7・永作香澄の章 (1)
7・永作香澄の章
定時ちょうどに会社を出る。
同じように隣合ったいくつものオフィスビルから出た人の波が、ゆるやかに駅の方向へ流れていく。香澄は俯きがちに足元を見つめながら、その流れに乗ってトボトボと歩いていった。
先週のあの電話の後、熊谷とは何も話をしていない。何をどう話せばいいのか、言葉が見つからなかった。素直に『おめでとう』と言うことはとても出来なかった。
あの白く小さな家を思い出す。あの幸せそうな光景。子供が生まれたことで、それはさらに強いものになったような感じがする。
自分一人が取り残されるような寂しさが胸のなかに広がっていた。このまま忘れられてしまうような、そんな怖さを感じる。
そっと左手を腹部に当てる。
(私の赤ちゃん……)
妊娠などしたことがないはずなのに、かつてそこに命を抱いたことがある感覚が残っている。
もし、自分も熊谷の子供を妊娠することが出来たら……
そんな想いが胸をか過ぎる。それがいかに無意味なことであるか、それは香澄もわかっているというのに。熊谷はきっと真知子と別れるようなことはないだろう。自分はただの遊び相手にしか過ぎないのだ。そんなことは初めからわかっていることなのに、理性とは逆にどんどん熊谷に惹かれていく自分がいる。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
(助けて)
心のなかで小さく叫ぶ。
「どうしたの? 俯いちゃってさ」
背後からかけられた声にはっとして振り向いた。澤村だった。追いかけてきたのだろうか、額に汗がにじみ息を切らせている。熊谷のおかげで、最近は澤村も事務所に残っていることも少なくなり、香澄に声をかけてくることもなくなった。
「別に……」
香澄はすぐに背を向けて歩き出した。
「待ってくれよ」
澤村は隣に立つと、香澄の歩調に合わせて歩きだした。
「なんですか?」
「真っ直ぐ帰るの? これから何か予定でもある?」
「家に帰ります」
香澄はわざと歩調を速めた。
「そんなに急がなくてもいいじゃないか」
「別に急いでません」
「それじゃ、一緒に晩飯でも食べて帰らない?」
「いえ、結構です」
無視して歩きつづける。
「そんなこと言わないでさ。ゆっくり話でもしようよ」
「話すことなんてありませんよ」
香澄はきっぱりと言い切った。だが、澤村はひかなかった。早くも息を切らせながらも、澤村は香澄にさらに話し掛けた。
「あるさ。この前の男、あいつ殺されていたんだね」
「え……」
思わず足を止める。
「これってどういうことだろうね?」
「何が……言いたいんですか?」
「この前も話したじゃないか。俺、香澄ちゃんの後をつけたんだって」
「駅まででしょ? 何も知らないんじゃ――」
「それじゃ、そのことを警察に話してもいいの?」
「警察……」
「マズイよね。もし、警察がそれを知ったら――」
「私、何も知りません。それに犯人はもう捕まってるはずでしょ」
香澄もニュースで『松野真一』を殺した犯人として、恋人の『太田沙織』が逮捕されたことは知っている。
「だから何? それじゃ警察にあの時のこと話してもいいの?」
「……私にどうしろって言うんですか?」
「今から俺の家に遊びにおいでよ」
まるで勝ち誇ったような笑顔で澤村が言った。




