1・永作香澄の章 (4)
喫茶店を出ると、スーパーには寄らずにまっすぐにマンションへと戻った。
この1LDKの部屋は狭いながらも、香澄にとっては最も落ち着ける場所だった。
香澄は部屋に戻るとベッドの上に座り、秋彦の言葉を思い出していた。
――あなたは彼女が本当に自殺したんだと思いますか?
それは香澄自身、心のなかにずっと持っていた疑問だった。だが、もし自殺ではなかったのだとすれば、それは何を意味していることになるのだろう。
(他殺?)
――だとしたら一体誰に?
背筋にぞくりと冷たいものが走る。警察は社内に響子を殺した人間がいるのではないかと疑っているのだろうか。
(やだ……何考えてるの?)
探偵の真似事など自分に出来るはずがないのはわかっている。そんなことに自分が首を突っ込んでも仕方がないことだ。それが自殺であっても、もし、何か事件性があるものだとしても、いずれ警察がはっきりさせてくれることだろう。
香澄は思いを振り払おうとするように、頭を振ってから立ち上がった。
夕食を済ませるとクッションの上に座り、バッグのなかから今日買って来たネックレスを取り出した。
1万円程度のピアスやリングならこれまでも買ったことはあるが、ダイヤモンドの入ったネックレスなど買うのは初めての経験だった。
(本物かしら?)
わずか千円のネックレス。金額を頭に浮かべることで、しだいにそのダイヤモンドが偽者のように思えてくる。いや、むしろこれが本物と考えることのほうが厚かましいのかもしれない。
突然、チャイムが響き渡った。
ちらりと壁にかかった時計に視線を向ける。
午後8時。
(早苗かな)
香澄はゆっくりと立ち上がると玄関へと向かった。
早苗は池袋にある出版社で編集の仕事をして働いている。大学を卒業してからは、頻繁に会うこともなくなったが、それでも時々遊びに来ることがあった。
「こんち」
香澄の予想通り、ドアを開けると薄い黄色いタートルネックのセーターの上にベージュのジャケットを着た早苗が笑顔を見せた。肩まで伸びた髪を栗色に染め、大きな瞳に、その小柄な体つきは、高校生と言ってもいいほど若く見える。兄妹そろって若く見えるのは鮎川家の血筋のせいかもしれない。だが、その見た目とは違い、早苗は子供の頃から空手を習っており、大学の時には全国大会で入賞したこともある。
早苗のすべすべとした頬がうっすらと赤らんで見える。
「飲んできたの?」
「うん、ちょっとだけ。今日はごめんねぇ。久々に早く帰れると思ってたのにさ。急に飲み会が入っちゃって。私もまだ新入りだから、なかなか断れないのよ」
「でも早かったんじゃない?」
「途中で抜けてきたの」
「いいの?」
「平気よ。1時間ちょっとでも、十分盛り上げてきたからさ」
早苗は靴を脱いで玄関をあがった。
「酔っ払いだ」
「酔っ払うほど飲んでないよん」
「早苗、ザルだもんね」
香澄はからかうように言った。それでも、ほとんどお酒の飲めない香澄にとっては羨ましく感じることも多い。
「ウヒャヒャ――」
早苗は気分良さそうに笑った。頬に小さなエクボが出来る。早苗は手に持っていた白い小箱をリビングのテーブルの上に置いた「はい、これ。お土産」
「ケーキ?」
「そう。めずらしくこんな時間まで駅前のケーキ屋さん、開いてたよ」
駅前にある『FLASE』というケーキ屋は、以前、雑誌にも取り上げられたこともあって人気があり、昼過ぎには閉店してしまうことが多い。
「ホント、珍しいね」
「一緒に食べよ」
早苗はジャケットを脱ぐとペタリとテーブルの前に座った。
「うん、それじゃ紅茶いれてくるよ」
香澄が二人分の紅茶と小皿を持って戻ってくると、早苗がテーブルの上に置いていたネックレスを物珍しげに眺めていた。
「これ、香澄の?」
「うん」
「誰かからのプレゼント?」
ほんの少し目を細めて香澄の顔を見る。
