槿花一朝、しかしてそれも
六花ちゃんが生徒会発足に至ったきっかけ。
月がいやに光る夜だった。今まで色んな国や都市を転々としてきたけれど、日本の月が一番あたたかい色味をしていると思う。南米ではもっと自己顕示欲の強い黄色。ヨーロッパではもっと冷静で合理的な白銀色。日本の空は低くて、月は橙色。あたたかい、と感じるのは葉楠の血がどこかで、日本を故郷と認めているからだろうか。背中に控えめに微笑する月を感じながら歩いていると、不思議と穏やかな気持ちになれた。
十七歳の今になるまで、実に様々な場所を訪れた。ひとえに、外交官という父親の職種のせいだ。引っ越しの度にメランコリックになる母親と、それを苦笑して宥めすかせる父親。そんな両親を見て育った自分は、どちらに似ているのだろう。
この土地に越してきてから一年近くになる。長い方だ。思い返してみても、一年以上同じ土地に滞在していたことなど、数えるほどしかない。それも、二年以上となると零回を記録する。
日本の学業システムでいえば高校二年生になる葉楠は、考えても詮無いことを思いつく自分の思考をそのままにして、黙って足を進めた。コンクリートで舗装された道路を踏みしめる靴音。冬と春の出会いが近付いていることを予感させる空気。時折吹く、精一杯な木枯らしの悪足掻き。そういうものとも、お別れだ。
明日になれば、また空の上。次は中東だという。次はいつまでそこにいることになるのだろう。
旅立つ前日に、その土地で通った学校に夜中訪れる、という習慣は、実は葉楠のまったくのオリジナルではない。小さい頃に読んだ冒険小説。そこでは、大人顔負けの行動力と機転を持った少年少女たちが果敢に闘っていた。想像上のモンスターや大人たちの悪い企みごと。彼らはいつも仲間を持っていて、一人はみんなのために、みんなは一人のために労を厭わず助け合って困難に立ち向かっていくのだ。そんな冒険譚は幼い葉楠少年の心を虜にした。たくさん読んだ本の中でもお気に入りだったのは、夜中の校舎でいたずらをして回るモンスター退治をする子供たちの話。
モンスターが本当にいるなんて信じて、学校に来たわけではない。いたずらがしたくて来たわけでもない。転校続きの葉楠には、いつも一緒にいられる仲間がいるわけでもない。それでも、誰もいない校舎には、まだ見ぬ仲間が自分のことを待っているような気がするのだ。おせぇよ、なんて笑いかけてくれるようなリーダー。待ってたんだから、なんて声をかけてくれるメンバー。十七にもなってと自分でも思うけれど、心のどこかで期待を捨てきれないでいるのも真実。
黒とグレーのマーブルストーンに彫られた高校名が月あかりで鈍く照らされる。当然のように閉ざされた校門を、当然のようによじ登って乗り越える。飛び降りるように着地すると、細かい砂の敷かれた地面から微かに砂埃が立った。木枯らしはその最後の抵抗を諦めたようだ。静かな静かな夜。
校舎に入る前に裏庭に回った。名ばかりで活動などほとんどしていなかった園芸部に所属していた葉楠は、おそらく園芸部史上一番の働き者だったはずだ。今日までの毎日、丁寧に面倒を見てきた花壇と二本の苗木。花はもうすぐ開花するとして、この木たちが立派に木漏れ日を作り出すようになるには、一体あとどれくらいの年数が必要なのか。地面から三十センチほどの高さの苗木の葉に触れようとして、屈み込んだ。
そっと、強くこすり過ぎないように気をつけながら、葉っぱを撫でる。
「明日からはおれ、来れないから。ちゃんと面倒みてもらうんだぞ。大きくなれよ。…まあ、おれなんかがいなくても、お前らには関係ないのかもしれないけど」
「どうして関係がないと思うのですか?」
「そりゃ、植物だもん。おれが世話しようが誰が世話しようが、関係ないだろう。水と日光さえきちんともらえれば、そのうちでっかくなるんじゃない?」
「なるほど。では何故今まで、貴方がその植物たちの面倒を見てきたのですか?」
「それは…、おれ、園芸部員だから」
「義務感で世話をしていたのですね。貴方はとても義理堅い」
「いや、義務感ってそんな大層なもんじゃないけど……」
やたらと堅苦しい言葉に葉楠は苦笑した。そんな大がかりな言葉が似合うような行動ではないのだけれど。
と、そこまで考えてからはたと真顔になる。
そして、素早い動作で立ち上がり後ろを振り向く。
