7・永作香澄の章 (3)
午前10時半。
企画営業部の人間がほとんど出社する時間だというのに澤村の姿は見えなかった。
何の連絡もないらしく、企画営業部の所在を示すホワイトボードには『休暇』ではなく、『退社』のままになっている。
あの後、何があったのか、未だに思い出すことは出来ない。だが、思い出したいとも思わなかった。いっそのこと澤村のことなど全て記憶から忘れてさってしまったほうがいいのかもしれない。
(そうよ……私はあの人のことなんて知らない)
香澄はいつものように机に向かい、事務処理を続けていた。そんな香澄のもとへ一人の女子社員が近づいて行った。
「永作さん」
その声に香澄は振り返った。見慣れぬ女性が立っている。化粧っ気はなく、ほんの少し口紅をつけているだけだ。白いブラウスに黒いカーディガン、ベージュのチノパンを履いている。歳は30歳くらいだろうか。
誰だったろう。
「はい……」
「システム管理部の住川です」
そう言われてやっと香澄は住川日名子のことを思い出した。以前、パソコンが動かなくなった時にシステムに電話して対応方法を聞いたことがある。その時に対応してくれたのが日名子だった。
「何ですか?」
「ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど」
「ええ」
「時間あるかしら? ちょっと外で話さない?」
「はぁ……」
ちらりと長谷川のほうに視線を向ける。それに気づいて日名子は俯いて書類を読んでいる長谷川に声をかけた。
「長谷川課長。すいませんが永作さんをちょっとの間お借りしていいですかぁ?」
長谷川はちらりと顔をあげると、軽く右手をあげた。
「ああ、構わないよ」
「それじゃ行きましょう」
日名子は香澄に言うと、すぐ傍のドアを開けて部屋を出た。香澄も席を立って日名子の後を追いかけた。二人はエレベーターで下に降りると、そのままビルを出て隣にある喫茶店に入った。日名子は入るとすぐにカウンターの奥にいたウェイトレスにコーヒーを二つ頼むと、一番奥のテーブルに腰を降ろした。
「仕事忙しい?」
「普通ですね」
どう答えていいかわからず香澄は曖昧に答えた。
「永作さんが入社して半年でしょ。もう仕事には慣れた?」
日名子は持っていたバッグからタバコを取り出し、口に咥えると火をつけた。白い煙がほのかに漂ってくる。
「ええ……」
いったい何が聞きたいのだろう。わざわざ会社を出て、こんなところまで連れてくるということは他人には聞かれたくない話ということだろうか。そう思っていると、ウェイトレスがコーヒーを運んできた。
ウェイトレスが二人の前にコーヒーを置くのを、日名子はどこか落ち着きなくタバコを吸いながらじっと見つめている。その姿はまるで緊張を和らげようとしているかのように見える。やがてウェイトレスがテーブルを離れていくと、日名子は銀色の灰皿にタバコを押し付け、口を開いた。
「私、こういうのって苦手だから単刀直入に訊くわね」
真剣な眼差しで香澄の顔を見る。「あなた、架空伝票を使って、不正に会社のお金を引き出していない?」
心臓が止まりそうになった。
「それって……どういうことですか?」
かろうじて平静を装い、言葉を吐き出す。
「経理データを調べさせてもらったの。最初は経費がどう使われているかを知るための分析資料を作るためだったのよ。でも、調べているうちに、データがおかしいことに気づいたの。あなた、企画営業部の人の名前を使って実際には存在しない架空伝票を起こしているわね」
「ど、どうしてそんなことが言えるんですか?」
口のなかが渇き、舌がうまく回らない。
「実際におかしいと思われる伝票のデータを抜き出して、企画営業部の人に確認したからよ」
そう言われて香澄はやっと、昨日澤村が『横領』などということを言い出したのかを理解出来た。きっと日名子が経理伝票のことを調べているのを知り、香澄が不正を働いたものだと勘付いたのだろう。
