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キヲク  作者: けせらせら
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11・永作香澄の章 (1)

   11・永作香澄の章


 携帯電話の電源を切ると、香澄は顔を上げ歩き出した。

(私……どうすればいいの?)

 まだ心のなかでは葛藤が続いている。だが、次第に不安は小さくなっていく。それは同時に自分自身の意識が薄れていくことでもあった。

 この感じはこれまでも何度も経験している。

 意志とは無関係に動く身体。薄れゆく自分という存在。そして、自分とは違うもう一つの意志がこの身体のなかに存在している。それがどんどん強く大きく育っている。やがて、それはいつものように自分にとってかわることだろう。そうなってしまえば、自分では自分がどこで何をしているのかも把握することが出来ない。

(本当に?)

 本当に、その間のことを記憶していないのだろうか。

(違う……)

 実際には自分が何をしたのか知っているのかもしれない。けれど、あえてそのことに目をつぶっているのかもしれない。

――考エチャ駄目ヨ。

 また声が聞こえてくる。

(あなたは誰なの?)

 もう一つの存在に問い掛ける。

――私ヨ、ワタシ。

 まるで親しげに声が答える。

――私ハアナタ。アナタハ私。アナタノコトハ私ガ守ッテアゲル。ダカラ、アノ人ノコトヲ二人デ助ケテアゲマショウ。

 その声は決して逆らうことなど出来ない絶対的なもののように心の中に染み込んでくる。

 住宅街を西に向かう。

 静かな街並み。

(ここは……)

 自分がどこに向かっているのか、香澄はやっとわかった。

 100メートル先に見える角を曲がれば、そこに熊谷の家が見えるはずだ。

 真新しい真っ白な家。明るい日差しが差し込むリビング。そこにはきっと真知子が生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて幸せそうな笑顔を見せて座っている。

――ソンナノ許サナイ。

 声が激しく真知子をなじる。身体の芯が熱くなる。

 角を曲がり、塀沿いに熊谷の家へと近づいていく。

(駄目……行っちゃ駄目)

 抗う心はすでに力を失っている。今、自分という身体を動かしているのは、自分とは違う意志。ただ、いつもとは違い、意識はちゃんと残っている。

 その手をトートバッグのなかに入れ、中身を確認する。そこにはさっき金物屋で買った真新しい包丁が入っている。

(嫌だ……)

 ぐっと手に力を込める。

 握っちゃいけない。必死になってその力に抗う。

 門が見える。あと10メートル……あと3メートル。

――ドウシテ? アノ人を自由ニシテアゲナキャイケナイノヨ。

(だめ……そんなことしちゃ駄目!)

 湧き上がってくる意識を必死の思いで押さえつづける。それでも歩みを止めることは出来ない。

 石段を上がる。

 リビングの窓にかかった白いレースのカーテン。

 そこに人影が見える。

 想像どおりの姿がそこにあった。

 薄いブルーのワンピースを着た真知子がその両手で白い産着を着た赤ちゃんをあやしている。

 玄関に進み、チャイムを鳴らす。わずかな間が空いてスピーカーから声が聞こえてきた。

――はい。

「部長の指示で来たんですが――」

――え? あの人の? 会社の方ですか?

「はい、経理課の永作といいます。部長から資料をもらってくるように言い付かりまして」

 スルスルと言葉が口から出てくる。

――今、開けますね。

 やがて、ガチャリと鍵の外れる音が聞こえ、ドアがゆっくりと開いた。

「こんにちは」

 香澄は笑みを浮かべながら丁寧に頭を下げた。

「いらっしゃい。資料って何のことかしら?」

 長く艶やかな髪がフワリと揺れる。

「今後の事業計画についてのプレゼンの資料らしいです。私も詳しくは知らないのですが……家に忘れてきたので取ってくるようにって。MOディスクが部屋にあると言ってました」

