魔女チョコレート
覚悟を決めろ!
はちまきをきゅっと頭に絞り付ける。そういうのが自分には似合う。そう。うじうじしている自分なんて誰も期待していないはず。
何度も何度もそう言い聞かせて、ともすれば自宅に戻ろうとする足を、この深夜に浮かび上がる学校に向けてきたのだ。
榎沢里奈は、ここ粂里高校の三年生で、明日は高校生生活最後のバレンタインデーだ。つまりはもうそろそろ卒業。大学へは所属しているバレー部からの推薦で、今年の春からはこの住み慣れた地元を離れる。
身長は、四捨五入の切り捨てで百七十五センチ。大女だの巨人だのと言われ続けて早何年と経つが、段々と諦めるということを覚えた。身長で人間性を決められる。そういうことが、悲しいかな多いというだけのこと。
閉ざされた校門の上に楽々と手をおいて、その軽い体を飛び越えさせる。侵入成功。安いスパイ映画の主役にでもなった気分。南端にある一階男子トイレは窓が壊れている。窓に頭をつっこんで入ろうかと思ったが、それだと非効率だ。窓枠の上を手で持って、足からするりと入る。柔軟さには自信がある。
目指しているのは、最上階にある歴史資料室。今は使用されていないその教室は、ある意味において非常に有名だ。そこで夜間にだけ動き出す生徒会は、そこを訪れる人の望みを一つだけ叶えてくれるという。もちろん甘い話には裏がある。しかし、そこに訪れた誰かが痛い目に遭ったという噂は聞かない。
警備員に見つかると厄介なので、大股で、だけども静かに歩いて校舎内を移動する。自分の息遣いをえらく身近に感じる。どうして、人のいない大きな建物はこんなに人を不安にさせるんだろう?
古ぼけたプレート。目に入った瞬間、心臓が高鳴る。意識しないようにしていたけど、きっと緊張しているんだろうと自分で分析してみる。そうやって、心を落ち着かす。何事も、諦めが肝心。完璧になんてなれない。緊張して当たり前。自分を鼓舞する。
一瞬でも迷えば、きっと一生この扉を開けられる日なんてこない。そう悟って、思い切りよく扉を開けた。
開かない。
「は?」
出鼻を挫かれるとは。えらく不愉快。
「ったく………」
ぼやいて、押してみる。失敗。じゃあ、引き戸?そうでもない。
「何なの?いい加減にしてよね」
さっきよりも大きな声での独り言。扉を蹴っ飛ばしてやろうと、右足を大きく振りかぶる。爪先が扉に触れた瞬間、まず足が吸い込まれた。引きずられるようにして、体全体が扉に飲み込まれていく。ゼリーみたいな感触がやけに生々しく、気持ちが悪い。カタツムリだとかナメクジだとかは、苦手なのだ。
ぎゅっと目を瞑って、口を閉じる。
空気を肌に感じて、おそるおそる目を開くと、目の前に靴があった。磨かれた黒い革靴と、そこから伸びる黒いパンツ。
「ようこそいらっしゃいました。今宵は、どのような御用件でしょう」
それが、長い夜の始まり。
ぺたんと座り込んだままでいると、そっと手を差しのべられた。そんな扱いには慣れていない。そもそもここは日本だ。紳士の国、英国なんかじゃないのに。
自分で立ち上がると、思っていた通り、眼前の男は自分よりも背が低かった。
そう、思っていた通り。慣れている筈なのに、いつもそっとがっかりする。そんな自分に腹が立つ。
「榎沢里奈さん」
ふいに名前をフルネームで呼ばれて、ぎょっとして顔を上げ直す。
「あんた、誰」
言って、きちんと男を観察する。黒の学ランを上まできっちりと止めている。髪は同じく漆黒。目までもが真っ黒。まるでカラスのような男。どうやら背格好だけで判断すると学生のようだけれど、にしては何か怪しい。何だか、こちらの態度を見透かしたような物腰。本能的に、怖い。
「僕は、不知火六花。粂里高校生徒会の会長を務めさせていただいでます」
「生徒会?制服が違うっていうのに?うちの学校はブレザーよ。男も女も。学ランなんかじゃないわ」
「厳しいなあ」
微苦笑して、微かに首を振る。ちっとも困ってなんかいないような素振り。ますます得体の知れない男。何だかこのまま、引き返してしまいたい。でも、そうも言ってられない。
「あんた、誰なの?」
前回よりもはっきりと単語と単語を区別して発音してみせる。先程からの微苦笑を損なわないまま、会長とやらは、