そこには一人の少年が立っていた。陶器のようなしみひとつない白い肌、上質の墨色をした髪、ビスクドールを彷彿とさせる漆黒の瞳。すらりと伸びた手足を白いシャツと濃紺のパンツから惜しげもなく出して、細く長い首の上に作り物めいた顔をのっけて、こちらを見つめている。
「誰だよ、あんた…」
驚きで乾いた舌を無理矢理湿らせてそう尋ねた。こんなやつ、葉楠が来たときにはいなかったはず。校門を越える前にも、裏庭に歩いて来る前にも、周囲に人がいないか何度も確認した。今日みたいに静かな夜、足音がすれば気付くはずなのだ。
目の前に急にあらわれた少年は、しかし超然とした微笑みを口元に浮かべると、ぺこりとおじぎをした。まっすぐな黒髪がさらさらと音を立てて重力に従う。たったこれだけの動作でも物音がする。ますます少年に気付かなかったことが奇妙に思えてきた。
「不知火六花と申します」
変わった名前だ。けれど、聞き覚えはない。いやに落ち着いた態度が怪しい。もしかしたら精神異常者の類かもしれない。だとしたら、警戒心を露わにするのは得策とは言えないだろう。葉楠はせいぜい冷静を装うと、相手の神経を逆撫でしないように自らも名乗ることにした。
「小川葉楠」
「おがわ、はすみ…」
白と黒のコントラストのきいた顔の中で一際目を引く、赤い口唇で葉楠の名を紡ぐと、やおら満面の笑みで、
「二年A組の小川葉楠くん。一昨年の十二月に転入。園芸部に所属。品行方正、成績優秀、学校生活での欠点はほぼ皆無。親しい友人はおらず。明日転校予定。…の小川葉楠くんですね?」
すらすらと、何かを読み上げるように六花が自分のことを言うのを、葉楠は黙って聞いていた。
親しい友人おらず。
放っておいてくれ。
気分を害した葉楠は別れの挨拶も惜しんで、その場から去ろうときびすを返した。
その後ろ姿にかかる六花の声。
「小川葉楠くん。僕と少しのあいだ、話をしませんか?」
「何でおれが」
「今、ここで僕と君とが出会ったからです。他に何の理由がありますか?」
「そういうのは、きっかけって言うんだ。理由、とはまた別ものだろう」
「なるほど。きっかけ。はい、それでは、きっかけで話をしませんか?」
「きっかけで、とは言わない。それを言うなら、きっかけにして、だ」
「では、きっかけにして」
両手を胸の前で広げてみせる六花が、つかみどころのない笑顔を顔にはりつかせている。葉楠は、頭上に瞬く月を一度見上げて、肩をすくめると、六花へと歩み寄った。
歴史資料室。長い間使われていないはずの部屋は、しかし中に入ってみると案外整然とした印象だった。きょろきょろとする葉楠とは対照的に、六花は慣れた動作で椅子を勧めて、自身もそのひとつに腰をおろした。向かい合う位置で座り合う。妙に近い距離に、葉楠は少し居心地を悪くした。
「さあ」
「なに」
「話をしましょう」
「だったら、あんたが話せば良い」
「話とは、君がするものでしょう?」
首を傾げる六花に、
「あんたの言ってた話、ってのは、おれの話が聞きたいってこと?それとも、おれに何か伝えたいことがあるってこと?それとも、会話をしたいってこと?」
「おやおや。話、にそんな意味が含まれていたとは。そうですね、どちらかが一方的に何かを伝えるのには慣れていますから、その、会話とやらをしましょう」
「会話とやら、って。あんた、会話したことないのかよ」
「ええ、たぶん」
「なんで」
「僕の周りは、僕の話を聞くだけの者が多いからです。そして、僕は誰の話を聞く必要もない」
「じゃ、おれの話を聞く必要もないだろう」
「いいえ。だって、君は人ですから。僕が知っているのとは違うシステムで動いています。従って、予想が出来ない」
「だから、会話?」
「はい。君は、会話に長けていますか?」
「いや……」
直球の質問に口籠もった。家族以外との会話なんて、長い間していない。世界中をあちこちとしたおかげで、何カ国語かは話せるようになった。でも、それは会話とはまた違う気がする。コミュニケーションを目的とした会話とは、葉楠は無縁の状態が長い間続いていた。
「では、フィフティフィフティですね」
どこかずれた六花の言葉に、葉楠は首を振った。やれやれ。変わった人間につかまったものだ。まあ、自分にはこれくらいの方が良いのかもしれないな。物怖じせずに話せるから。
「会話、とはどういうものですか?」
