1・永作香澄の章 (8)
駅から出るとふと足を止め、空を仰いだ。
昨夜の雨が嘘のように、青空がいっぱいに広がっている。そのカラリと晴れた天候とは対照的に香澄の気持ちは沈んでいた。
(どうしてあんなことを?)
繰り返し心のなかでその言葉を呟く。昨日の自分はどうかしていた。自分自身まったくわけがわからなかった。
――私……部長の顔が見たかっただけです。
思い出しただけでも顔から火が出るほど恥ずかしい。香澄の言葉に熊谷はどう思ったろう。きっと恥知らずな女だと感じたに違いない。結婚している男の家を覗きに行き、しかもあんな言葉を口走ったのだ。
(会社行きたくないな)
――かといって、会社を休むわけにもいかない。へたに休んでしまえば、二度と会社に行けなくなってしまいそうな気がする。
香澄は小さくため息をついた。
熊谷には改めて謝ったほうがいいだろうか。だが、むしろそんなことをするほうが失礼かもしれない。いずれにしても今日一日は出来る限り熊谷と顔を合わせないようにしたほうがいいだろう。
(早く忘れてしまったほうがいい)
会社に向けてゆっくりと歩み始める。
その時、背後からポンと肩を叩かれた。
「おはよう」
はっとして振り返る。そこには背の高い熊谷が明るい笑顔を見せて立っている。
「お、おはようございます」
「朝から俯いちゃって、どうしたの?」
出来るだけ顔を合わせないように決めていた矢先の熊谷の出現に香澄は面食らった。思わず腕時計に視線を向ける。
午前8時半。
熊谷たち営業部の男性社員は客先の都合から10時近くになって出社する場合が多い。
(なぜ?)
香澄は焦った。
「あの……昨夜はすいませんでした」
身を竦めて頭を下げる。恥ずかしさからまともに熊谷の顔を見ることが出来ない。
「いやぁ、昨日はびっくりしたよ」
熊谷は快活な笑顔を見せながら言った。「でも、ちょっと嬉しかったかな」
「え?」
意外な言葉に香澄は驚いて顔をあげた。「……どうして?」
「どうしてって……あんなふうに言われて喜ばない男はいないよ。嘘かホントかは知らないけどね。ただの冗談だったかな?」
「違います! 嘘なんかじゃありません!」
考えるより先に言葉が飛び出し、はっとして口を手で覆う。それを見て熊谷は大きく笑い出した。
「永作さんって大人しそうに見えて結構積極的なんだね」
「ご、ごめんなさい」
香澄はますます恥ずかしくなり、さらに顔を俯かせた。頬が赤くなるのがはっきりと感じられる。
「いや。嬉しいよ。でも、家に来るのだけは勘弁してくれよ」
「ごめんなさい。奥さん、何か言ってましたか?」
「いや、大丈夫。あいつは気づいていなかったから」
熊谷はそう言うとそっと香澄の耳元に口を寄せた。「今夜、食事に行こうか」
それが何を意味しているのか、香澄にもはっきりとわかった。それがやってはいけないことだということもわかっている。それでも、今はもう気持ちに逆らうことは出来ない。
「……はい」
香澄は小さく答えて頷いた。