「不知火、六花です。それ以上でもそれ以下でもありません。貴方の望みをここで吐露されては如何でしょうか。僕は、そのためにここにいます」
ぬけぬけと言い放つ。
ふうん、と目を細めて、里奈はわざとその誘いに応じた。負けん気が強い、ともいう。でも、それ以上に本当は、その願いを心底叶えて欲しいと思っていたからなのかもしれない。自分の気持ちというのは、時に、他人のそれよりも理解し難く、厄介なものだ。
「チョコレートを作りにきたの。ここでは普通ではないものが手に入るんでしょう?」
「そういうことも、あるかもしれません」
「そう。そうね。そして、そう、あたしはきっと、その、『かもしれない』、っていうのに賭けに来たのかもしれない。ただのチョコレートじゃなくて、あたしが作りたいのは、もらった相手の人生観が変わっちゃうような、そういうのなの」
言い切ってから、何だか気恥ずかしくなってきた。こんな風に誰かに自分の意見をはっきり言うなんて。無理かもしれないのに。
「承りました」
透き通った、だけれど少しだけこそばゆいその声はまるで、空気を震わす小さな雷鳴のようだった。一瞬、自分の耳を疑って、里奈はさっと顔を上げる。会長と目が合った。
さっきとは微妙に違う種類の笑み。それでも、それは何だか作り物めいていて、彼の真意をつかもうとしたけれど、それはひどく困難なことに思えた。
「榎沢さん。おかけになっていらして下さい。いま、係の者を呼んで参りますので」
自分は、ここで何をしているんだろう?
係の者、だなんてまるでお役所仕事ではないか。気分を害していつつも渋々とその場に大人しくしていたのは、やはり、諦めきれないからだ。諦めた方が、楽なのに。そんなことはわかってる。全てがすべて、割り切れるようなことではない。わかっているけれど。
「お待たせしました、榎沢さん」音もなく気配もなく部屋に入ってくると、会長がすっと斜めに身を引いた。
後ろに隠れるようにして立っていたのは、小柄な少女。髪はショッキングピンク。それをツインテールにして、背筋を伸ばして立っている。少女は、会長が口を開く前にぴょこんとおじぎをすると、
「どうもー。今回の担当になりました、柚川瑶です!よろしくー」
マシュマロのような、甘い、くすぐったい声でそう自己紹介すると、小首を傾げて微笑む。砂糖菓子のような女の子。
「どうも」
首だけで会釈した自分は、それに比べてどうだ。わかってる。かわいげのない女。それが長年、自分に課せられた評価。そんなこと。
「じゃあ瑶、頼んだよ」
「あいあいさー!」
おどけて敬礼をして、会長から里奈へと向き直る。瑶は、屈託のない笑顔で、
「じゃー、いっっちょ作っちゃいますか。里奈ちゃんの好きな男の子の人生、変えちゃうような、魔女チョコレート!」
「里奈ちゃん?」
「へ?あれ?里奈ちゃん、だよね。名前」
「そう、だけど……」
一瞬口ごもって、一瞬迷って、それでも何故か口にした。
「そんな風に呼ばれたこと、ないからさ」
「そうなの?じゃあ、あたしが一番のりだね。やりい♪」
小さく手を叩いて喜ぶ。そんな仕草が似合う。そして、それは一部の女の子にしか許されない仕草。かわいくて、壊れそうで、まるで綿菓子のような女の子。それは、自分にはあてはまらない。
「さ、里奈ちゃん。家庭科室に行くよー」
短いスカートの裾を翻して、瑶が先導する。フラミンゴのような髪の少女を追いかけながら、ふと後ろ髪を引かれるように振り返ると、会長と目が合った。会ったときから変わらない、表面上は優しげな笑み。そのままで、そっと会長が呟く。
「榎沢さん。貴女は、ご自分で認識なさっているよりずっと、魅力的ですよ」
瞬時に顔が赤くなるのを感じる。恥ずかしい。人前で狼狽えるなんて。俯いて、視線を逸らして、里奈は歴史資料室をあとにした。
目指すは、家庭科室。
目指すは、魔女チョコレート。
「さーてーとー」
家庭科室の電気を煌々(こうこう)とつけて、瑶が入室する。七つあったうちの真ん中の机にどっかと胡座をかくと、
「補足自己紹介ね。里奈ちゃん」
いたずらっこの目で微笑む。
「あたし、魔女です」
