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キヲク  作者: けせらせら
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1・永作香澄の章 (6)

 先週まで苦しんでいた仕事も次第に慣れてきたのか、今週は自分でも不思議なほど順調に仕事がはかどっていく。

 課長に頼まれていた資料も、予定よりも早く出来上がりそうだ。

「機嫌良さそうね」

 斜め向かいに座る川口玲子がパソコンを操作しながら香澄に声をかけた。艶やかな黒髪をショートボブにした玲子は香澄よりも一つ年上なだけなのだが、そうとは見えないほどずっと大人っぽく見える。

 本来、玲子は企画営業部の庶務の仕事をしているのだが、今週から熊谷の指示で経理課の応援に回ってくれている。

「そうですか?」

「何か良いことでもあった? あ、もしかたしたら彼と何か良いことでもしてたかしら?」

「そんなんじゃありませんよぉ。玲子さんこそ、週末、何してたんですか?」

「ナイショ」

 と、玲子は右手で髪を右手で上げながら、小さくウインクをしてみせた。こういう大人の女を感じさせるようなところが男性社員にモテる理由かもしれない。「でも、最近は妙に疲れやすくって」

「遊びすぎじゃないんですか?」

「やだ、失礼ねぇ。こう見えても結構マジメなんだからね」

 玲子はフフフと小さく笑った。

「でも、この前も合コンって言ってましたよね?」

「違うわ。あれはただのお仕事。営業の川畑さんがお客さんと飲みに行くからって、人数合わせで誘われただけよ。あんなのちっとも面白くないわ。今度は香澄ちゃんも行ってみる?」

「ダメですよ。私、お酒、飲めないから」

「だったらなおさら飲んで鍛えなきゃ」

 玲子と飲みに行った事はないが、噂ではかなりの酒豪らしい。一度、早苗と飲み比べをさせてみたら面白いかもしれない、と心のなかで想像してみる。

 その時、香澄の背後から声がかけられた。

「課長は?」

 その声に振り返ると、営業2課の澤村義文が立っているのが見えた。

「今、打ち合わせで席を外してます。何か用事ですか?」

「いや、別に。特に用があるわけじゃないんだけどね」

 澤村は香澄の隣の空いた椅子に腰掛けた。澤村は時々、課長がいないのを見計らうようにやって来ては、香澄にいろいろと話し掛けてくる。以前は響子がいたため、それほど頻度は多くなかったが、響子がいなくなってからは毎日のように話し掛けてくるようになっていた。

 玲子は鬱陶しいという表情を浮かべて澤村を睨む。だが、澤村は一向に構う様子もなく香澄に話し掛けた。

「どう? 元気?」

「ええ……」

 ちらりと目だけを動かして適当に答える。

「なんか良いことでもあったの?」

 口元に笑みを浮かべながら澤村はさらに訊いた。

 澤村は香澄より5歳年上で、今年の夏に中途採用で営業2課に配属されたばかりだった。他の社員たちが外回りで外出していても、澤村はわりと社内に残っていることが多い。それでも意外にも営業成績は良く、会社からはわりと高い評価をされていた。

 分厚いレンズの眼鏡をかけ、背は香澄よりわずかに高いくらいだが、体重は優に100キロを超えているだろう。中途半端に延びた髪が暑苦しく見える。

 香澄はどこかこの澤村という男が苦手だった。いや、生理的に受け付けない、というほうが表現としては正しいかもしれない。

「別に何もないですよ」

「そうかなぁ。なんか今日は肌の艶が良さそうに見えるよ」

 誉めてるつもりだろうか。

「何言ってるんですか。いつもと変わりませんよ」

「ねえ、香澄ちゃんって彼氏いるの?」

「え?」

「やっぱ、いるよねえ。香澄ちゃん、かわいいし」

 ちらちらと全身をなめまわすような視線で澤村は香澄を見た。澤村が喋るたびに口の中でチュパチュパと音が聞こえる。その音を聞くたびに、香澄は耳を押さえたくなる衝動に駆られる。

「私なんて全然かわいくなんてないですよ」

 パソコンに視線を向けたままで香澄は言った。

「かわいいよぉ。それで? 彼氏はいるの?」

「どうしてですか? 急にどうしたんですか?」

「前から気になってたんだ。ねえ、教えてよ。彼氏いるの?」

「いませんよ」

「ホント? けっこうモテルでしょ?」

 澤村は嫌らしげに口元をにやけさせた。その表情を見ると、嘘でも「いる」と答えたほうが良かったような気がしてくる。

「そんな。ぜんぜん。澤村さんこそ彼女いるんですか?」

 内心、澤村のプライベートになど関心はなかったが、自分のことをいろいろ言われるのをかわすために香澄は訊いた。

「うーん、この前別れちゃってね。今はフリーなんだ。誰か良い人でもいればいいんだけどねえ」

 そう言いながら香澄の表情をちらちらと見る。「ねえねえ、香澄ちゃんはどんな人が好みなのかな?」

「別に好みなんてないですよ」

「そっかぁ。やっぱ男は性格だよねえ」

 澤村は独り言のように呟いた。まるで自分の性格が良いとでも思っているのだろうか。課長の長谷川でも戻ってくれば澤村もすぐに自分の席に戻っていくのだろうが、それを大人しく待っているのも次第に辛くなってくる。