「違うわよ。今日、買ってきたの。誰も買ってくれる人なんていないもの」
香澄は早苗の前に紅茶を差し出した。早苗は手にしていたネックレスを元の場所に戻すと、紅茶をゆっくり一口啜った。
「すごいね。これって本物のダイヤなの?」
「たぶん……でも、あんまりよくわかんない」
香澄が箱を開け、中から取り出したレアチーズケーキを小皿に取り分けた。
「高かったんじゃないの?」
「ううん」
香澄は小さく笑って首を振った。「実はそれ千円なの」
「千円?」
早苗もそれを聞いて目を丸くした。
「うん。見えないでしょ?」
「嘘ぉ! 嘘でしょ?」
「ホント。実はね――」
と、香澄はネックレスを買った経緯を早苗に説明した。
「へぇー、アンティークショップかぁ」
香澄の話が終わると、早苗はいかにも驚いたように声を出した。「こんな小さな傷があるからってだけで、たったの千円? すごーい! アンティークものってもっと高いのかと思った」
早苗は再びネックレスを手にとると、裏にある傷をじっと見つめた。
「本物のダイヤだと思う? 本物のダイヤだったらいくら傷があるからって千円なんてことないわよね」
香澄の質問に早苗は首を傾げた。
「うーん……鑑定士じゃないから私じゃわかんないけどね。でも、ただのガラスとも思えないよ」
「千円だからダイヤじゃなくても仕方ないんだけど」
「誰か知ってる人に見てもらったら? あ、うちの雑誌に書いてくれているライターの人で詳しい人いるよ」
「えー、いいよぉ」
「どうして? はっきりさせたほうがいいでしょ?」
「それはそうだけど……なんか恥ずかしいし」
「大丈夫。そんなやたらな人に話したりしないから。ね!」
「……うん」
「じゃ、時間があったら頼んでおくよ。それにしてもそれってどこのお店?」
「池袋の駅のね――」
香澄はテーブルの上に置かれていたちらしの裏にネックレスを買ったアンティークショップの場所を書いてみせた。
「ふぅん。なんか他に良い物あった?」
「さあ。そんなにじっくり見てきたわけじゃないから。早苗も行って見たら? 何か気にいるものあるかもよ。あそこなら早苗の会社も近いし、仕事の帰りに寄れるんじゃない?」
「うーん……最近はなかなか時間がねえ」
「仕事忙しいの?」
「まあねぇ。もう毎日遅くまで。まるで仕事のために生きてるみたいで嫌になっちゃうよ」
「来週末の映画って大丈夫?」
「それなら大丈夫! 前から休ませてもらうように頼んでるから。意地でも休んでやるんだから!」
「良かった。でもクビにならないでね」
「大丈夫よ。時間があったら見に行ってみようっと」
早苗はそう言って、書いてもらった地図をキャメル色のトートバッグのなかにしまい込んだ。
「そういえば、今日、お兄さんに会ったわよ」
「え? なんで?」
「この前、うちの会社の人が自殺したってメールで教えたでしょ? ニュースとかでも何度か放送されたんだけど。早苗憶えてるかなぁ。前に一緒に買い物している時にデパートで会ってるんだけど」
「あー、うんうん。憶えてる。地味な感じの人?」
一瞬、考えてから早苗は答えた。
「そうそう。それでね、その事件のことで私にその人のことを訊きにきたの」
「へぇ」
「お兄さんから何も訊いてないの?」
「お兄ちゃん、仕事のことは全然家では話そうとしないから。それに最近は私もお兄ちゃんも忙しくっていつもすれ違いの生活なの。もう10日くらい顔も合わせてないかな。元気にしてた?……なんて香澄に訊くのも変な話だね」
「大変なのね」
「たぶんね。でも、意外とそういう仕事が好きみたいだから。案外、天職なんじゃないかな? 昔から刑事物のドラマとか小説とか好きだったし」
「それは早苗も同じじゃないの? 早苗も刑事になりたかった?」
「あはっ、そうね。犯人やっつけるのって爽快かもね。そんじゃ、今度、暇なときにでもどんな事件なのか聞いておこうかな」
早苗は冗談まじりに笑ってみせた。