「魔女?って、あの、えっと……」
「うん。魔女なんだ。ほら、女の子だからね。これが男の子だったら魔法使いだよ」
明るくそう語られる。里奈は、どういった表情でこの場を切り抜けて良いか今いちわからずに、とりあえず、つられてへらりと笑った。
胡座を解いて、足をぶらぶらと揺らしながら、瑶が、先程とは違った光をその両目に宿す。
「里奈ちゃんの思い人は、一体どういう御仁なのかね?」
勿体ぶった口調で尋ねる。予想はしていた質問だったのに、いざ聞かれるとやはり戸惑ってしまう。そんなものなのだろうか。こういうことさえもコントロール出来るような大人に、早くなりたいものだと、里奈は切望する。ふうと小さくため息をついてから、覚悟を決める。そう、決心して、ここに来たのだから。覚悟を決めろ。
「反田将矢っておとこだよ」
「名前だけじゃわかんないよ」
「何を言えばいいのか、わからない」
「そっか」と、満面の笑み。続けて、
「かわいいね、里奈ちゃん」
真顔で説かれる。頬の温度が急激に上がりかけるのを感じて、必死でそれを押さえる。
「なに、言ってんだか……」
小さくそう呟くのが、精一杯だ。
「で?その反田ってひとは、どんな人なのかな。里奈ちゃんに、どんな態度で接するのかな。どんな言葉をかけるのかな。どんな顔で笑うの?怒るの?話すの?そういうことだよ。そういう、小さいことが聞きたいの。そんな小さなのがたくさん集まって、人となりっていうのが見えてくるんだから」
「反田は……」
言いかけて、また口を噤む。頭の中を、色んな反田が駆け抜ける。言葉を探す。けれど、それを捕まえて言葉に変換するのは、とても億劫な作業に思われた。気持ちを一定の状態にしておくこと、そしてそれを真正面から見つめること。そんなこと、今までしてみたこともない。
「難しいな」思わず洩らす。
「そう。難しくて良いんだよ、里奈ちゃん。人を好きになるっていうのは、そういうことだから。一言で説明なんて出来ないような気持ちを、たくさんたくさん、ある特定の相手に対して持つ、それが一番起こりやすい状態が、恋をしているときなんだから。何も不思議なことではないんだよ」
不思議なのは、そう語る瑶自身だろう。くるくるとその瞳の揺らぎは変わり、今はまるで巫女のような澄んだ目と声をしている。これが、魔女、というものだろうか。
そう自分で思い立ったものの何だか騙されたような気持ちになる。普段の自分なら、こんなこと信用しないはずだ。魔女だとか、何だとか。そんなおとぎ話のような話、信じたことなどない。もともと、絵本などを喜んで読むような子供でもなかった。親には、もっと夢を持てと言われた。そんな自分が、今ここで、魔女だと名乗る少女に耳を傾けている。ここに来ようとした時点で、自分は少し頭がおかしくなっていたのかもしれない。
「ねえ、里奈ちゃん。連想ゲームでもしようか」
唐突に、しかし、決して思いつきではない口調で瑶が言い出した。
「反田将矢くんについて、の連想ゲーム。あたしが今から、一つだけキーワードを出すから、そこからどんどんと色んなこと、思い出したり、想像したり、してみてよ。で、言いたいことだけ、教えて?」
「あの………」
話しかけたいけれど、何て呼びかければ良いのだろうか。
「たまき。瑶で良いよ、里奈ちゃん」
どこまでも素直な物言い。羨ましい、のかもしれない。そんな感情は、持ちたくないから、今まで無視してきた。自分は果たして、素直になったことがあるのだろうか。
「たまき…、あなた、いくつ?」
子供みたいで少女のようで、でも老婆のようにも見える。雰囲気でさえ、清純だったり蠱惑的だったり。質問に、一瞬だけ目を丸くした瑶は、やがてその口唇を魅惑的な形に歪めて、
「ひみつ」
とだけ、言った。
バレンタインは明日。チョコレートは今日中に作らなければ。そして、ゲームは今、始まる。
家庭科室のロッカーをこじ開けて発見したインスタントコーヒーを、これもまたどこかから見繕ってきたマグカップに二人分注いでから、瑶が席に着いた。彼女は、先程と同じ机の上。里奈は、落ち着かない様子で椅子に腰かけている。
「ではでは、始めましょうかしら」
