4・鮎川早苗の章 (2)
早苗はリビングのソファで横になり、雑誌を読みながら秋彦の帰りを待っていた。『松野真一』が殺された事件について秋彦に訊きたかったからだ。
ちらりと顔をあげて壁に掛かった時計に視線を向ける。
午後10時。
やはり今夜も秋彦は遅いのかもしれない。
早苗は雑誌をテーブルの上に置くと仰向けになり目を閉じる。
『新山響子』の死。その部屋にあったアクセサリーを盗んだ『松野真一』。そして、松野を知っていた香澄。
香澄の様子がおかしいのも、これらのことが何か関係しているのだろうか。それぞれの事件が香澄に直接結びついているとは思えなかったが、間接的に結びついているような気がする。
「おい――こんなとこで眠るなよ」
その声にはっとして目を開けた。いつの間に帰ってきたのか、秋彦が早苗を見下ろしている。
「あれ……いつ帰ってきたの?」
「たった今。寝るなら部屋に行って寝ろよ。風邪ひくぞ」
「寝てないわよ。ちょっと考え事をしてただけ」
早苗は起き上がった。
「そう言いながら寝ちまうのがおまえの子供の頃からの癖じゃないか。学生の時だって夜中に受験勉強してると思えば、いっつも机の前で眠り込んで――」
「そんな古い話持ち出さないでよ。ちょっと教えて欲しいことがあってお兄ちゃんのこと待ってたの」
「ん? 何だよ?」
秋彦は早苗の正面のソファに腰を降ろした。
「お兄ちゃん、ご飯は?」
「食べてきた。それより訊きたいことって何だよ?」
「今日、インターネットで見たんだけど、この前殺された『松野真一』って人を殺した犯人が逮捕されたみたいね」
「太田沙織か」
「うん。その事件について教えて欲しいの」
「なんでそんなことを――?」
秋彦は眉をひそめて聞き返した。「事件記者にでも転向したか?」
「そんなんじゃないわよ」
「だったらどうしたんだ?」
「なんか気になるのよ。だってその松野真一って人、香澄の先輩が死んだ事件にも関係しているかもしれないんでしょ?」
「本当にそれだけか?」
「そうよ」
香澄が『松野真一』を知っているかもしれないということは、今はまだ話さないほうがいいだろう。
「ふぅん」
秋彦は疑うような視線で早苗を見た。「ま、いいだろ。これで二葉君も容疑者から外すことが出来たことだし、特別に教えてやろう」
「二葉って容疑者だったの?」
「一応な。第一発見者を疑うのは俺たちにとっては常識的なことだ。それに彼の場合、ちょっと問題があったからな」
「問題って? 仕事帰りに死体を見つけただけのことでしょ? それとも二葉も松野真一と知り合いだったとか?」
「いや、彼と被害者とを繋ぐものは何もない。問題なのは発見した状況だ。彼は帰宅する途中に道路から死体が見えたと言っていたんだ。だがな、死体は公園に隣接している空地の草むらのなかにあって、近づかなければ見えない位置にあったんだ」
「それじゃ二葉が嘘を?」
「なぜそんな嘘をついたのかはわからない。だが、それが原因で彼を容疑者として見ていた人間もいたのは事実だ。ま、太田沙織が捕まった今、二葉君はとりあえず容疑者リストからは外れたけどな。俺もほっとしたよ。おまえの幼馴染に手錠をかけたくはないからな」
「そうなの……」
「で、何を聞きたいんだ?」
秋彦は上着のポケットから手帳を取り出した。
「松野真一って何者?」
「ずいぶん漠然とした質問だな」
秋彦は小さく笑ってから手帳を捲った。「松野真一、年齢は25歳。阿佐ヶ谷にあるマンション『オーベル阿佐ヶ谷』で一人暮らしをしている。職業は新宿にあるスナックでバーテンをやっていた」
事務的な口調で手帳を読み上げる。
「……バーテン」
とても香澄と関係があるとは思えない。
「他には?」
「松野真一って男を殺した犯人って――」
「太田沙織、年齢は21歳。都立大学に通う学生だ」
「本当にその人なの?」
「おそらく間違いないだろうな。太田沙織のマンションから、松野真一の血がついた衣類が発見されている。事件当夜、彼女が慌てた様子で部屋に駆け込むのを見たという証言もある。現場に残されたナイフは事件の2週間前に彼女の住むマンション近くのスーパーで買ったものだ」
「それじゃ計画的に? 動機は何なの?」
「さあ……それはまだわからない。しかも買ったのも、持ち歩いていたのも太田沙織のほうじゃなく、殺された松野真一のほうだ」
「それじゃ松野真一からナイフを奪い取って殺したってこと? それって正当防衛ってことになるの?」
