契約者
「229号が神風によって倒されました。」
暗い暗い洞窟の中。
顔を帽子で隠した者が、カーテンで全体を覆った主らしき者に簡潔に報告した。
「…そうか。報告、ご苦労だったな。」
「はっ。また何かあれば報告する所存であります。」
そう言うと帽子を被った者は、音も無くスッとその場から消えた。
「神風の力は確実に強くなってきている…。それに加え、今年は予言の年か。…こちらも契約者の戦闘レベルを上げ、本気にならねばならんな…」
後に残された者は、鈍く光る漆黒の水晶を眺めながら、ぽつりと呟いた…。
「やっぱり無い…。確かにここから落ちたはずなのに…。」
美奈子は空中を見つめ、はああと深くため息をついた。
そこは前日に美奈子が落ちてきた場所だった。
地面に彼女のハンカチが落ちていたので、それが目印となりわかったのだ。
「入って来た場所と単純に繋がってるわけじゃねえんだな…。鏡が移動してるとか…?」
「それこそ非現実的すぎると思うが。…鏡は、有るけれど見えないという可能性もあるな。」
(こっちの世界に来れた時点で、十分非現実的なんだけど。)
天砂と吹雪の会話には入らず、ひっそりと心の中で呟く美奈子。
「どちらにしても、無い物はどうしようもない。美奈子ちゃん…しばらくホームに居たらどうかい?」
涼が誘いかけるように訊いて、
「うーん…考えてみます。皆さんに迷惑かけるのは心苦しいので…それしか方法が無い場合はそうします。」
美奈子は曖昧に応えた。
彼女は自分自身に起きたことを理解しようとすることで精一杯のようだ。
「迷惑かけるとか、遠慮しなくてもいいぜ。ホームは俺達三人だけには広すぎるくらいだから、一人増えたとこで狭くもなんないからさ。」
どうしようかと迷っている様子の美奈子に、天砂が安心させるように言った。
「えと…ありがとうございます。そこまで言ってくれるなら…もう少しだけホームに居ようかと…」
「…それはダメだ。一刻も早く鏡を見つけ帰るんだな。」
「お、おい…吹雪…。それはあんまりだろ!帰れないという人間に、“帰れ”なんてよ…!」
断固として美奈子の入居を拒否する吹雪に、天砂がやや強い口調で言った。
「…どうしてもこの世界で生活するしか無いというなら、安全圏でアパートを借りる方がいい。とにかく…ホームはダメだ。」
「吹雪っ!!」
「わかったら、去れ。“力”の無い人間をホームに留めるわけにはいかないんだ。」
くるりと踵を返し、吹雪は一人ホームへと戻って行った。
「たくっ…吹雪は変なところで頑固なんだから…困ったもんだぜ。」
「美奈子ちゃん…吹雪は私達が説得するから、ホームに居ていいよ。」
涼はそう言ったが、美奈子はいいんですと首を振った。
「私…相当嫌われてるみたいだし…安全圏にも住める所があるんなら、そっちに住みます。」
「だけど…」
「私にもプライドってものはあります。あそこまで言われてホームに居るくらいなら、安全圏ってところに行きます。少しの間ですけど、親切にしてくれてありがとうございました。それでは、お元気で。」
涼と天砂は引き止めようとしたが、美奈子は二人を振り切って、安全圏へと走って行ってしまった。
それが反対に危険であったとも知らずに………。
“契約者”と呼ばれている生命体は、不気味な奇声を上げながら、歩み寄って来た。
鋭く長く伸びた爪からはポタポタと透明な滴が落ち、顔は般若のように凄まじく歪んでいる。
元は美しい女性であったであろうそれは、今は見る影も無い。
「こ…来ないでよ!わ、私なんか食べても美味しくないんだから!」
美奈子は全身を震わせながらも、精一杯の声で叫んだ。
逃げようにも、恐怖のため金縛り状態になっている。
「キィアアア!」
「き、きゃああ!」
契約者が美奈子との距離を一気に詰めてくる。
美奈子は両手で顔を覆い、固く目を閉じた。
もうすぐ、あの鋭い爪で全身を切り裂かれて…死ぬ。
そう考えると、自然と涙が溢れて来た。
(こんなところで…たった一人で死にたくないよ…。誰か…助けて…!)
