二日目 初めての夜
初体験ってドキドキしますよね。なにしろ経験が無いわけですから。
安らかな寝息を立てていた少女がうめき声を上げ、可愛らしく欠伸をしながらゆっくりと起き上がった。開かれた闇色の瞳がこちらを見る。
「う、え、えっと、その……おはようございます!」
僕は慌てて伸ばしていた手を引っ込め、気を付けの姿勢になった。若干笑顔が引き攣っているかもしれない。上手く誤魔化せるかは分からないが、最低でも襲おうとしていたなどという誤解は避けたいところだ。
少女がだんだん目を覚ましていき、瞳の焦点が僕に定まる。そして、自分が置かれている状況を理解したのだろう、彼女はシーツを口元まで引き上げ、困惑した瞳でこちらを見つめてきた。……可愛い。
頭を撫でたい衝動に駆られたが、今はそんな場合じゃないということを思い出し、警戒を解いてもらうべく説明を試みる。……そもそも、人間の言葉は通じるんだろうか?
「えーと、怖がらなくても大丈夫、ですよ?」
「…………っ」
「僕は君に危害を加えるつもりはないから」
無防備であることをアピールするため、ハンズアップする僕。それともお腹を見せた方がいいのだろうか。
「……ほ、ほんと?」
「ホントホント。宇迦御霊神に誓ってホントだよ!」
「……うかの……?」
少女は怪訝そうな表情になった。なんでだろう、稲荷神社の神様に誓ったのに。
なんにせよ、警戒はある程度解いてくれたみたいだ。その証拠に、顔半分を覆っていたシーツが首元まで下ろされている。
「とりあえず、君はどうして僕の家にいるの?」
「…………えっと、ここは貴方の家……なんですか?」
「えぇ……?」
どうやら何故自分がここにいるか分かっていないようだ。これでは話にならない。仕方なく、別の切り口から攻めてみることにする。
「じゃあ、君は一体何者なの? 見たところ普通の人間ってわけじゃなさそうだけど」
「わ、わたしですか? わたしの名前は〝芒〟。お察しの通り、狐の妖、です……まあ、まだ修業中ですけどね」
やっぱりそうだったか。そうなると、僕はこの狐娘に少し心当たりがあった。もっとも、それは心当たりと言うより希望的観測ではあるのだが。
「もしかして君、浮舟神社の遣いだったりするのかな?」
「あ、はい、確かにわたしは浮舟神社の鎮守の森に棲んでますけど……」
浮舟神社というのは、僕の通学路沿いにある稲荷神社のことだ。僕は毎朝、登校するついでに立ち寄って参拝していた。「狐っ娘に会わせてくださいなんでもしますから」と。
どうやらようやく僕の祈りは通じたらしい。約一年間、愚直に通い続けた甲斐があったというものだ。僕は小躍りしたくなるのを必死に抑え、狐娘――芒に話しかけた。
「あのさ……もし君が良かったらなんだけど、今日はうちに泊まっていかない? もう時間も遅いし」
「え……良いんですか……? こんな見ず知らずの、しかも妖狐を……」
「うん、僕は全然構わないよ。両親は今いないから気兼ねしなくていいしね」
「ありがとうございます……! あなたは良い人間ですね」
芒はようやく不安げな表情を消し、控えめな笑みを浮かべた。僕は心の中でガッツポーズをする。やった、これで狐っ娘と一つ屋根の下で過ごせる……!
「いやいや、それ程でも。……とりあえず、これ着てくれるかな。なんていうかその、色々とやりづらいから」
「え? ……あ」
僕が箪笥から出したワイシャツを渡しながら言うと、芒は僕の顔と自分の身体を交互に見て、顔を真っ赤に染めた。羞恥のあまり耳も縮こまってしまっている。可愛い。
「っと、僕は廊下にいるから、服を着たら呼んで」
「は、はい……」
消え入りそうな声で返事をする芒に背を向け、僕は部屋から退出する。正直なところ、まだじっくりと彼女を観察させてもらいたかったが、妖怪とは言え女性の着替えをジロジロ見るのは気が引ける。それに、未だかつて彼女の一人もできたことのない高校生男子にとってそれは聊かばかり刺激が強すぎるだろう。ましてや狐っ娘ともなればなおさらだ。僕は理性を保てる自信がない。
「あの……お待たせしました」
僕が廊下で一人悶々としていると、扉が静かに開かれ、中から控えめな声とともに狐耳が顔を覗かせた。
「サイズ大丈夫? きつくない?」
「え、ええ、むしろ少し大きいくらいなんですけど……あの、下は……?」
芒は今、ワイシャツを一枚着ただけという非常に心もとない恰好をしていた。彼女は思ったよりも小柄で、袖が少し余っている。所謂ところの裸ワイシャツというやつだ。僕がそれしか渡していないのだから当然なのだが、恥部が裾でかろうじて隠れているという、目のやり場に困るような姿だ。
しかし、僕は芒の恥ずかしい恰好が見たいがためにワイシャツしか渡さなかったわけではない(実はそれもないといえば嘘になるのだが)。
「いや、だってその尻尾じゃ穿けないでしょ」
「う~~……」
芒は真っ赤になりながら、シャツの裾を少しでも延ばそうと引っ張る。これは写真に収めておきたい光景だ。
「ば、万全の状態なら尻尾を仕舞うくらいできるのに……」
「え、どこか体調悪いの?」
「いえ、そういうわけでは……」
きゅるるるる――
なんとも間抜けな音が部屋に響く。腹の虫が鳴いた音だ。
既に夕食を済ませているので、音源は僕じゃない。とすると……
「ひょっとして、お腹すいてる?」
「う……恥ずかしながら……」
「わかった。何か用意するよ。ついて来て」
「うぅ、すみません……」
僕は苦笑しながら、はらぺこ狐っ娘を伴ってリビングへ向かった。
裸ワイシャツ+ニーソは至高の組み合わせだと思うのです