?日目 今宵の君は
お待たせしました、梅雨特別編の後半部分になります!
なんだか分量がいつもより多い気がしますがそれはきっと気のせいです
一息ついてベッドに寝転がりながらケータイで今日のニュースをチェックしていると、階下から良い匂いが漂ってきた。刺激された腹の虫が切なげにうめき声を漏らす。時計を見ると、もう夕食の時間が間近に迫っている。
何かつまみ食いでもしてこようかと階段を下りた丁度その時、廊下の奥の脱衣所に繋がる扉ががちゃりと開く音がした。
「ねぇ芒さーん? ちょっと……あ」
「あっ……」
何とはなしにそちらを向いた僕は、扉から出てきた恵夏さんと目が合った。
湯上りで桃色に色づいた肌はつやつやしていて、いかにも柔らかそうだ。シャンプーなのかボディソープなのか、仄かに石鹸のような、清潔で清楚な匂いも漂っている。肩に掛けたタオルで髪を拭いている彼女は、水色の半袖のTシャツとハーフパンツを穿いていた。これは以前芒が着ていた記憶がある。しかし、恵夏さんが着ると胸の辺りが聊か窮屈そうに張りつめ、ぼんやりとだがその形が判ってしまうほどだった。
「あ、え、えーと……い、良いお湯だったわ。ありがとう」
「え、あ、そう、それは良かった……」
なんとなくその姿を直視してはいけないような気がして、曖昧に視線を逸らす。恵夏さんにもそれが伝染したのか、彼女もまたなんとなく歯切れの悪い様子だった。それきり会話も続かず、ただお互い無意味に頷きあう。
「はーい、どうなさったんですかー? あ、お湯加減どうでしたか? 少し温めにしておいたんですが」
不意に背後で扉が開き、視界の端に黒い尻尾が映り込んだ。芒と入れ替わるようにして、僕は一歩下がり彼女の半歩後ろにつく。
「ええ、丁度良かったわ。私熱いのあんまり得意じゃなくて」
「それは良かったです! あ、もうお夕飯出来てますよ。恵夏さんも食べていかれますよね?」
「ええ、折角だからご一緒させてもらうわ。それで芒さん、用意してもらったこの服、少しきついのだけれど……」
「あら、本当ですね。体格は同じくらいだと思ったんですが……仕方ありません、秋斗さんのでも構いませんか?」
「ええ、秋斗君が良いなら私は平気だけれど」
「僕も大丈夫。ワイシャツでいい?」
「ええ。お願いするわ」
彼女をなるべく視界に入れないようにしながら、そそくさと自室へ向かう。何故だか、いつもより恵夏さんの存在が僕の中で大きく見えた。
クローゼットを開け、昨日洗濯したばかりの、未だ僅かに洗剤の匂いが残る一枚を手に取る。そういえば、芒にも最初の夜ワイシャツを着せたっけ。あの時は尻尾が消せなかったため裸ワイシャツになってもらったが……
ふと、脳裏に浮かんだ一つの映像。僕のワイシャツの他には何も纏わず、もじもじと裾を握りながら潤んだ瞳でこちらを見る恵夏さんの姿……
「………っ!? いやいやいやいやいやこれはまずいって流石に……!」
ぶんぶんと頭を振って今の妄想を振り払おうとする。しかし、あまりにも鮮明に浮かんだそれは記憶に張り付いて、消えてくれそうもなかった。今まさに手に持っているこれを、彼女に直接渡さなければならないというのに。
「………えぇい!」
僕はもう一度頭を振って蘇りかけた妄想を彼方へ追いやると、速足で階段を降りていった。そんな僕の様子に二人はやや怪訝そうな様子だったが、恵夏さんはお礼を言って僕から服を受け取り、再び脱衣所に消えていった。
* * *
着替え終わった恵夏さんを交え、三人で食卓に着く。突然の訪問だったにも関わらず、いつもより豪華なメニューが並んでいるのは流石というべきか。ほかほかとできたての料理たちは、学校帰りの高校生の胃袋を鷲掴みにするのに十分すぎた。
