た。
「美奈子ちゃん!どいててくれよ!俺だけでこんな化け物…」
「力の無い人は危険なの!保君は勇気があるって認めるから…下がってて!」
「だけど…」
グオオオと声を上げ、契約者が美奈子に向かって来た。
「水勢波!」
美奈子は水の力を宿した剣を出し縦に振る。
すると、水のつぶてが契約者を襲った。
「グアウ!?」
契約者は、少し怯んで一旦後ろに下がった。
「美奈子ちゃん、すっげえ…。」
「ヌッ…ヨクモ…ヨクモ…!!クラウガヨイ!」
今度は、空間から鞭を取り出した契約者。
「よーし…俺も!…って、円輪はさっき落とされたんだった…。」
「保君、危ない!」
「んっ…?おわっ!?」
うなだれる保の目の前に、契約者の鞭の攻撃が飛ぶ。
正面からそれを受け、保はドッと数メートル弾き飛ばされた。
「保君!きゃっ!?」
続いて、美奈子にも鞭の攻撃が飛んだ。
パシッと音がして、美奈子もドッと地面に倒される。
「痛ってて…くそっ。」
「痛たた…鞭を使う契約者だなんて…。攻撃が読めない…。」
保と美奈子は、鞭で打たれた部分をさすりながら、ゆっくり立ち上がろうとする。
しかし、
「くあっ!?」
「やっ!?」
鞭は再び容赦なく飛び、二人の起き上がりを阻止する。
パシーンと高い音が響き渡る。
「愚カナ…人間ガ…我ラニ勝トウナド…カタハラ痛イワ!!」
契約者は鞭を逆さまに持ち代える。
その先端は鋭く尖り、人間の皮膚など簡単に貫いてしまえそうだ。
「くっ…痛くて体が動かねえ…。」
「ご…めん…保君…。私も動けない…守れない…。」
激しい痛みに苛まれた二人に、もはや避ける力は無い。
不敵な笑みを浮かべ、契約者は保に攻撃の矛先を向ける。
「マズハ…オマエダ!」
鞭が大きく振り上げられ、尖った先端が保の体を狙う。
「くそっ…俺は…俺は…!」
保が観念して目を閉じた時、
「青龍断!」
「グアッ!?」
彼の前に、吹雪が立ちはだかったのだ。
「吹雪…!」
「保。おまえでは、契約者にはかなわない。下がっていろ。」
「なっ…やってみないとわからない…」
「下がれ。」
命令口調で保に言った吹雪の視線は、冷たく鋭かった。
「うっ…。」
保は思わず、身を引いてしまった。
「吹雪…我々ノ…宿敵…!!」
契約者は斬られた腕を庇いながら、反対の腕に鞭を持ち替えた。
そして、
「グオオオ!!」
吹雪に向かって鞭を振り上げる。
吹雪はサッと左に交わした。
標的を失った鞭が、地面をパシッと叩く。
「マダダ…!!」
契約者は鞭を激しく左右に振る。
「くっ…。」
吹雪は反復横跳びの要領で、全ての攻撃を交わす。
「美奈子!」
「…えっ?な、何?」
「くっ…っ…!ぼうっとしている暇があるなら…っ…手を…貸せ!」
呼びかけられた美奈子は、素直に助けてって言えばいいのにとぼやきながら立ち上がる。
「行くよ…水勢波!」
美奈子は契約者の背後に回り、素早く剣を振り下ろす。
滝のように激しい勢いの衝撃波が、契約者の背中を斬る。
「アアア…!?」
「青龍断!」
攻撃の手を緩めた契約者に、真っ向から吹雪が剣を振り下ろした。
「ク…我ラハ………」
契約者は何かを言いかけたが、体は砂となり消えてしまった。
「すっげえ…強い。美奈子ちゃんも吹雪も…。それに比べて俺は…」
「保君、大丈夫?ケガは無いよね?」
地面に座ったままうつむいている保に、美奈子が近づいて声を掛ける。
「…無い。」
「良かった…。」
