1・永作香澄の章 (3)
吉祥寺駅を出ると商店街を抜けてマンションへ向かう。
一人暮らしを始めてすでに4年半になる。
高校を卒業してすぐに実家の仙台を離れ、都内の大学に通うために東京に引っ越してきた。もともと一人暮らしは子供の頃からの夢だった。妹と弟の3人兄弟。家のなかで一人になれる時間も空間もほとんどなかった。さすがに東京に来たばかりの頃は寂しく感じることもあったが、時間とともに寂しさは消え一人でいることの自由な生活に今はすっかり慣れている。
マンションの手前には小さなスーパーがあり食料や日用品を買うことが出来る。さらにその向かい側には夏に出来たばかりのコンビニがあるため生活面で困ることはない。欲を言えば、犬を飼いたいのだが、さすがにそれは今のマンションでは許されていない。
(何か買っていったほうがいいかしら)
冷蔵庫に残っていたものを思い浮かべながらスーパーの前に差し掛かった時、マンションの前に停められていた黒いアコードの中からスーツ姿の男が二人、ドアを開けて出てくるのが見えた。
二人の視線がまっすぐに自分に向けられている。その一人、ダークグリーンのスーツを着た若い男の顔に香澄は見覚えがあった。
それは鮎川早苗の兄である鮎川秋彦だった。早苗とは大学の頃からの付き合いで、これまでも何度か赤羽にある彼女の家に遊びに行ったことがある。兄の秋彦ともその時に幾度か顔を合わせたことがあったし言葉を交わしたこともあった。すでに30歳近いはずだが、私服の時には大学生くらいに見えるほど若い。だが、今日の秋彦は早苗の兄として香澄の前に現れたようには見えない。
秋彦は杉並署に勤める刑事だった。
「永作香澄さんですね」
薄いグレイのスーツを着たがっちりした身体つきの中年の刑事が声をかけた。
「……はい」
「杉並署の渋井と言います。鮎川とは知り合いですよね」
香澄に気を使っているのか、刑事は周囲に見えないように控えめに警察手帳を見せた。
「はい」
言われるまでもない。「……何か?」
「今日は永作さんに教えて欲しいことがあってね」
秋彦が柔らかな物腰で言った。「少し時間あるかな?」
「ええ……何ですか?」
「この前、自殺した新山響子さんのことで教えて欲しいんです。君と同じ会社だったよね」
「響子さんが何か?」
「時間もらえるかな?」
渋井がその向かいに見える喫茶店を指差した。
3人は喫茶店に入ると一番奥のテーブルに陣取った。刑事が事情を訊きにきたことにも驚いたが、わざわざこんな形で時間を割こうとすることに香澄は驚いていた。
バイトらしき高校生くらいのウェイトレスが3人の前にコーヒーを置いてテーブルを離れると、まずは秋彦が口を開いた。
「さっそくだけど、君と新山響子は親しかったの?」
「同じ部署ですから」
「経理課だったね。彼女と会社で一番仲が良かったのは君?」
「さあ……どうでしょう。私もまだ今年入社したばかりだし、もっと親しい人がいたかもしれません」
香澄は首を捻った。だが、響子が他の人と話をしているのはあまり見たことはない。きっと周囲の人から見れば、香澄が響子と一番親しく見えただろう。
「プライベートでも付き合いはあったの?」
「いえ、それはあまり」
まったくない、といったほうが正確かもしれない。会社の外で会ったのは、香澄が入社した時の歓迎会の時と、デパートで買い物をしている時に偶然会って話をした程度だ。しかもその時は、秋彦の妹の早苗とも一緒だった。だが、今はそんなことを話す必要もないだろう。
「それじゃ会社以外での彼女の友達は誰か知ってる?」
「いえ、知りません」
休み時間にはよく話をしたことはあったがそれはただの世間話でしかなく、響子はあまり自分のことを喋ろうとはしなかった。
「彼女、恋人はいましたか?」
今まで黙って聞いていた渋井が口を挟んだ。
「わかりません」
「そういうこと話したことはありませんか? 女同士なら付き合っている男の話なんてするもんじゃあないんですか?」
「いえ……響子さんはあまりそういうこと話さない人だったから」
香澄は首を振った。「あの……どうしてそんなことを?」
その香澄の言葉に渋井と秋彦は顔を見合わせた。それから秋彦は仕方ないといった感じで口を開いた。
「あなたは彼女が本当に自殺したんだと思ってる?」
「え? 違うんですか?」
「もちろん状況から見て自殺である可能性は高いと思っている。ただ、まだはっきりと自殺が決まったわけじゃないんだ」
「でも、どうして今ごろ? 警察は自殺と断定したんだと聞いてましたが」
「ちょっとね……」
秋彦は言葉を濁した。
「自殺じゃないんですか?」
「何度も言うけど、それはまだ何ともいえないんだ。ただ、念のために、もうしばらくいろいろな角度から事件を調査することになったんだ。もし、何か気づいた点があれば教えてもらえ欲しいんだけど」
「そう言われても……」
香澄も響子が自殺と聞いて驚いたことは事実だ。だが、そこには何の根拠もありはしない。
「彼女、何か悩んでいたこととかありませんでしたか?」
渋井が手帳に視線を向けながら訊いた。
「さあ……少し元気がなかったようには見えたけど……」
「元気がない? そのことについて、何か話してはいませんでしたか?」
「いえ……」
「そうですか」
渋井はあからさまにため息をついた。
「すいません」
香澄は小さく身を竦めて頭を下げた。
「いえ、気にしないで」
すぐに秋彦が声をかける。「もし、今後何か思い出したことがあれば、すぐに連絡もらえる? それがどんなことでも構わないから」
秋彦の言葉に、香澄は素直に頷いた。