 なんとかして澤村を追い払ってしまいたかった。

「でも、強いて言えば――」

「何?」

 澤村が身を乗り出す。

「やっぱり私より背の高い人がいいですね」

 途端に澤村の表情が曇った。162センチの香澄より、澤村はわずかに背が低い。その澤村の表情を見て、香澄はさらに付け加えた。「10センチくらいのヒール履いた時に、ほんの少し男の人のほうが高いくらいがちょうどいいですよね」

 もちろんそれは澤村に対する嫌味に過ぎない。今までも相手の身長に拘ったことなど一度もない。黙って仕事をしていた玲子がクスリと笑った。

「ああ……そう……」

 澤村は明らかにショックを受けたようで、わずかにムッとしたように唇を結んだ。その時、ドアが開いてやっと長谷川と熊谷が二人で姿を現した。

 それを見て慌てて澤村が席を立つ。

「そ、それじゃよろしくね」

 と、いかにも仕事の話をしていたようなフリをしながら澤村は早足で香澄から離れていった。

「あいつ、また仕事の邪魔してたんじゃないの?」

 澤村の後ろ姿を眺めて、熊谷が笑いながら香澄に声をかけた。

「だ、大丈夫ですよ」

 思わず緊張しながら答える。

「遠慮してちゃだめだよ。もし、仕事の邪魔だったらはっきり言ってやらなきゃね。あいつの神経は肉の中に埋まっているんだから」

 熊谷は笑いながら企画営業部のほうへ戻っていく。その後ろ姿を思わず視線で追っている自分に気づき、香澄は慌てて視線を机の上へと戻した。

(なぜだろう)

 香澄は自分自身の気持ちの変化に途惑っていた。

 熊谷が度々、香澄のほうに近づいてくるたびに、心臓が妙に高鳴る。

 昨夜の夢のせいかもしれない。

――愛してるよ。

 あんな夢を見て、意識してしまっているのだろうか。

 そもそも、なぜあんな夢を見たのかが不思議だった。確かに熊谷は男として恰好良く、女子社員からも人気がある。だが、結婚している熊谷にこれまで興味を持ったことはなかった。

 それなのに――

 今日はどういうわけか、無意識のうちに熊谷の姿を目で追っている。

(何考えてるの)

 香澄は自分自身に言い聞かせようとした。

 その時、営業部のほうから声があがった。

「先輩、お久しぶりです」

 その声に思わず振り返る。

 受付のところに髪の長い女性が立っているのが見えた。その女性のところに営業部の女子社員たちが数人集まり、親しげに話をしている。

 香澄が見たことのない女性だった。

「誰かと思ったら真知子さんかぁ」

 玲子が受付のほうを眺めて言った。

「玲子さん、あの人、知っているんですか?」

「そっかぁ。香澄ちゃんは知らなかったね。あの人、熊谷部長の奥さんよ。ちょうど1年前に結婚退職したんだ」

「あの人が……」

 香澄は再びパーティションの隙間から熊谷真知子を覗き見た。腰まである長い黒髪はツヤツヤと光り、柔らかなウェーブがかかっている。真知子は笑顔を見せて女子社員たちと話をしている。くっきりとした二重の大きな目、すっと尖った顎。どれをとっても世の中の男性全てを虜にしてしまうほどの美人に見えた。そして、何よりも目を引いたのはその服装と体つきだった。青いマタニティードレス。そのお腹の部分がぷっくりと膨らんでいる。

「前は真知子さんも営業部にいたんだけど、その間に熊谷部長と付き合うようになったみたい。営業マン……いや、営業ウーマンとしての成績も抜群だったんだよ」

 頼みもしないのに玲子は熊谷真知子のことを説明してくれた。さらに、玲子は続けた。

「熊谷部長が若くて企画営業部の部長をやっていられるのも真知子さんがいるからかもね。彼女のお父さんは大手の総合商社の役員をやってるのよ。熊谷部長にとっても彼女の存在は仕事のうえでも大きいと思う。それにね、去年、熊谷部長ってマイホームを建てたんだけど、その頭金も真知子さんのお父さんが出してくれたらしいよ。来月には子供が生まれるんだって」

 熊谷が照れたように笑いながら真知子のほうに近づいていくのが見える。その瞬間、香澄は胸を締め付けられるような感情に襲われた。

(何なの……この気持ち)

 香澄は思わず立ち上がった。すぐ脇にあるドアから足早に部屋を出ると非常階段へと飛び出した。

 心臓がドキドキと高鳴っている。

 感情が溢れるように、目から涙が零れ落ちた。

(どうして? どうして泣かなきゃいけないの?)

 自分でも自分の気持ちがわからなかった。それでも涙は止まらずに次から次へと溢れ出してくる。

 ひょっとしてこれは嫉妬なのだろうか。今までまったく気づかなかったが、熊谷のことを愛していたのだろうか。

 香澄は自分自身の気持ちが理解出来ずに途惑っていた。


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