「俺のことより…美奈子ちゃんの方がケガをしてんじゃんか!俺を守るために…ごめん。」
美奈子は言われて始めて、右腕から血が出ていることに気づいた。
「こ、このくらい平気!保君が謝らなくても…」
「…見せてみろ。」
吹雪は美奈子の腕を掴み、傷口を観察する。
「痛っ!や、優しく触ってよ…吹雪。」
「…平気じゃないだろ。かなり深い傷だ。」
「だ、大丈夫だって!…平気って言わなきゃ、保君が責任感じちゃうでしょ。」
美奈子は冷や汗をかきながら、吹雪に耳打ちした。
保が申し訳なさそうな顔で、美奈子を見つめていたからだ。
「…本当にごめん、美奈子ちゃん。それに…吹雪。」
「………謝れば済むと思っているのか?ケガが完治していないのにホームを出て…契約者に戦いを挑んで…。死ぬかもしれなかったんだぞ?関係無い人間まで巻き込んで、わかっているのか?」
「吹雪…そんなに怒らなくても…!」
「美奈子…おまえもだ。自分の力を過信するな。誰かを守りたいなら…もっと強くなってからにしろ。」
怒られて、反抗もせず美奈子は罰が悪そうにごめんと謝った。
今回ばかりは、自分も悪かったと感じたからだった。
「美奈子ちゃんは悪くないんだ…俺が全部悪い。“力”があるって言われて…なのに勇気は無いみたいに言われて…。ついカッとなったんだ。だから…」
「力がある…おまえに…か?弐穂華様に…っ!?」
不意に吹雪の体が前のめりになった。
「吹雪!どうしたんだよ?」
保が慌てて吹雪の体を支える。
倒れかかった吹雪の背中には、刃物で斬られた傷があり、そこから鮮血が溢れてきていた。
「くっ…美奈子…おまえ…」
「美奈子ちゃん!?なんで…」
驚く彼らの目に移ったのは、血の付いた水の剣を持った美奈子の姿だった。
瞳は虚ろで、どこか様子が変だった。
「我ハ…契約者。コノ女ノ体ヲ借リテ…吹雪…オマエヲ倒ス…。」
美奈子の声で、彼女の体を乗っ取った契約者が言った。
剣を持った右腕は、吹雪に向けられている。
「美奈子…っ…!うっ…」
「お、おい…吹雪!しっかりしろよ!」
「………。」
吹雪からの返事が途切れた。
痛みと出血のため、意識を失ってしまったようである。
血の気の引いた顔色と、固く閉じられた瞼から保は理解した。
「吹雪!美奈子ちゃん…。俺…どうすればいいんだよ…?」
「吹雪ハ…倒レタカ…。ダガ…致命傷トハナッテオラヌ。ソコヲドケ…青年ヨ。」
美奈子の体を借りている契約者は、剣を携えてじりじりと保に歩み寄ってくる。
「致命傷って…吹雪を殺す気なのかよ?」
「当然ダ。吹雪ハ、我々契約者ノ憎ムベキ宿敵。仲間ヲ…タクサン消シタ。ダカラ…同ジ痛ミヲ味アワセル。」
「………させねえ。吹雪を殺させたりしねえよ!」
保は威勢良く言って、スッと立ち上がる。
愛用している円輪は手元に無く、武器といえる物は身に付けていない。
けれど、彼は怯むことなく、契約者に乗っ取られた美奈子を睨みつけていた。
「我ト…戦ウ気ナノカ…。力モ武器モ持タナイオマエニ…何ガデキル…?」
「…おまえの言う通り、俺には美奈子ちゃんや吹雪みてえな力は無い。ナイトみてえな強さも無い。けど…俺は…、もう守られるだけの人間で居たくないんだよ!誰かを守れる人間になりたいんだ!」
「愚カナ…。ナラバ、吹雪ノ代ワリニ、死ヌガヨイ。」
契約者に乗っ取られた美奈子が走る。
右手に携えた剣が、鈍く光る。
(俺には…力の芽がある。弐穂華は確かにそう言った。だったら…目覚めてくれよ、俺の力!二人を…守りたいんだ!)