羽毛で首筋をくすぐるような声音で、瑶がそう告げる。緊張した面持ちで、里奈は頷いた。上手く出来るだろうか。
「出会い!さ、どうぞ!」
言葉は、音だ。そして、音速と同じスピードで思考は走り始める。それはあたかも早送りで見る大樹の生長のように、色んなものを巻き込んで頭の中を滑っていく。記憶。色、音、匂い、風景、感情、動き。それは言葉に出来ないほどのスピードと量で、正直、里奈自身が驚いたほどだ。それらの中をかいくぐって、一つだけを手に入れる。形にする。
「体育館」
出会った場所。音が聞こえてくる。白いボール。体操服がちらつく。映像、映像、そして映像。
「反田の、靴。私服のときの。ぼろぼろなの。でも、すごく似合ってた。あたしは、あそこまでものに執着して、大切になんてしたこと、ない」
瑶が微笑んだまま、マグカップを手渡してくれる。ひとすすり。まだ、コーヒーは湯気をたてている。ふと、言葉が独りでに出た。
「進路も、そう。あたしの進路は確かに決まっているけど、でも、反田のようではないの。選択するとかしないとか、それはもちろん人によるんだから誰が正しいとかではないって判ってるんだけど、でもあたしは多分自分の決断に完璧に満足していない。反田みたいに、笑いたい。反田みたいに、自分の人生をきちんと選択してすっきりと笑ってみたい。それがないものねだりなのか、反田のものだから余計に輝いてみえるのか………」
一旦、そう独白し始めると、止まらなくなった。瑶が聞いているかどうかなんて、途中でわからなくなる。まるで、鏡の向こうに自分に良く似た、でも違う自分がいて、その人に話しかけているみたいな気分。
「妬んだり、嫉妬したり、羨ましがったり、そういうことをあたしはしたくない。それはこれからも変わらないし、そういう気持ちが必要だとも、あんまり思わない。だけど、あたしは………。何だかわからなくなるときがある。特に反田といると。反田を見ているとね、あたしはもしかして、自分の感情を押し込めているんじゃないかって。感情を吐露することだけがコミュニケーションではない。でも、でもね。反田はいつも、素直に自分の気持ちをその顔に表している。そして、反田の周りには、いつもたくさんの人がいる。あたしの周りには、いない。それは、あたしがつまらない人間だからなのかな。欠点のない人間なんていない、コンプレックスが皆無の人間なんていない、でも、でも、あたしはこのままでいいのかな。進路は確かに決まってるけど、このまま進んで、あたしは一体どこに行き着くんだろう?」
論点がずれている。そんなこと、わかっている。あたしは元々、反田にチョコレートをあげたかったんだ。何故って、反田に自分のことを忘れて欲しくなかったから。反田に、覚えていて欲しい。反田に、追いつきたい。そんな思いがどこかにあったから。
追いつきたい?それは、その気持ちは、どこからやってきたんだろう。反田は、あたしにとって、何なんだろう。そんなの、聞くことすら馬鹿げている。だって、ほんとうは、そういうことは、聞いて知るもんじゃない。知っているもののはず。感覚に訴えかけることを、どうして、あたしは明確に理解していないんだろう。どうしてあたしは今、こんなことを考えているんだろう。混乱する。
「た、たまき。あたし」
それを言うのが精一杯だった。それとて、別に意味をなしていたわけではない。ただ、何か言わないと、外界に触れていないと、自分がどこか遠くに行ってしまいそうだったから。不安で、心細くて、そっと瑶を見上げると、彼女はどこか超然とした微笑みのまま、
「うん。大丈夫だよ、里奈ちゃん」
と、言った。
一体何が大丈夫なのか、一体何を彼女は理解しているというのか、そんなことはちらりとも脳裏をかすめず、その言葉に、里奈は大いに安堵した。
机の上に、自分のマグカップを置いて、瑶が里奈の顔を覗き込む。その瞳は、まるで底なし沼。どこも見ていない、けれど、どこからも目をそらしていない、そういう眼差し。それの持ち主は、そっと笑うと、幼児をあやす母親の口調で、里奈に告げた。
「里奈ちゃん、反田くんのこと、大事に思っているんだね。でもね。里奈ちゃんの、反田くんへの感情は、恋かな?」