「そう、だな。多分、お互いがお互いに興味を持っていて、初めて意味を成すものだと思う」
「なら大丈夫です。僕は、君に興味があります」
「それじゃ、かたっぽだけだ」
「君は僕に興味がありませんか?」
「どうだろうな…。興味を持たないようにしてきたから、他人に」
「なら会話は成立しない。そういうことですね。だから、君は今まで会話をしていない」
そうかもしれない。
どうせすぐにいなくなるから。深入りしても無駄だから。
そんな風に思って、自分から周りに馴染まないようにしていた。
でも、心の底では、仲間に入れて欲しかった。彼らが何を話しているのか理解して、自分が何を考えているのか聞いて欲しかった。
でも、それを言うのはすごく躊躇われた。何故かはわからない。自尊心?見栄?それとも、拒絶されるのが怖かったのか。拒絶される前に拒絶してしまおう、というのは、ハリネズミのようだ。いざ、誰かに近付こうとすると、相手を傷付けてしまう。優しく出来ない。そしてまた、自分も傷付く。終わらない悪循環。
「いいよ、じゃあ、会話をしよう」
「それはつまり、君は僕に興味を持ったということ?」
相変わらず、まったく崩れることのない微笑で六花が問う。葉楠は軽く頷いた。
「素晴らしい」
感情的なはずのその言葉は、実に無味乾燥なものだった。
「あんたは、ここの高校の生徒?」
「はい。そして、いいえ」
「どっちだよ」
「どっちもです」
「意味がわからない」
「夜のあいだだけ、生徒になります」
夜間部、という意味だろうか。この高校にそんなものがあった記憶はないが、葉楠とて学校を熟知しているわけではない。
納得した様子の葉楠を見て、次は自分の番だと思ったらしい。六花が口を開く。
「どうして君はそんな服を着ているのですか?この高校はブレザーのはず」
「ああ」
言いながら、葉楠は着ている学ランの胸の部分を意味もなく指で摘んだ。
二年ほど前にも日本に滞在していた時期がある。その当時、中学生だった彼の通った学校の制服は学ランだった。高校指定のブレザーを購入しても良かったのだが、どうせまた転校するのだから、と学校側に話をつけて、学ランで通学することが許された。ブレザーばかりの中での、黒の学ランは目立つ。そう、どうせおれはアウトサイダーなんだ。皮肉っぽく、自分に言い聞かせたりした。
仲間に入れて欲しい。同じものだと認めて欲しい。みんなと同じになりたい。
そう願うと同時に、違っていなくてはいけない、と思う。同じになってはいけない。否、同じでは元からないのだから、仲間になどなれなくて当然だ。
「ちょっと、な」
結局言い濁すことしか出来なかった。
「それの名称は?」
「学ラン?」
「学ラン…」
呟いて、六花はじっと葉楠の心臓辺りを見つめる。
「いる?」
「要る?いいえ。僕はもう服を着ています」
「そうじゃなくてさ、欲しい?ってこと」
「僕に受け取って欲しいということですか?」
「うん、そう思ってもらっても構わない。どうせおれは、明日いなくなるし。学校にはもう来ないし。制服を使うこともないし」
「では」
何だか人助けをしたような気分になっていた葉楠に、六花は遠慮もなく近付く。上二つのボタンを開けたままだった学ランの残りのボタンを外そうと、六花が不器用な手つきで指をかけた。
「なに、今もらうの?」
「今ではないつもりだったのですか?」
「いや…そうだな、別に今でも構わない」
ただし、自分で脱ぐよ。と、六花の手を押しとどめると、葉楠はひとつひとつボタンを外していく。見守るように、その動作を見つめる六花は口元に手をやると、
「構わない、というのは、意見を述べることを拒否する言葉ですか?」
「なんで?」
「君は、僕がその学ランを手に入れても構わないと言った。僕は受け取って欲しいか、と聞いたのに。それは、僕が手に入れても、手に入れなくても、どちらでも君には差し障りがないということ?」
その通りだ。自分の意見なんて、それが通る機会なんてあってないようなものだから。葉楠が望むと望まないとに関わらず、世界中を旅しなくてはならなかった。好きになった人間から離れなくてはならなかった。友人になって欲しいと願った人間は、他の友達の元へと、葉楠を置いていった。当たり前の話だ。いなくなるとわかっているなら、固執する必要もない。その場だけの友人を演じていたほうが、どちらにも都合が良い。だけど、その度に淋しかった。がっかりするくらいなら。悲しい思いをするくらいなら。だったら、意見なんてもの、初めから持たなければ良い。