どんどん迫って来る美奈子を見据え、保は心の中で念じる。
すると、
『大切な人達を守るために…戦う力をあなたに与えましょう。』
「えっ…?」
頭の中に、女性の声が響いた。
その瞬間。
「ナニ…!?」
目も開けられないほどの光が、保の体から放たれた。
淡い緑色の光だった。
「な、なんだよ、これ…?強くて温かい…力…。大地の力…?」
やがて、光が収束した時。
保の手には、緑色の光を帯びた彼の円輪があった。
「俺の円輪だ…。これと力を使って戦えっていうんだな。…わっ!?」
保は反射的に後ろに避けた。
美奈子の水勢波が彼の足元に向けて放たれていたのだった。
「次ハ…外サヌ!」
美奈子の体を使って、契約者は再び水勢波を放つ。
「負けるかよ!」
保は負けじと円輪を投げる。
円輪は小さな弧を描きながら、衝撃波を斬った。
ピシュと音がした。
「よっし…次はこっちの番だぜ!」
戻ってきた円輪をしっかり掴み、保は身構え直す。
「クヌッ…」
「覚悟しろよ、契約者とかいう化け物!」
「クウ…我ヲ倒セバ…コノ女モ死ヌ。ソレデモヨイノカ…!?」
美奈子は後ずさりながらも、虚勢を張り自身の心臓に剣を突き付ける。
だが、
「させるかよ!」
「グッ!?」
円輪が美奈子の手からパシッと剣をはたき落とす。
「今だ!癒やしと浄化の力…樹涙光!」
保は大声で言って、円輪を上に向かって投げる。
投げられた円輪は、レコードのようにくるくる回りながら、光を放つ。
温かく優しいオーラを帯びた光が辺り一帯を包んでいく…。
「ナ…ナンダ、コノ光ハ…?体ガ浄化サレ…グアアッ!!」
美奈子の体を操る契約者は、断末魔の悲鳴を上げ彼女の体から追い出され消えてしまった。
「あ…れ…?私……」
「おっと!」
前向きにふらっと倒れそうになった美奈子の体を、保がしっかりと抱き止める。
「大丈夫かよ、美奈子ちゃん?」
「あ…ありがとう。私…一体…?」
「契約者に取り憑かれてたんだよ。覚えてない?…いや、忘れてた方がいいんだけどさ。」
美奈子は、ゆっくりと一人で立ち、全然と首を横に振った。
「……うっ…っ…」
「あ、吹雪!大丈夫か!?」
「吹雪…!」
気が付いた様子で、体を起こそうとする吹雪に、保と美奈子が駆け寄る。
「なんとか…な。美奈子…は?」
「私は大丈夫。気を失ってたのか、何も覚えてないんだけど。」
「正気に戻った…ようだな。んっ…?」
吹雪は妙な違和感に気づき、自身の背中を数回右手で撫でた。
「傷が無くなっている…?血も止まっている…。どういうことなんだ…?」
「すっげえ…。俺の力って、傷も治せるんだな。自分でも信じられねえや。」
「おまえの力…?目覚めたのか。」
そうらしいんだよな、と保は他人事のように軽い調子で応えた。
「傷って…保君が目覚めたって…私の知らない間に何があったの?」
美奈子は、心配そうに眉を下げ問いかける。
「い、いや…まあ、いろいろとあったんだよ、うん。美奈子ちゃんは忘れていた方がいいかと…。」
「………覚えていないのか。おまえは、契約者に乗っ取られ…んぐっ!?」
「吹雪!それに、美奈子ちゃん。話は戻ってからにしようぜ!」
吹雪の口を両手で塞ぎ、保はあたふたとホームへ戻っていく。
「………?」
怪訝そうに瞳を細めた美奈子も、とりあえず二人の後を追ってホームに戻るのだった。
「神風がまた一人目覚めたか…。」
暗い洞窟の中。
漆黒の水晶に映る映像を眺めながら、洞窟の主は呟いた。
(弐穂華め…。私の指示を無視し、独断で行動し…。何を考えてそのよいなことを…!)
ダンッ!
主の拳が壁を強く叩く。
壁にヒビが入り、そこからパラパラと土が落ちていったのだった…。
傷だらけの青年-了-