幕間 すべて世はこともなし
静寂に満たされた神社の拝殿。俗世から乖離したかのような空間の中で、一人の女が青畳に腰を下ろしていた。清水のような銀髪と深紅に染まった瞳が特徴的な、流麗な女だ。
女は時が止まったかのように微動だにせず、ただじっと自身の手の中にある物に視線を注いでいる。それは、黒塗りに金の稲穂の模様が描かれた手鏡だった。
とはいえ、女――榊は自らの端麗な尊顔を眺めて悦に入っていたわけではない。彼女に自己陶酔の趣味は無いのだ。
その鏡面に映し出されていたのは、仲睦まじく並んで歩く少年と黒髪の狐娘――秋斗と芒の姿だった。
この鏡、一見するとただ高価そうな手鏡なのだが、その本質は千里眼の恩恵を宿す霊具である。指定した対象をいつでもどこでも観察できるというプライバシーをガン無視した素敵アイテムだが、使用には莫大な霊力を必要とするため、製作した人間にもまともに扱えず、封印されたまま忘れ去られていた曰くつきの代物だ。そんなものを気軽に扱える辺りに、この妖狐の実力のほどが見て取れる。
「――――秋一郎……」
ふいに、切なげな吐息と共に形の良い唇が微かに動く。それは無意識に漏れ出た言葉だったのだろう。彼女ははっとしたように目を見開き、そして鏡に手を翳した。鏡面に波紋が揺れ、映し出されていた光景は泡沫となって消える。再び鏡面が凪いだ時、そこに映っていたのは銀髪紅眼の艶麗な美貌だった。
榊は鏡を棚に置くと、目を閉じて深呼吸を一つ。それから、背後の誰もいない空間に向かって言葉を発した。
「それで、お前はいつまでそこに隠れているつもりだ?」
当然、返答は無い。が、その代わりにそこに放置されていた湯呑の一つが突然倒れた。かと思うと、それはまるで意思を持っているかのように榊の傍まで転がり、
「いやー、流石だねー。いつから気づいてたんだい?」
そんな呑気そうな声とともに、人の姿に変わった。
紫陽花色のふわふわした癖っ毛が特徴の、小柄な少女である。琥珀を思わせる黄色の瞳は半分ほどしか開かれておらず、両目の下に施された蒼い隈取りも影響してか、随分眠たげに見える。深緑色の羽織に身を包んだその姿は、年端もいかぬ童そのものだ。
「湯呑が増えたら普通気付くだろう……それで、一体何の用だ? 〝樒〟」
しかしこの少女、一目見て人の子ではないと分かる。ぬいぐるみを想起させる、太く、毛深い尻尾が三本生えているのだ。加えて、頭には丸っこい獣耳がちょこんとくっついていた。
そう、〝樒〟と呼ばれた少女の正体は、古狸の妖である。へらへらと締まりのない笑みを浮かべているものの、彼女の纏う雰囲気は、妖の頂点の一角に相応しい高貴なる尊厳を感じさせた。
「つれないねぇ、さっちゃんは。古い朋友を訪ねるのにいちいち理由が必要かい?」
「誰が〝さっちゃん〟だ。その呼び方は止めろと何度言えば気が済むんだ? そしてお前が理由もなく私を訪ねるはずがないだろう。もう一度訊くぞ」
用事は何だ?
不機嫌そうな視線を向ける榊。それを受け止めながらも樒は動じた素振りは見せず、しかし先程よりもやや真剣味を帯びた様子で口を開いた。
「いやね、君が人間と関わるなんていつ振りかと思ってさぁ。一体どういう心境の変化があったのか、ボクはちょっとだけ気になったんだよー」
「………何のことはない、只の気紛れだよ」
そう言う榊は、しかし視線を逸らしておりどこか後ろ暗いことがあるようにも見える。
「ふぅん? ところでさぁ、あの子、秋斗くんって言ったっけ……なんだか彼に似てると思わない? ほら、シュウくんにさぁ」
「……さあ、な。そんな昔の事などもう忘れてしまったよ」
「……へぇ? まあいいや。そういうことにしといてあげるよー」
今のところはね、と樒は心の中で付け足す。そんな彼女の思惑を知ってか知らずか、榊はフン、と鼻を鳴らした。
「それよりさぁ、良いお酒が手に入ったんだー。久しぶりに、一緒にどう?」
「こんな昼間から酒とは言い御身分だな。まさかそちらが本題ではないだろうな? ……だが、悪くないな。付き合ってやろう」
「あはは~、さっちゃんも好きだよねー」
「だからさっちゃんは止めろと言うに……」
何処からか取り出した瓢箪を掲げながら朗らかに笑う樒に、榊は嘆息しつつも隣に腰を下ろす。
(忘れてしまった、ねぇ?)
樒は、その一瞬、榊が棚の方へ視線を向けたのを見逃さなかった。が、それを指摘することなく胸の内に留め、代わりに盃を呷る。
人気のない神社で、人ならざる者たちの穏やかな時が流れていくのだった。




