1・永作香澄の章 (7)
午後8時。
街はすっかり暗くなり、各家々には明かりが灯っていた。夕方から空を覆い始めた雨雲が、わずかに霧雨を降らせ始めている。
(私ったら……何をしているの)
香澄は傘もささずに、アパートの陰に隠れて一軒の家の明かりを見つめていた。
建てられたばかりの真新しい家。
純白の壁に大きな窓。
レースのカーテンだけが閉められたその大きな窓から、リビングの様子がうっすらと垣間見ることが出来る。そこに見えるのは熊谷と妻の真知子の姿だった。
(どうして?)
その疑問は自分自身に向けられていた。
仕事を終わると香澄は、会社の前で熊谷が出てくるのを待った。そして、熊谷が帰宅するまでずっと尾行してきたのだ。
自慢の髪は雨に濡れ、その先から水滴が滴り落ちていく。
自分がバカなことをしているのははっきりと自覚している。こんなことをして、いったい何になるというのか。そもそもなぜ熊谷のことをこれほどまでに気にしているのか、それすらもわからない。何度も帰ろうと自分に言い聞かせた。それなのに身体がその考えを拒否し続けている。
もう少し……もう少しだけ……
リビングに灯った明かりから目を離すことが出来ない。ずっと熊谷の姿を見つめ続けていたい。
そこに幸せが存在している。
(あそこにいるのは私のはずだったのに……)
なぜだか、ふとそんな思いが心を過ぎる。
明らかな嫉妬心。間違いなく自分が熊谷を愛していることを認めざるを得ないこの気持ち。つい先日までは熊谷のことなど何とも思っていなかったのに、どうしてこんなことになってしまったのか、香澄にはその理由がまったくわからなかった。
ソファにくつろぐ真知子の姿。そして、その身体をいたわるように熊谷がそっとその肩を抱いている。
(嫌だ……そんなのは嫌だ)
目の前の光景を見ていることに耐えられず、香澄は打ち震えた。今すぐにもこの場から逃げ出してしまいたい。それなのに視線を逸らすことが出来ない。
頬を一筋の涙が零れ落ちていく。
二人は和やかに笑顔を見せて話をしている。突然、熊谷が立ち上がった。そして、窓際に近づき、カーテンをそっと閉める。
(待って……しめないで)
香澄は心の中で叫んだ。その思いが通じたのか、熊谷の手が急に止まった。熊谷の視線が香澄の方に向いている。驚いたような表情。それはまさしく香澄の存在に気づいたものだ。
(見られた)
はっとして慌てて塀の陰に隠れる。
鼓動が激しく高鳴っている。
(どうしよう)
熊谷は自分の存在に気づいたに違いない。二人の生活を嫉妬に満ちた目で覗き見ていたことを熊谷はどう思うだろう。
恥ずかしさのあまり香澄はその場にしゃがみこんだ。
ガチャリと玄関のドアが開く音が聞こえる。
(あの人だ)
きっと自分の姿を見て、それを咎めに出て来たに決まっている。
それなのに足が竦んで動けなかった。
香澄は逃げる事も出来ず、しゃがみこんだまま両手で自分の身体をぎゅっと抱きしめた。駆け足で近づいてくる足音が聞こえてくる。
やがて――
「永作さん?」
熊谷の柔らかな声が背後から聞こえた。「どうしたの? どうしてここに?」
「いえ……」
香澄はゆっくりと立ち上がると振り返った。
「僕に何か?」
「いえ……」
どう答えていいかわからず、香澄は俯いたままで小さく首を振った。
「ひょっとして家がこの辺だとか?」
「いえ」
さらに強く首を振る。
「それじゃどうしてここに?」
「……わかりません」
小さな声で香澄は答えた。
「わからない?」
驚いたように熊谷は言った。「自分がどうしてここにいるかわからないの?」
「ごめんなさい」
「別に謝ることはないよ。永作さん、家はどこだったかな?」
「吉祥寺です」
「そっか。今から帰るの? それじゃ送っていこうか?」
「いえ……そんな……」
「遠慮することはないよ。今、仕度してくるから待ってて」
熊谷はそう言って家へ戻ろうとした。
「――待ってください」
香澄は思わず熊谷の腕を掴んだ。
「何?」
「……大丈夫ですから。一人で帰れますから」
「でも――」
「私……部長の顔が見たかっただけです」
その言葉がするりと口から零れた。
「え?」
顔が赤く染まっていくのが自分でもはっきりとわかる。
「ごめんなさい」
香澄はペコリと頭を下げると、くるりと背を向けて走り出した。