瑶の言葉は、里奈の耳に届いていたのに、それが意味を成すまでに、随分と時間がかかった。目を閉じれば、視覚は遮断出来るが、聴覚はそうもいかない。聞こえてしまったものは、遅かれ早かれ、脳に届いてしまう。心に届いてしまう。
「恋、じゃない?」
呟く。
瑶が寛容な笑みを浮かべる。
「その可能性もあるってだけだよ。だって、里奈ちゃんは恋愛という言葉をまだ一度も使っていないもんね。あたしが勘違いしちゃったのかも。相手の人生観を変えちゃうようなチョコって聞いて、わあ、これは大恋愛だあって思っちゃった。恋が一番でもないもんね。バレンタインだからって、恋愛でなきゃいけないわけでもないし。色んな愛があるからねえ。友愛、家族愛、同志愛、エトセトラ。ぜえんぶ、大事だもの」
だから、気にしないで。そんな裏の台詞が聞こえてきそうだ。
今のこの衝撃をどう、言葉にしたら良いのか。確かに、里奈は恋愛経験が抱負ではない。だからといって、恋愛が何たるかを知らないほど、朴念仁ではないと思っていた。数刻前までは。
反田に、恋をしていたのではなかったのだろうか。もし、仮に恋ではないのだとしたら、どの時点で、自分はそれを恋だと誤認してしまったのだろう。もし、仮にこれも恋なのだとしたら、瑶の言った、いわゆる恋、ではない感情を、なぜ反田に持っているのだろう。
「里奈ちゃん、里奈ちゃん」
マグカップを握りしめたまま、顔を下に向けてうなだれていると、頭上から瑶の慌てた声が聞こえてきた。ふと見れば、コーヒーは湯気をたてるのをもうやめて、茶色い液体はゆらゆらとゆれて、里奈の顔をおぼろげに映し出していた。
「里奈ちゃん。恋愛じゃないから、何なの。一般的にみんなが思っている恋ではないから、一体それが何なの。凡庸である必要なんてないんだよ。良いんだよ。奇抜でなくても良いの。大事なのはね、里奈ちゃんが何を感じたか。そこが重要だよ。一番、重要」
「でも、あたし、反田のこと、好きだと思ってたのに。これが、恋でないなら、一体何なの?」
「気持ちはね、不安定だからね。一応さ、辞書には一体どういった気分をどう呼ぶのかが書いてあるけれど、それにぴったり当てはまる人なんて、そうそういないと思うな。だから、あたしはさっき、恋じゃないかもなんて言ったけど、里奈ちゃんの辞書では、それは恋かもしれない。恋でも良い、恋じゃなくても良い。決めるのは、自分だよ。里奈ちゃん自身が名前を付けてあげないと。里奈ちゃんの、大事な大事な気持ちなんだから。ね。あたしが決めるんじゃなくて、他の誰が決めるんでもなくて、里奈ちゃんが決めるのがいっちばん大事」
「自分で、決める………」
瑶の言葉を繰り返して、里奈はまた黙りこくる。成績も悪くない方だった。運動だって得意だ。でも、今まで自分で何かを積極的に決断したことが、果たしてあったろうか。バレーの推薦で大学に進むのが、一番、賢い選択だと、色々な人から言われた。言われていくうちに、何だかそんな気になって、気付けば、進路は決まっていた。推薦を獲得した、と教えられたとき、嬉しくも悲しくも、悔しくも達成感も、なかった。心にメーターがあるのだとしたら、動かなかった。滅多なことでは動かないのだ。自分のメーターは。反田将矢に関わること以外は。
だとしたら。
そのメーターを動かされた、それだけで、反田は貴重な存在だろう。反田に、恋い焦がれる、といった感情はなかった。それは認めざるをえない。だけれど、ずっと目で追っていた。反田の周りはきらきらしているように見えた。時に突拍子もないことを言い出したり、現実的に不可能な夢を語り出したり、そんな反田が、まぶしかった。
追いつきたい。反田が見ている風景を、自分の目でも見てみたい。あんな風に、小さなことでくるくると表情を変えてみたい。それはもしかしたら、雑誌で見るような恋愛の形ではないかもしれない。でも里奈にとっては、それは紛れもない恋慕で、だからこそ、覚えておいて欲しくなったのだ。いつか、いつか必ず反田のようなきらきらしたものを、自分の手で手に入れたいと、心のどこかで思っていたから。願っていたから。
それは、宣戦布告のようなもの。そして、自分への誓約のようなもの。