香澄は返す言葉もなく俯いた。それを見て日名子はさらに言った。
「ねえ、いったいどういうことなのか教えてくれない? こんなことすればどうなるかくらい想像がつくわよね」
「……どうすればいいんですか?」
「どうしてこんなことをしたの? いつからこんなことやっているの?」
日名子はバッグのなかから取り出した手帳をめくりながら訊いた。その日名子の行動から、香澄は全てバレているのだろうと直感した。質問しているのは、確認をしているだけで、全て調べたうえで訊いているのだ。
嘘をつくことなど出来ない。
「2週間くらい前からです」
たった2週間。そんなにも早く自分のやったことがバレることになるとは思ってもみなかった。
「前任者は新山さんよね」
「……はい」
「新山さんも同じことをやっていたの? この方法は彼女から教えられたもの?」
「いえ……響子さんがやっていたのかどうかはわかりません」
だが、響子がやっていたということは、これまでの経費の金額をみれば容易に想像がつく。
「そう」
何か言い返されるかと思ったが、日名子はそれ以上突っ込んで質問しようとはしなかった。
「私……どうなるんですか?」
「そうね。私じゃ判断出来ないけど……社内で処理したとしても懲戒免職は免れないでしょうね。へたすれば告訴されるかも」
「告訴……」
香澄は身を震わせた。「何とかなりませんか?」
「何とかって言われてもね」
「そんな……」
「だったらなぜこんなことをしたの?」
「あの……」
香澄は口篭もった。熊谷のため……熊谷と一緒にいるためにお金が必要だった。けれど、それを言うことは出来ない。
そんなことを言えば――
(あの人に迷惑がかかる)
自分がどうなるかよりも、熊谷との関係が気にかかる。
「これってあなたが単独でやったことなの?」
香澄の様子を見て、日名子は訊いた。
「はい」
「本当に? 誰かに頼まれたってことはないの?」
「ち、違います」
香澄は慌てて否定した。
「それじゃ、お金は何に使ったの?」
「それは……」
香澄はまた口篭もった。「……言わないといけないんでしょうか?」
「あなたね、自分が何したかわかってるの?」
日名子は強い口調で言った。
「そ、それはわかってます」
「だったら、全てをちゃんとはっきりさせなきゃダメでしょ?」
「……はい」
日名子の話を聞きながらも、香澄は熊谷のことを考えつづけていた。
――コノ人も私ノジャマヲスルノ?
ザワザワと心のなかに波が立ち始める。
「永作さん!」
「は、はい……」
はっとして顔をあげる。
「あなたをどうするかは会社が決めることよ。でも、あなたがちゃんとした態度でのぞめばきっと悪いようにはしないはずよ」
「はい」
「今日、一日考えてみてちょうだい。明日の朝、また話しましょう」
そう言うと日名子は伝票を持って立ち上がった。
「あの――」
追いすがるように香澄は声をかけた。「このことはもう会社には……」
「いいえ。このことはまだ私しか知らないことよ。明日、あなたからの話を聞いてからにするわ。だからちゃんとした答えを出してね」
日名子はそう言い残すと足早に店を後にした。
(どうすればいいの……?)
自分がやったことの大きさが今更ながらに感じられる。だが、それ以上に香澄の胸のなかにあるのは熊谷のことだった。
会社の金を横領していたと死ったら熊谷はどう思うだろう。いや、ひょっとしたら熊谷はある程度予想しているのかもしれない。今年の春に入社したばかりの香澄が、そんな金を持っているとは思っていないだろう。だからこそ、あまり金の出所を聞こうとはしなかったのかもしれない。だが、そんなことは香澄にとっては些細なことに過ぎなかった。
何よりも大切なのは――
(あの人に会えなくなるかもしれない)
それが大きな絶望となって香澄の心のなかに渦巻いていた。
ズキリと頭に激痛が走る。
――ジャマハサセナイ
頭のなかに声が響く。