「大したおもてなしもできませんけど……たんと召し上がってくださいね!」
芒は久しぶりに恵夏さんと過ごせることが嬉しいらしく、いつにも増して上機嫌だ。並べられた料理たちからもそれがひしひしと伝わってきた。思えばこうして友達を呼んで一緒に食事をしたことなんて今までになかったから、そう考えるとなんだかパーティーみたいで高揚感がある。
不思議なもので、食卓を囲んでいると話題が次から次へと湧いて来る。学校での出来事や最近気になること、流行りの話から個人的に嵌っていることまで、方向をあっちこっちへと向けながら歓談は続く。それに合わせるように食事の手も進んでいき、気付いた頃には大皿に盛られていた料理は残り僅かとなっていた。
「ごちそうさま。久しぶりにこんなに食べたわ……」
「僕ももう無理かなー……ごちそうさま」
「ふふ、お粗末さまです。綺麗に食べて頂いて嬉しいです!」
目を細めながら食器を運んでいく芒。手伝うよと声をかけたのだが、「秋斗さんは座っていてください」とやんわりと断られた。どうやら、今夜は給仕に徹するつもりらしい。ここで食い下がるのも野暮なので、大人しくソファに座ってテレビを眺めることにする。テーブルの傍で手持無沙汰にしていた恵夏さんも隣に招いて、適当にチャンネルを回していく。ゴールデンタイムと言われるこの時間では、大抵のチャンネルが家族向けのバラエティ番組をやっていた。
やがて、洗い物を終えたらしい芒がお盆にお茶を載せてこちらへ来て、僕を真ん中に挟むようにして恵夏さんの反対側に座った。しばらく会話もなく、ただ漫然とテレビを見つめるだけの、心地良く弛緩した時間が過ぎていく。画面の向こう側で、どっと笑いが起こった。
「あ、もうこんな時間」
ふと時計に目をやった恵夏さんが、ぽつりと零す。釣られて見れば、薄っぺらい壁掛け時計の短針は「9」を少し過ぎた辺りを指していた。
「さすがにそろそろ帰らないと……ねえ、私の服、もう乾いてるかしら?」
「本当ですね。多分もう大丈夫だと思いますけど……ちょっと待っててくださいね」
パタパタと部屋を出て行く芒。程なくして戻ってくると、その手には完全に乾ききった制服が掛けられていた。
「どうぞ、もうばっちりですよ!」
「ありがとう。じゃ、ちょっと着替えてくるわね」
恵夏さんは芒から服を受け取ると廊下に消えた。また脱衣所で着替えるのだろうか。
「それにしても随分早く乾いたね? 今日なんかは特に湿度が高かったと思うけど」
「ええ、そうなんですけど……実はちょっと」
ふと気になった事を投げかけると、狐娘は悪戯がばれた子供のような、それでいてどこか誇らしそうな表情でちろ、と舌を出した。
ああ、なるほど。確かに、彼女ならば可能だろう。
「師匠には内緒ですよ? なるべく『力』は使うなって言われてますから」
「分かってるよ。それに、この短時間で乾かすにはそれしかないと思ったんでしょ? ならこのくらい仕方ないよ」
軽く頭を撫でてやると、控えめに尻尾が揺れた。
少しすると、制服姿に戻った恵夏さんが入って来た。その手には先程まで身に纏っていた、僕のワイシャツがある。
「これ、どうしたらいいかしら。よければ私の家で洗濯して明日返すけど?」
「ああ、いや、そこまでしてくれなくても。今夜に出も一緒に洗ってしまうよ」
「そう? じゃあはい、ありがとう……あ、変なことしないわよね?」
「しないよ! 逆に何をするんだよ」
「えっ、そ、それはほら、『女子高生の脱ぎたてブラウス』とか言って嗅いだり包んだり……って何言わせるのよ!?」
「自分から言いだしたくせに!?」
どうにも恵夏さんは僕に対して未だによからぬイメージを持っているらしい。まったく、僕はこんなにも清純派だというのに。仕方ない、ここは我が家のマジ天使こと芒にフォローしてもらおう。