「あら? そうなの? ご迷惑かけてごめんなさいね。ちょっと電話して訊いてみるから待っててくれる?」

「今の時間は無理だと思います。大切なお客様がいらっしゃると言ってましたから。今ごろ、その打ち合わせかと……」

「あら、そう。困ったわね。それじゃちょっと捜してみますから、上がって待っていてもらえる?」

 真知子に促されるままに香澄は玄関をあがると、そのままリビングへと足を踏み入れた。

「経理課の人って言ったわよね。名前は?」

「はい、永作って言います」

「永作さん? 会社にはいつ入ったの? 私も以前は勤めていたんだけど……私が会社を辞めてから入ったのかしら?」

「ええ、今年の春に」

「まだ新人さんなのね。あの人ったら、忘れ物があるなら電話してくれればいいのに」

「奥さんも忙しいから遠慮されたんじゃないですか?」

「全然。結構、時間を持て余してることが多いのよ。それじゃ、捜してくるからここで座っててくださいね。えっと、どんな資料でしたっけ?」

 ソファに座る香澄に真知子は訊いた。

「事業計画についての資料と聞いてます」

「事業計画ねぇ……ちょっと見てくるわ」

 真知子はそう言うと足早にリビングを出て行った。階段を昇っていく足音が聞こえる。

 香澄はグルリとリビングを見回した。床は綺麗にワックスがかけられ、部屋はきちんと片付いている。

 部屋の隅に木製のベビーベッドが見える。

 ゆっくりと立ち上がり、ベビーベッドへと近づいていく。静かに眠る小さな身体がその中に横たわっている。

 ふっくらとした頬。愛らしい唇。

(あの人だ……)

 そっとその頬に手を伸ばす。

「何してるの?」

 鋭い声に香澄ははっとして振り返った。真知子がリビングのドアのところに立っている。注意深い目で真知子は香澄を見つめながら近づいてきた。

「……あの……何も」

 慌ててベビーベッドから離れる。「か……かわいいですね」

「……そう。今、ちょっと見てきたんだけど、それらしいのがないのよ」

「そうですか……」

「ねえ、本当にあの人、あなたに資料を持ってこいなんて言ったの?」

「あの……」

「こんなこと言うのは失礼かもしれないけど、あの人、そういうところって責任感が強い人で、そんなことをあなたに頼むとは思えないのよ」

 その目は明らかに香澄を疑っている。

――早ク私ニ変ワッテ……

 ゾワゾワとした感触が胸の奥からこみ上げてくる。

(嫌よ)

 最後の力を振り絞る。その声を受け入れることが何を意味しているか、それは香澄もわかっている。

「ごめんなさい。嘘なんです」

 香澄は真知子に頭を下げた。

「嘘?」

「本当は奥さんに相談があって……」

「私に? どういうこと?」

「ご主人と別れてください」

「え?」

 真知子は眉間に皺を寄せた。「何? あなた、何を言ってるの?」

「お願いします。私たち愛し合っているんです!」

 わかって欲しい。もし、わかってもらえなければ――

――ワタシタチ……

 心のなかでも声が繰り返す。

「いったい何を言い出すのかと思えば。私をからかってるの?」

「違います!」

「違わないわ!」

 真知子が声を荒げた。「あなた、いったい何のつもりなの?」

「奥さんに悪いことをしたのはわかっています。でも、私たち本気なんです!」

 二人の間に静寂が流れる。お互いが口を開けぬまま、お互いの顔をじっと見つめた。やがて――

「まったく……」

 真剣な眼差しの香澄に、真知子は呆れたように声を出した。「どうして……こんなことに……」

「奥さんには本当に申し訳ないと思ってます。突然、こんなことになって本当に驚いているでしょう」

「――別に驚いてなんていないわ」

 真知子は香澄の言葉を遮った。

「え?」

「突然なんかじゃないわ。私、あの人が浮気してることなんて前から知ってたから」

 その意外な言葉に香澄は困惑した。

「それって……」

「あら、びっくりしたような顔してるのね。それじゃあなたじゃなかったのかしら? 前からあの人が浮気してるってことは、どこかの誰かが私に教えてくれていたのよ」

「どういうことです?」

「もう半年以上前からよ。『あなたの旦那さんは私と浮気しています』っていう手紙が届くようになったの。つい先週も送られてきたばかりよ。すぐに捨てちゃったから見せてあげることは出来ないけどね」

 どういうことだろう。香澄自身、そんな手紙を書いた覚えはない。それに半年以上前とは……?

