5・永作香澄の章 (2)
午前11時。
香澄は昨日、デパートで買ってきたばかりのピンクのエプロンをかけ、イソイソと料理の仕度に励んでいた。昼には予定通り熊谷がやってくることになっている。
いつも熊谷が部屋にやってくるのは仕事が終わってからで、そういう時には帰宅途中に食事を済ませてしまっている。香澄が作った料理を作ってもらうのは今日が初めてだった。香澄はウキウキする気持ちを抑えることなく、鼻歌を歌いながら、熊谷を迎える準備を整えていた。
鍋にはいったビーフシチューをクツクツと煮込む。その隣の鍋では熊谷の好きなミネストローネスープを温めつづけている。
熊谷が自分の料理を口にしてくれるところを想像しながら作業を続けていると、部屋にチャイムの音が響いた。
「はぁい」
香澄は玄関のドアを開けた。だが、そこに立っていたのは予想に反し、熊谷ではなかった。
「久しぶりぃ」
黒のジャケットにデニムのスカートを履いた早苗が軽く手を上げた。早苗と顔を合わせるのも3週間ぶりだ。早苗からは何度もメールが届いていたが、まったく返信していなかった。
「あ……早苗……どうしたの?」
「うん。暇だったから、ちょっと遊びに来てみたの。急にごめんね。あ、料理してたんだぁ」
そう言いながら部屋に上がろうとする。香澄は慌てて早苗の前に立ちふさがった。
「あ、あの……」
「何? どうしたの? 誰かいるの?」
早苗は香澄の身体の陰から部屋の奥を覗き込む仕草をした。
「ううん、そうじゃないの」
「あがっちゃマズイの?」
「ちょっと……もうじきお客さんが来ることになってるから」
「あ……そうなんだ」
早苗は素直に靴を履きなおした。
「ごめんね」
「いいよいいよ。私だって勝手に来たんだから。ところで祥子のことなんだけど聞いてるよね?」
「祥子?」
「結婚式の招待状、来たよね」
「あぁ……うん」
「どうするの?」
「まだ……はっきりはわかんない」
「どうしちゃったの?」
「え? 別にどうもしないわ。ただ、時間的に都合つくかどうかわからないだけよ」
「だって、祥子の結婚式よ。香澄、祥子とは小学校からの付き合いなんでしょ? 何の用事があるのかわからないけど出てあげようよ」
「わかってるわよ」
だが、もしその日に熊谷と会うことが出来るなら、きっと自分は祥子よりも熊谷を選んでしまうだろう。
「お客さんって――」
早苗は火にかけられた鍋をちらりと見てから言った。「ひょっとして会社の人? 付き合ってるって言ってた人なの?」
「う、うん」
香澄は口篭もった。早苗が何を言おうとしているのか、それは聞くまでもない。
「香澄――」
「それじゃ、悪いんだけど――」
早苗の言葉を遮って、香澄は早苗の肩を押した。
「待って! 香澄に訊きたいことが――」
「ごめん!」
まだ何か言おうとする早苗を外に押しやり、ドアを強く閉めた。鍵をかけるとドアに寄りかかる。
「香澄!」
早苗の声がドア越しに聞こえてくる。「いったいどうしちゃったの? こんなの香澄らしくないよ」
わかっている。自分がどこかおかしくなっていることはちゃんと自覚している。だが、今はどうしようもない。
今、自分の心を占めているのは熊谷のことだけなのだ。
「香澄! ねえ、香澄ったら!」
軽くドアを叩きながら早苗が声をかける。香澄は何も答えぬまま、じっと目を閉じて時が過ぎるのを待った。
やがて、早苗の声は消え、小さく去っていく足音が微かに聞こえてきた。
(ごめん……)
早苗と祥子に心のなかで詫びた。きっと祥子の結婚式には出席することは出来ないだろう。今はほんのわずかな時間さえも、熊谷との会うことに使いたい。
香澄はゆっくりとドアから離れた。
陰鬱な気持ちが胸のなかに広がっている。その思いを吐き出そうとため息を一つついた時、部屋に置かれていた携帯電話が鳴り出した。
(彼かもしれない)
その瞬間にもすぐに頭に浮かんできたのは熊谷の顔だった。
香澄は部屋足で部屋に戻り、テーブルの上に置かれていた携帯電話を手に取った。今度は予想通り熊谷からだった。
――おはよう。
その声が耳から入った時には早苗とのやり取りのことなどすっかり忘れてしまっていた。
ちらりと棚の上の置時計に視線を移す。
午前11時半。もう駅まで来ているのかもしれない。
「今どこなの?」
――うん
熊谷は言いづらそうに言葉を濁した。
「何? どうしたの? まだ家にいるとか?」
――いや……そういうわけじゃないんだけどね。
「それじゃ……何?」
――ごめん。今日はちょっと行けなくなったんだ。
声を潜めながら熊谷が言った。
「え……どうして?」
――うん。急に用事が出来てね。
「私のこと嫌いになったんですか?」
――何言ってるんだよ。そんなわけないだろ。
「だったらどうして?」
――ただ、今日は――
熊谷がそう言いかけた時、背後で微かなアナウンスのようなものが聞こえた。
「部長、今、どこに?」
――ごめん、ちょっと時間がないから。またあとで。
「部長――」
声をかける間もなく、電話が切れた。
(何……?)
携帯電話を持ったまま呆然と立ち尽くす。
この胸騒ぎは何なのだろう。
香澄はもう一度熊谷に話を聞こうと、携帯電話を開こうとした。その時、再び携帯電話が鳴り出した。
「――はい」
――あ、香澄ちゃん? 何してたの?
川口玲子だった。
「いえ……別に」
――あのね。さっき営業の田原さんから連絡があったんだけど、熊谷部長の奥さん、昨夜、赤ちゃんが産まれたらしいわ。
「え……」
胸がぎゅっと締め付けられる。
――本当はもう少し先の予定だったらしいんだけど、ちょっと早まったんだって。それで、皆でお祝い贈ろうってことになったんだ。一口千円ってことにしてるんだけど、香澄ちゃん、どうする?
「……お願いします」
何とかその一言を搾り出した。
――わかった。それじゃ私、今から田原さんと買い物行ってくるから。
電話が切れた後も香澄は動けなかった。
子供が生まれた。
きっと、さっきの熊谷からの電話は病院からに違いない。
きつく拳を握り締め、唇をかみ締める。
いつかこの日が来るのはわかっていた。わかっていたはずなのに……香澄の心のなかでプツリと何かが切れる音が聞こえた。
「嫌……」
抑えきれない感情が言葉となって溢れ出す。「嫌ァァァァァァァァ!」