契約者は大きく右手を振り上げ、美奈子の体をその長い爪で斬り…
「ギャアアア!!」
悲鳴を上げたのは、美奈子では無く契約者の方だった。
直後に、ピシュという嫌な音が彼女の耳に入ってきた。
「………?なに………?」
美奈子は両腕を顔から離し、恐る恐る目を開ける。
「…世話かける女。」
美奈子の前に立ち、契約者の攻撃を阻んだのは吹雪だった。
左手にしっかりと水色の長剣を携えている。
「吹雪…。」
「下がってろ。…まだ致命傷は与えていない。」
吹雪は端的に言うと、サッと身構えた。
契約者は背中から緑色の鮮血を流しながら、恨めしげに吹雪を睨んでいる。
瞳孔は限界まで拡張し充血していた。
「オ…オノレ………吹雪………。許……サナイ……ゾ……。」
「………許してもらおうなど考えてないがな。」
「センケツ……ヲ…ナガシナガラ……倒レルガヨイ………!」
先に動いたのは契約者。
人間には有り得ないほどのスピードで吹雪に向かって来る。
「引キ……裂カレヨ………!」
「………。」
吹雪は契約者の爪の攻撃を長剣でガードする。
ガキッという金属が擦れたような音が響いた。
「吹雪…!」
「…静かに見てろ。」
「………ご、ごめん。」
吹雪にたしなめられ、美奈子は黙った。
「余裕…ブルノモ…今ノ内ダ……!」
「そんなつもりは微塵も無いが。」
カンッと長剣が爪を弾き返す。
契約者はザッと再び距離を置いた。
「今なら見逃してもいい。…取り憑いている人間から離れ在るべき場所に帰れ。」
「ソレハ……デキナイ………。人間カラ…離レレバ………我ハ……命ヲ失ウ…。」
「ならば、消すしかない。」
長剣を胸の前に構え、吹雪が動く。
「…青龍断!」
間合いを詰め、契約者を剣で薙ぎ払う…!
………だが。
「………!?なっ…?」
契約者は忽然と姿を消していた。
「きゃあ!?」
直後、美奈子の悲鳴が聞こえた。
「美奈子…!」
「動クナ!コノ女ヲ……肉塊ニスルゾ!」
「くっ…。」
美奈子の首には、契約者の爪が突き立てられている。
迂闊に動くのは無謀と悟り、吹雪は剣を下ろし立ちすくした。
「ソレデ……ヨイ…。ソノママ……女ノ代ワリニ………我ガ爪ヲ受ケヨ…!」
契約者は美奈子を捕らえたまま、吹雪に近づいてくる。
「…逃げて!私のことは…吹雪には関係無いんだから…。」
「………。」
それでも、吹雪は動こうとしない。
契約者をジッと見ているだけだった。
「吹雪!お願いだから…逃げてよ!」
「………確かに、関係ないことだ。」
契約者は吹雪の目前まで近づいていた。
「地ニ…伏セ……!」
契約者は大きく右腕を振りかぶる。
「おまえがこっちの世界に来なければ、の話だがな。」
「えっ…?」
「伏せろ!」
吹雪はヒョイとかがみ込み、攻撃を交わす。
「伏せろって…きゃっ!」
続けざまに契約者の腹部を長剣で貫く吹雪。
ドシュと貫音が響き、アアア…と耳をつんざくような断末魔の悲鳴が耳に入る。
そうして、契約者の姿は一塵の風となり消えた。
美奈子は激しくまばたきをしながら、その場にへたり込んだ。
「吹雪…今のはどういう意味…」
「見事だ、風 吹雪よ。」
美奈子が言い終わる前に、誰かが言葉を重ねるように言った。
「…弐穂華様。」
吹雪に名を呼ばれ、その人物は二人の前に姿を見せた。
全身は白装束で覆い、顔の半分はフードで隠しているため性別は分からない。
装束から透けて見える髪の色は、燃え盛るような紅であった。
…背丈は低く、体格も弱々しいその者は、まだ十歳に満たないかのように見えた。
弐穂華が歩く度に、リン…と鈴のような音が鳴り響いている。
「久しいな、吹雪。…そちらの者は?」
射るような弐穂華の視線が美奈子に移る。
「は、はい!水野美奈子です…。えっと…あなたは…」
「弐穂華じゃ。そなた…表世界の人間だな?」
「…はい。鏡に吸い込まれて、こっちに来ちゃったみたいです。」
美奈子は、訴えかけるような瞳で弐穂華を見返す。
「あの…弐穂華様?表世界に帰れる方法とか知らないですよね?」
「不躾に…失礼だろ、美奈子。弐穂華様はこの裏世界の…」
吹雪の言葉を、弐穂華は右手を上げ制する。
