12・鮎川早苗の章 (1)
12・鮎川早苗の章
車はゆっくりと自由が丘の駅から住宅地に向けて進んでいた。助手席に座った早苗は必死になって車の窓から香澄の姿を捜していた。
「香澄……どこにいるの……」
小さく呟きながら歩道を歩く人たちに忙しなく視線を走らせる。早苗の指が小刻みに窓枠を叩く。
「落ち着けよ」
ハンドルを握る秋彦が声をかけた。「おまえが焦っても仕方ないだろ」
「わかってるわよ……でも、何か怖いのよ」
早苗の頭のなかには、先日の駅での出来事が蘇っていた。背中を押され、振り返った時にちらりと見えたあの白い手。あれは香澄のものだったのではないだろうか。今まで考えないようにしてきた一つの疑念が心のなかで膨れ上がっている。
「本当に香澄ちゃんはここに?」
「うん。電話の向こうで駅のアナウンスが聞こえてたもの。あの時、この辺にいたのは間違いないわ」
「――とは言っても、それだけじゃ彼女がどこに行ったのかわからないな」
それは早苗にもわかっている。だが、今、香澄を見つけなければ、取り返しがつかないことになりそうな気がしていた。
その時、ふと通りの反対側に一つの黒い影がちらりと見えた。
(あれは……?)
「止まって!」
早苗の声に秋彦がブレーキを踏んだ。だが、その時にはすでに、黒い影は通りの角を曲がり姿を消していた。
「どうした? 香澄ちゃんがいたのか?」
「違うわ……でも、あれは……誰かが呼んでいるような気がする」
あの黒い影が自分を呼んでいるように思えた。
「呼んでる? 誰が?」
怪訝な表情で秋彦が早苗を見る。
「お兄ちゃん、戻って! その角を曲がって!」
「おい――」
「お願い!」
一瞬、秋彦は驚いたように早苗の顔を見たが、早苗の真剣な声にすぐに小さく頷いた。
「わかった」
車はUターンすると、早苗の言う通りに角を曲がり、そのまま真っ直ぐに進んでいく。その前方に全身に黒いマントを着た人の姿が見えた。顔ははっきりとわからない。
「あそこ!」
早苗が指差した瞬間、その影は再び角を左に曲がった。曲がる直前、ちらりと振り返る横顔が見えた。まるで自分たちを誘っているかのようだ。
秋彦はその角を左にハンドルを切った。だが、どこへ消えたのか、そこに黒い影は見えなかった。
(あれは……いったい……)
早苗はドアを開け外へ出た。
「早苗――」
「きっと、この辺にいるはずよ」
「誰のことを言ってるんだ?」
その秋彦の問いかけに早苗は答えられなかった。なぜだか、あの人影を捜すことで香澄に繋がっているような気がする。
――早苗
ふいに声が聞こえたような気がして、早苗は振り返った。そこに一軒の家が建っている。門のところには『熊谷』と書かれている。
(熊谷……)
早苗はその表札を見て、秋彦を振り返った。
「これって――」
「ああ……」
秋彦もその意味に気づき、大きく頷いた。
間違いなく、ここは新山響子が不倫していたという会社の上司の家だ。黒いアルミの門扉が人一人通れるほどに開いている。
早苗は迷うことなく門扉を通りぬけた。
「おい――早苗!」
驚いたように秋彦が声をかける。だが、早苗はそのままコンクリートの階段を上がっていった。
そこに香澄がいる。そんな気がしていた。
ゆっくりと玄関に近づこうとした時、何かが倒れるような大きな音が庭のほうから聞こえてきた。そっと近づいてみると、リビングの大きな窓が見え、そこに白いレースがわずかに揺れている。
その瞬間、わずかに見えるレースのカーテンの隙間から見える人影に早苗は思わず息を飲んだ。
(香澄!)
早苗はすぐにリビングの窓に走りよった。
香澄が包丁を持ち、その隅に置かれたベビーベッドの傍に立っている。そして、足元には背中を切り裂かれた女性が倒れている。
「香澄!」
早苗は力いっぱい声を出した。その声に振り返る香澄の顔を見て、早苗ははっとした。
目には光がなく、その表情はまるで人形のように生気を失われている。その力のない目が早苗の顔を見て、見る見るうちに怯えたようなものに変わっていく。
突然、香澄が身体をベビーベッドから赤ちゃんの身体を抱き上げると、部屋の奥へと駆け出した。
「香澄! 待って!」
窓を開けようと力をこめるが、鍵がかかっていて開けることが出来ない。
「どけ!」
背後から秋彦の声が聞こえ、早苗は窓から身体を離した。次の瞬間、秋彦がガラスに蹴りをいれた。ガッシャーンという大きな音とともにガラスが砕け散った。すぐに鍵を開け、中へと踏み込む。
「お兄ちゃんはその人を見てあげて!」
早苗はそう叫ぶとそのままリビングを駆け抜け香澄の後を追った。
「お……おい!」
秋彦は走り去る早苗と倒れている真知子を一瞬見比べた。「まったく……普通、逆だろ」