「あはは、大丈夫ですよ恵夏さん。わたしがちゃんと見張っておきますから」
「ブルータスお前もか……」
なんてことだ、どうやら僕の周りに味方はいないらしい。こうなったら本当にやってやろうかな。いや、流石にそんなことしたら戻ってこられなさそうだからやらないけど。
「さて、それじゃ私はお暇するわね。今日はありがとう、ごちそうさま。いつかお礼させてね」
「はい、またいつでもいらしてくださいね。もう暗いですからお気をつけて」
恵夏さんに続いて、彼女を送って行くため僕も外に出る。もうずいぶん前に雨は上がっていたらしく。涼やかな微風が頬を撫でて通り過ぎていった。
街灯の光に丸く切り取られた道路を並んで歩きだす。僕らの足音とノイズのような羽虫の声の他には何も聞こえない住宅街はしかし、家々に灯る温かな明かりのために穏やかな雰囲気に満ちていた。
「今日は、ありがとね」
横断歩道の前で止まっていると、恵夏さんがぽつりと言った。信号に灯った赤が群青色の空に浮かび上がっている。
「ん? ああ、僕よりも芒に感謝しないと。色々お世話してくれたのは芒だし」
「そうね……でも、呼んでくれたのは秋斗君でしょ? だから、やっぱり貴方に伝えとかないと、と思って」
「まあ、そう言われれば。じゃ、どういたしまして」
中型のトラックが一台、突風を起こしながら通り過ぎていった。
「……あ」
「え? ――わ」
唐突に声を上げた僕に釣られ、恵夏さんが上を見上げる。僕たちの視線の先には、雲一つない、澄み渡った空が広がっていた。まばららな街灯以外には光源も無いこの場所では、瞬く星々は霞むことなく僕たちの網膜にまで光を届けていた。
「そういえば今日って……」
「うん、七月七日。七夕だったね」
首が痛くなるのも厭わず真上を向いて、近くて遠いあの空へ想いを馳せる。
「晴れて良かったわね。せっかくの七夕なんだから」
小学生でも知っているであろう、七夕の伝説。かつて引き離された恋人たちが、年に一度七月七日にだけ天の川を渡って逢瀬を赦されるという。しかしその日に雨が降ってしまうと、会うことは出来ないらしい。それはきっと悲しいことなのだろうと、恋を知らぬ子供ながらに思った記憶がある。逸話通りなら、今宵はきっと彼らも幸せなひと時を過ごしているのだろう。
「――あ、青」
傍らから聞こえた声で、ふっと現実に戻ってくる。見れば、対岸の信号機はいつの間にか通行の許可を出していた。
横断歩道に足を踏み出す恵夏さん。と、二、三歩進んだところで振り向き、僕に向かって片手を挙げる。
「迎えに来てもらうからここまででいいわ、ありがとう」
「そっか。それじゃ」
僕も手を振り返し、背を向けて歩き出そうとする。なんだか祭りが終わった後のような心細さを感じた。こうして彼女と別れるのは今までも何度も経験していたはずなのに、どうして今夜に限ってこんなにも――
「ええ、また明日ね」
背中越しにそんな声が聞こえた。
また、明日。そうだ、何も今生の別れってわけじゃない。また明日、夜が明ければ会えるんだ。そう考えると、物寂しさはあっけなく霧散した。
もう一度振り返ると、彼女はもう背中を向けて歩いていくところだった。いつも通りのポニーテールが毅然と揺れている。
気取った仕草で踵を返すと、僕も歩いてきた道を帰り出した。明日を迎えるために、まずは親愛なる狐っ娘の待っている家に帰ることから始めるとしよう。
満天の星々はただ静かに、二人の行く道をいつまでも見守っていた。
ところで、七月七日はポニーテールの日でもあるらしいですね。書き終わってから知ったのですが、偶然の一致であるものですね