「いや、傷から見て争ったような形跡はない。背後からいきなりナイフで刺し殺されたような感じだろうな。そして、その後、胸のほうから一刺しだ」
「太田沙織は何て言ってるの?」
「それが太田沙織はその時のことをはっきりとは憶えていないんだ」
「どういうこと?」
「その日、夕方まで一緒にいたことは彼女も認めている。ただ、その後、松野真一が彼女のマンションから出た後のことは何も憶えていないと言ってるんだ。頭痛がしてずっと部屋で寝ていたと言っている。ただ、昨日になって初めて血のついた服が押入れの奥から出てきて、それで警察に出頭してきたんだ」
「嘘をついてるんじゃないの?」
「最初は俺もそう思った。だがな、彼女の様子を見ていると、どうしても嘘をついているようにも見えないんだ。それに彼女が松野真一を殺さなければいけない理由も見つからない」
「じゃあ、どういうことなの?」
「わからないよ。だから俺だって困ってるんだ」
「太田沙織さんって学生って言ったわよね」
「それがどうかしたか?」
「もし、計画的だったとすれば、友達が何か知ってる可能性ってないかしら?」
「彼女の友達にも聞いてみたんだが、皆、彼女がそんなことをするわけがないと言っている。自分じゃ魚もさばけないほど、血を見るのがキライだったそうだ」
早苗は秋彦の手元をじっと見つめた。手帳に書かれた『萩原順子』の名前がはっきりと読み取れる。その隣には携帯電話の番号が書かれている。
「その萩原って人は誰?」
「太田沙織の同級生で、バイト仲間。彼女、月曜から金曜までは授業が終わると、駅前にあるコンビニでバイトしてたんだ。まさか話を聞こうなんて思ってるわけじゃないだろうな」
「ま、まさか――」
「なら、いいが……」
秋彦は早苗の心のなかを読もうとするように、じっと早苗の目を覗き込んだ。早苗は慌てて話題を変えた。
「ねえ、それじゃ香澄の先輩のことはどうなったの?」
「『新山響子』か? そっちも未だ決め手となるものは見つかっていない」
「だらしないなぁ」
「しょうがいないだろ。容疑者である松野真一本人が死んでしまってるんだからな。それに、新山響子と松野真一の間には何の関連性も見つかっていない」
「強盗……とかじゃないの? スペアキーはどこかで偶然手に入れた……とか」
「ちょっと考え方に無理があるな。それに強盗に入って殺したとして、わざわざ自殺工作などするとは思えない。もし、新山響子の事件が殺人だとすれば、手の込んだ計画殺人の可能性が強いだろうな」
「……計画殺人……でも、二人には関係がないって――」
「誰かが松野真一に殺人を依頼したということも考えられる。新山響子は生前、サラ金から200万ほどの借金をしているんだ」
「200万?」
「彼女の生活は質素なもので、まるで派手さはない。金を何のために使ったのかも定かじゃない。そうなると一番考えられるのが男の存在だ」
「誰か付き合ってた人がいるの?」
「マンションに時々出入りしていた男がいたそうだ」
「誰なの? 相手もわかってるんでしょ?」
「一応な。普通の恋人ではなく不倫関係だったようだ」
「不倫?」
「会社の営業部長をしている男で熊谷幸人という男だ」
「営業部長?」
嫌な予感がした。香澄が付き合っているのも会社の部長だと言っていた。
(まさか――)
同じ男と付き合っているなどということが有りえるだろうか。
「どうかしたか?」
「う……ううん」
「いずれにしても捜査はまだ継続中だ。いずれはっきりすることだろう。質問は終わりか?」
「ありがと。でも、珍しいね」
「何が?」
「お兄ちゃんが事件のことを家で話すなんて今までなかったじゃないの」
「今まで訊いたことなんかなかったじゃないか。それに今、話したほとんどのことはすでに広報を通じてマスコミにも発表されてることだよ」
「それはそうだけど……全部が全部、発表されていることじゃないでしょ?」
「おまえとは情報交換が出来そうだからな」
「え……」
ドキリとした。「どうして?」
「おまえが何の理由もなく、事件のことに興味を持つはずがないからな。何を気にしてるんだ?」
「それは……」
「事件に関係してることなのか?」
早苗は大きく首を振った。
「ごめん……まだわかんないんだ」
「そうか。けど、何か気になることがあるなら、ちゃんと言うんだぞ」
秋彦はパチリと手帳を閉じた。