「その通りだよ」
学ランを脱いで、立ったままの六花に突き出す。むんずとそれを掴むと、六花は袖に腕を通した。
「なぜ?」
「悲しい思いをしたくない、と思ったから。かな」
「では、どうして君は笑わないのですか?ひとは、悲しくないときに笑うのでしょう?」
「…嬉しいときや楽しいとき、幸せなときに笑うんだと思うよ」
「君は幸せではないのですか?」
ボタンをぴっちりと上までとめてしまうと、六花は元いた椅子に落ち着いた。それは、六花の闇のような髪の色にとてもよく似合った。
「似合うよ」
「学ラン?」
「うん。あんたに似合ってる」
おれなんかより、よっぽど。
苦笑のような微笑みを浮かべると、六花がこちらを見据えていた。
「なんだよ」
「君。小川葉楠くん。君の望みはなんですか?」
「なに、それ。叶えてくれるの?」
「叶えて欲しいのですか?」
どっちでも構わない、と答えようとして思いとどまった。
どうせこの国ともお別れなのだ。失うものなど何もない。だったら、言ってしまえばいい。
「ああ。叶えて欲しい。それが可能なんだったら」
「叶えましょう」
「ともだちが、欲しい」
「ともだち?」
「おれのことを気にかけてくれるやつ。おれがどこにいてても、どの国でどの言語を話していても、おれという存在を覚えていてくれるやつ。お互いに、お互いを思い合えるやつ。そして、会話が出来るやつ」
言ってしまってから気恥ずかしくて、何を子供じみたことを言っているのだと蔑まれるのではないかと、葉楠は頭を垂れた。
「では、僕が」
言葉の真意がつかめなくて、葉楠が顔を上げる。六花の顔を見たからといってわかることでもないのに。そもそも、感情の起伏がひどく欠落している六花であるというのに。
「僕が、君のともだちになりましょう」
その微笑みは、出会ったときと同じ、どこか作り物めいていたけれど、その後ろに見え隠れする優しさのようなものを感じて、葉楠は笑った。
「いやに簡単な望みだったな」
「幸せですか?」
「うん。幸せだと思うよ」
あれからもう十年ほどが経つ。葉楠のくれた学ランに身を包む六花の姿はあの時と同じまま。少年にしか見えない。時間の流れが違うというのは、時に便利で時に不便だ。
人間の感情がどういう仕組みで動くのかが知りたい。初めはそういう好奇心だった。あの夜、花壇の前に立ち尽くす葉楠に声をかけたのも、単なる偶然に過ぎない。そう、人間と接触できるきっかけが欲しかっただけ。
表面上はなんの変化のないはずの葉楠の内面はしかし、オーロラのように姿を変え色を変えて、感情をオーラに変換して盗み見していた六花を魅了した。そして、ついつい望みの話をした。どこかで読んだことがあったから。人間はいついかなる時にでも、望みを手放さないいきものだと。強欲なのだと。そう聞いていたから、葉楠のような人間が欲するものは何なのだろうと気になった。
あれからずっと、人間の感情を観察してきた。まだまだ知らないことはたくさんあるけれど、それでも今ならわかる。ともだちが欲しいと口にしたときの葉楠の瞳に宿っていたもの。あれは、寂しさ。あのときの葉楠の笑顔。あれが六花に与えた感情は、喜び。
使い魔からの報告では、葉楠は今はヨーロッパに落ち着いたらしい。社会学の博士号を取得するために大学にいるという。何冊か本も出版されたようだった。きっと、日本には戻らないのだろう。
あのとき、六花のポケットにいれたままだった使い魔の羽根。学ランの代わりにと葉楠にあげたもの。あれを、葉楠は一日に一度、寝る前に手に取る。使い魔のそれが経験するもの全ては、六花にダイレクトに伝わる。葉楠の、無骨だけれど、愛情深い手と指。それを毎日感じていられる六花は、微笑み続けることが出来る。それは幸せというのではなかったのか。
どの国にいても、どの言語を話していても、例えどんなに時間が経っても、その存在を覚えている。ならばきっと、六花は葉楠のともだちのままなのだ。
それは六花の瞳に優しい陰を落とす。
歴史資料室の中、夕暮れに染まる校庭を見下ろしながら、六花は声の届くはずのない葉楠に語りかける。人間の、なんと不便で愛おしいことか。
「例え世界が君を忘れても、僕は忘れないよ」