「良いのだ、吹雪よ。美奈子とやら…そなたが表世界に帰る方法は一つだけ。鏡を探すのだ。」
「探してるんですが、見つからなくて…。」
弐穂華は、見つからないので無いと美奈子の意見を否定した。
「鏡は常に存在する。…ただ、見えないだけなのだ。」
「見えない…?」
「空気と同じじゃ。空気は常に存在しているにも関わらず、人の目では見ることのできない物。」
「………?さっぱり分からないんですけど。」
美奈子は右手で髪の毛を軽くかいた。
困った時に出る彼女の癖である。
「吹雪…よく聞くがよい。」
そう言って、弐穂華は吹雪に視線を戻す。
「彼女の中に“力の芽”が見える。近々、神風として目覚めるであろう。」
「美奈子にも力が…?」
「うむ。そなたは彼女をサポートし、力を目覚めさせよ。さすれば、道は自ずと開けよう。」
弐穂華は奇怪な予言を残すと、吹雪達が止める暇も無くその場を去って行った。
「待って、まだ訊きたいことが!………って、行っちゃった。」
「力の芽…か。」
気付けば、吹雪の澄んだ瞳が美奈子を捉えていた。
「な、何よ…?」
「弐穂華様の予言ならば、仕方ない。美奈子…ホームに帰るぞ。」
「へっ?」
吹雪の意見の変わり様に、美奈子は気の抜けたような声を上げた。
「帰るって…私も?」
「当たり前だ。」
「…安全圏に行けって言ったのは、吹雪じゃないの。」
「力を持ってない人間は足手まといだと感じたから、あの時はそう言っただけだ。…力の可能性を秘めているとなると、話は違う。」
「だけど……あっ。ちょっと…吹雪!」
それでも躊躇する美奈子の手を、吹雪は強引に引っ張って歩いて行くのだった…。
ホームのリビングルーム。
天砂は、二人とも無事で良かったぜとホッと息を漏らした。
「心配したんだぜ、二人とも。安全圏に行ってみるも、美奈子ちゃんの姿はどこにも無いし…ホームに帰ったはずの吹雪の姿も無かったからな。」
「…悪かったな、天砂。」
「しばらくは許してやんねえからな。」
天砂はいたずらっ子のような笑みを浮かべ、うなだれる吹雪に言葉を返した。
「で、美奈子ちゃんの件はどうなったよ?安全圏に行くなら、今度はちゃんと護衛して連れてくぜ。」
天砂が尋ねて、
「そのことなんだが…、ホームに住ませることにした。“力の芽”が見つかったからな。」
吹雪が端的に答える。
「へえ…なるほど。美奈子ちゃんは、やっぱりただの女の子じゃ無かったんだね。いや、さすが私の見込んだ通りだよ。」
涼に誉められ、美奈子はそれほどでも無いですけどと照れくさそうに笑った。
「…弐穂華様の予言は無視するわけにもいかないからな。」
「あの人…そんなに凄い人なの?」
凄いなんてものじゃないよと、涼が答える。
「弐穂華様は、世界の予言者とも運命の使者とも呼ばれている人なんだよ。」
「へえ…あんな小さな子が予言者なんですね…。」
美奈子は弐穂華の姿を思い描きながら感心したように言った。
「…弐穂華様のことはそんくらいにして、とりあえず美奈子ちゃんの歓迎会でもしようぜ?」
「か、歓迎会なんて、そんな大げさな…。」
「大げさすぎるくらいやっておかねえと足りないんさ。何たって神風のメンバーになるんだからよ。」
万事俺に任しといてと言うと、天砂は台所へ歩いて行った。
「任しとけって…歓迎会なんて、本当にしなくていいのに。」
「天砂は、ああ言ったら誰が何と言おうと聞かないからね。好きにさせておくのが一番だよ。」
涼が言い聞かせるように美奈子に言った時、ちょっと手伝ってくれよーと台所から声が聞こえてきた。
「はいはい…。あっ、美奈子ちゃんはそこのソファに座っててくれていいから。吹雪は手伝えよ。」
はあと浅くため息をついた吹雪を連れ、涼も台所へと向かった。
一人残された美奈子は、ソファにちょこんと座り待つことにしたのだった…。
一時間後には、盛大ってほどではないにしても、形としての歓迎会が行われたことは言うまでも無い。
弐穂華に“力の芽”を感じると言われた美奈子には、さてはて…どんな力が眠っているのか。
また、彼らのまだ見せていない真の力とは…?
そして、弐穂華の予言とはどのようなものか…。
謎は深まるばかりである………。
『契約者』ー了ー