長い沈黙のあいだ、瑶は身じろぎもせず、そっと里奈の側にいた。まるで気配など感じられず、里奈が顔を上げると、案外近くに瑶の顔があって、驚いたくらいだ。
ビー玉のような瑶の瞳を、はじめてまっすぐに見つめて、里奈が言った。反田将矢は、一体どういう人間か。
「質問の答え。反田はね。あたしの、一番愛おしいライバルだよ」
里奈の発言をうけて、瑶が満面の笑みを浮かべる。それは今までで一番透き通った、無邪気な笑顔だった。素敵。そんな言葉が聞こえた気がする。
フラミンゴ色の頭に合わせたのか、ネオンピンクのようにちかちかしたネイルのついた人差し指を、そっと瑶が里奈の胸にあてた。
「魔女チョコレイト☆」
それは、はたして呪文だったのか。
歴史資料室の鍵は、今もぴったりと閉ざされていて、誰かが入った形跡はない。にもかかわらず、その中には二つの人影があって、それらは窓辺に立ち、下校途中の生徒達を見つめながら、会話を始めた。
「瑶はいつも面白いケースを担当するね」
「人は誰しもユニークだよ、会長さん」
ふふ、と忍び笑いを洩らすと、会長は近くにあった椅子に腰をおろす。傍らの少女に、
「さあ。教えてよ。今回はどんなだった」
だんだんと日が落ちてきた。会長の瞳だけが、薄暗い部屋の中で爛々と輝いている。対する瑶は、達観したような眼差しで、
「どこまで言ったっけ?あ、そうだ。里奈ちゃんの胸に、あたしが手を当てたでしょ?里奈ちゃんが今まであたためてきた、その思いをチョコレートにしたの。かけらだけ、もらってきたから。あげようか、会長」
「ありがとう」
丁寧に両手を差し出して、小さなかけらを大事に受け取る。チョコレート特有のにぶい輝きを放つそれを、会長は愛おしそうに見つめる。
「報告によると」手の平のチョコを見つめたまま、会長がふいに口を開く。
「榎沢さん、反田将矢くんには、結局何も言わなかったそうじゃないか。不思議だよ。反田氏に自分の思いを伝えるのが、目的ではなかったのかい?しかも、推薦を取り消してしまったんだって?僕が聞いていたのは、人間は失敗を恐れて、安全な道を好む。だったら榎沢さんは、僕が聞いたのとまったく正反対のことをしたことになる。目的だと主張していたことを実行せず、安全な道を蹴って。………僕にはさっぱりだ」
秀麗な眉をひそめて、けれども変わらない美貌のままで、呟くように言うと、瑶は、
「会長?人間てのはね、割とあまのじゃくなんだよ。欲しいときに欲しくないって、欲しくもないものをとりあえず欲しいって、そういうことをしたり。反田くんに伝えたかったのは、結局伝えなくても良いことだったからだよ。多分ね。里奈ちゃんはそれに気付いたから。反田くんっていう存在が、里奈ちゃんにとって大切なのであって、思いを伝えることは、今の里奈ちゃんにとっては、さして重要ではなかったんだよ。それよりも、保険のような意味合いで取った推薦をどうにかすることの方が、里奈ちゃんにとっては意味のあることだった。それだけでしょ」
自信満々に言い切ってから、同じ口調で、多分ね、と付け加える。
「ふうん?わからないなあ」
「人間はさ、あたしたちと違って、限られた時間しかないから。だから、その制限時間の中で、いかに自分を見つけられるかが、大きな課題なんだよ」
「自分を、見つける?」
「そ。何だって良いんだけどね。夢だとか希望だとか、場合によっては復讐だとか。そういう、何か一本筋の通ったものを、自分の中に見いださないと、ふらふらしちゃう。意見や考えを、あまりにも頻繁に、極端に変え続けていると、そのうち、自分で自分を見失っちゃう」
「それは、悪いことなのかい?瑶」
一片の邪気もない顔で、会長が傍らの瑶を見やる。苦笑して、
「あんまり、良いことじゃないかもだよ」
そう、と会得のいかない様子で、ぼんやりと会長が相槌をうつ。
「難しいなあ、人間は」
言って目を細めて、校庭に見える生徒達をじっと見つめると、立ったままの瑶を見上げる。非の打ち所のない笑顔で、
「じゃあ榎沢さんは、今は、幸せかな?」
母のような姉のような、それでいて幼子のような笑みで、瑶が答えた。
「それは、里奈ちゃんが決めることだよ」