「手紙?」

「それにしても浮気相手があなたみたいな子だと思わなかったわ。『人は見かけによらない』って本当ね」

 途惑う香澄に真知子はさらに続けた。「あなたは私があの人と別れれば嬉しいのかもしれないけど、私はあの人と別れるつもりはないわ。それにね、あの人もたぶん同じ気持ちだと思うわよ。だって、あの人にとって私と別れることがどれほどの損になることか、あの人はちゃんとわかってるから。あなたには悪いと思うけど、浮気はあの人の病気みたいなものなのよ。あの人にとってあなたとのことはただの『遊び』に過ぎないわ。早く別れたほうがいいわよ」

 言葉が胸に突き刺さる。

(遊び……私が……)

――嘘!

 鳥肌が立つような感覚が全身を包む。

(ダメ……)

 香澄は必死に押さえようとした。だが、それは一気に香澄の意識を奪い取った。

「あの人は……」

 俯きがちに香澄は口を開いた。それはすでに香澄のものとは違っていた。低く暗い声。「あの人は私のことを本気で愛してくれた」

「え?」

 その低い声に真知子は驚いたように香澄を見た。

「何も知らないくせに!」

「あなた……いったい……」

「おまえなんていなくなっちゃえばいいんだ!」

 香澄は素早い動きでソファに置かれていた自分のトートバッグに飛びつくと、中から鋭く尖った刺身包丁を取り出した。

「何のつもり?」

 香澄の行動にさすがに真知子も顔色を変えた。

「私の邪魔をするあなたが悪いのよ!」

「何バカなことを……」

「あなたなんて邪魔なのよ!」

「私はね……ずっとあの人のことを想ってきた! それをあなたが横から奪って行ったんじゃないの!」

「どういうこと? あなた……誰なの?」

「うるさい!」

 香澄は真知子のほうへ足を踏み込み、横殴りに包丁を払った。その刃が真知子の肩を切り裂く。

「キャァァ!」

 真知子は肩を押さえ、ソファの陰へと倒れこんだ。

「おまえさえ……おまえさえいなくなれば……」

 ブツブツと口のなかで呟きながら、ゆっくりと真知子に近づいてくる。その足がふと止まった。

 視線がその脇に置かれたベビーベッドへと向けられる。

「やめて……その子に手を出さないで」

 震えた声で肩を押さえた真知子が起き上がる。肩を押さえた指の隙間から血が滴り落ちていく。

「私の……赤ちゃん……」

 ゆっくりと香澄の左手がスヤスヤと眠る赤ちゃんの喉下に動いていく。

「やめて!」

 真知子が香澄に飛び掛った。

 渾身の力をこめ、香澄の胸元に飛びつく。だが、次の瞬間、香澄の持った包丁が真知子の背中を切り裂いた。

「アァァァ……」

 力を失った真知子の身体が1度窓にぶつかり、そして、部屋の隅に投げ出される。白いレースのカーテンがわずかに血で濡れる。

「私の……私の……赤ちゃん……」

 倒れた真知子のことなど無視して、再びベビーベッドへ視線を向ける。

「やめ……て……」

 背中を切り裂かれた真知子が苦しげに叫ぶ。だが、香澄は真知子のことなど、気にも止めずに赤ちゃんへゆっくり手を伸ばしていく。

 その時――

「香澄!」

 リビングの窓に早苗の姿があった。その早苗の姿を見て、香澄がハッと息を飲んだ。

「……早苗?」


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