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エッセイ

「小説家になろう」の意味

作者: 白星マサキ

 このサイトの名前「小説家になろう」と言うそのサイト名を、どのような意味で捉えているのか、その解釈は複数通りあるのだと言う事に最近気付いた。

 多くの人はそんなこと深く考えてもいないだろうから、二つ以上の解釈があり得ると言うことに気付いていないと言う人も少なくないかもしれない。


 自分が「小説家になろう」と言うサイトを知ったときのことを思い出す。


 私は本格的に作家を目指し、きちんと小説を発表して評価してもらう場、そしてあわよくばそこから仕事に繋がっていくような場所を作るべきだろうと考えていた。

 そんなときに、私の作品を見ていただいた方から「『小説家になろう』とかで、公開してみるのも良いかもしれない」と言う言葉をいただいた。

 恥ずかしながら、私はその時このサイトの存在を知らなかった。それで、後から調べてみて初めてこのサイトの存在を知った。

 そのような文脈で知ったから、私は無意識に「小説家になりたい!と思っている人が、その登竜門として利用するサイトなんだ。いわば、小説家の卵のためのサイトだ!」と言う風に解釈していた。


 しかし、どうもそれとは違う解釈もあるらしい言う事に気付いた。


 そこには、定義の問題が横たわっている。「小説家」と言う単語が、あるいは「作家」と言う単語が、非常に定義の難しいものだという問題が存在しているのだ。


 その中で可能な一つの解釈が「小説家になろう」というのは「小説を書こう!」と言う意味に過ぎないというものである。


 そもそも「小説家」と言う単語には、職業を表す側面と同時に「読書家」というような「○○を好んで行う人」と言う意味もありえる。そう言う意味で言うならば、小説を書いている時点で貴方は「小説家」であると言える。「小説家になろう」と言うサイトは、その発表の場を提供することによって「小説を書く(=小説家になる)と言うモチベーションを刺激している」と言う意味で「小説家になろう!」とユーザーの一人一人に呼びかける存在だ、と言う解釈が可能だ。


 また、もう一つの解釈は「あなたも小説を公開してみよう!」だ。つまり、このサイトで小説を公開している一人一人が、そのことによって小説家なのだ。


 それは言うならば「(アマチュア)小説家になろう」とも言い換えることが出来るかもしれない。もっと言えば「(擬似的に)小説家になろう」とも言える。「このサイトを通して小説家になるという行為を疑似体験できるんですよ」、そういうコンセプトの表明だと読み取ることも出来る。

 この場合は、ユーザーが小説家になるという行為は「小説を公表した」と言う時点で完了する。それは擬似的な小説家にとって、出版を行ったということの模倣であるのだから、と言う意味である。


 もしかしたら当然のようにどれかの解釈で納得していた人にとっては、他の解釈はこじつけのように感じるかもしれない。でも、私はそうは思わない。実際、そのようなそれぞれの受け取り方でそれぞれのスタイルで「小説家になろう」を利用している人がいるな、と言うのはこのサイトを利用していて何度も感じてきた。


 どうしてそのように、同じ言葉から違う意味を受け取るのか?それは言葉の意味が、送り手と受け手の双方の中間に浮かび上がるような性質を持っているものだという事実に起因するのだと私は考えている。つまり私達が文章を、言葉を読む場合には、無意識にその言葉の向こうに「自分の望む意味」を見出し、すくい上げているのだ。


 これは別の角度から考えると、人間が文章を読む際、脳の内部で活性化されているある種の情報のまとまりと関連性の高い解釈を無意識に選択している、と言う認知神経科学的なアプローチも出来ると思っている。その方が、願望によってメッセージを歪めてしまうのだ、と言う誤解は避けられるかもしれない。


 極端な例を出そう。例えば「マフラー」と言う単語を聞いた時、多くの人の脳裏には首に巻く防寒用の布が浮かぶはずだ。しかし車やバイクが好きな一部の人は、真っ先に車両の排気機構を思い浮かべたに違いない。Twitterをやっている人なら「つぶやく」と言う言葉からTweetする行為を連想するかもしれないが、Twitterを知らない人はまず「小さな声で言葉を漏らす」と言う意味で受け取る事になる。

 これらは自分の中でどの領域が活性化しているか?と言う問題と密接に関わっている。


 私が言いたいのは、文章を読むときにそれぞれが身を置く環境にしたがって、自然と受け取るニュアンスが違ってくるのだということだ。そう言う意味で、読まれたその瞬間から文章は読み手の物になる。

 だから「小説家になろう」というたった七文字、この非常に少ない情報量の中からあなたがどういう意味を感じていたのか、それによってこのサイトを訪れた時の自分の気持ちが、もしかしたら自分でも気付いていなかったかもしれない自分の姿勢が、おのずと分かるかもしれない。


 そしてその考え方は、文字を通して伝達する媒体である「小説」を作るに際しても、大事なものなのではないだろうかとも考えている。自分で想定していたのとは、全く違う意味で言葉を解釈する人がいるかもしれない。もしくは、(私は小説とは常にそうであると思っているが)非常に限られた言葉の中で、その言葉の持つ辞書的な意味以上のものを、読み取ってもらえるかもしれないのだ。


 我々が文章を書くとき、言葉は生き物だ。時として生み出した我々も想像のつかない意味を持ち、育っていくかもしれない。

 だからこそ細心の注意で、繊細に、丁寧に、言葉と付き合っていかないといけない。

 そしてだからこそ、私は言葉と付き合うのがやめられないのかもしれない。

言葉の意味を限定するのと言葉の意味が開かれた状態を確保するの。

どちらが小説として正しいんでしょうかね。それもまた難しい問題です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] なし [気になる点] よくこんな稚拙な文をネット上に晒そうとしましたね
[一言] >文章を読むときにそれぞれが身を置く環境にしたがって、自然と受け取るニュアンスが違ってくるのだということだ。そう言う意味で、読まれたその瞬間から文章は読み手の物になる。 この点についてはテ…
2015/05/22 23:21 退会済み
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