3・永作香澄の章 (5)
和食料理屋の座敷で香澄は熊谷と向かい合っていた。
そこは駅から離れたほんの小さな店で、大きなオフィスビルの間に挟まれた目立たない路地に面しているため、あまり人に知られておらず、二人でこっそりと会うには適していた。
喉の渇きを癒そうとするように熊谷がぐっとビールを煽る。
「ふぅ……やっと一週間も終わったなぁ」
熊谷はそう言って空になったコップをテーブルの上に置いた。すぐに香澄がビールを注ぐ。
「ご苦労様でした」
「まったく今日は疲れたよ」
「でも、大きな契約取れたんでしょ?」
今日、半年がかりで取り組んできた商談がやっとまとまったという話は香澄も噂で聞いていた。
「まあな。一時はどうなることかと思ったけど、何とか契約までいきつけたよ」
「部長の力だったらしいですね」
「一応ね」
まんざらでもない顔をして熊谷は笑った。「――とはいっても、儲かるのは会社ばかりで僕のところにはまるで回っちゃこないけどね」
「でも、会社を支えてるのは部長なんですから。社長だってその辺はわかってるでしょ?」
「どうかなぁ。結局、うちの会社も年功序列のようなところはあるからね。責任だけは押し付けられるけど、給料なんて雀の涙さ」
「それじゃ――」
と言って香澄はバッグに手を伸ばした。そこから茶封筒を一つ取り出し、熊谷の前へと差し出す。
「何?」
「私から部長へのご褒美」
「へぇ、何かな?」
熊谷は差し出された茶封筒を手に取ると、中身を覗き込んだ。その表情が驚きに満たされていく。「これは?」
「ご褒美よ」
茶封筒のなかには1万円札が10枚入っている。架空の伝票を起こして作った金だった。
「どうしてこんなことを?」
「部長もいろいろ大変でしょ?」
「この前言ったことを気にしてるのかい?」
「そんなんじゃないです」
「君にこんなことをしてもらう理由はない。君だってそんな高い給料をもらっているわけじゃないだろ。これはちゃんと貯金しておきなさい」
熊谷はそう言って封筒を香澄のほうへと押し返した。その熊谷の態度は香澄にとって意外だった。
「……ごめんなさい。でも、私、部長のために少しでも力になりたいんです。少しでも部長と一緒にいたいんです」
「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ」
熊谷は二人の間に置かれた封筒にそっと触れると、さらに香澄のほうに向けて押し返す仕草をした。それを見た瞬間、香澄はまるで自分の愛情をつき返されているかのような錯覚を覚えた。
「どうして? どうして受け取ってくれないんですか?」
「どうしてって……」
「お願いです。私が部長にしてあげられるのはこれくらいしかないんです」
香澄は懸命に自分の気持ちを言葉に変えた。
「そんなことないよ。君が一緒にいてくれるだけで、僕は気持ちを楽にすることが出来るんだ。僕を理解してくれるのは君だけだ」
「部長……」
「わかった。それじゃこれは受け取っておくよ」
そう言って手を伸ばす。「ローンが大分残ってるからね。助かるよ」
「これからもお手伝いします」
「おいおい――」
目を細めながら封筒をポケットに収めようとした時、熊谷の手が止まった。「変なこと聞くけど……これは君のお金だよね?」
「え?」
「いや、あくまで念のために聞くんだけどね。まさか会社の……なんてことはないだろうね。もし、そうだとしたら僕は受け取れないよ」
「い、いえ、違います」
香澄は大きく首を振った。そうしなければ受け取ってもらえないと思ったからだ。
「そう。良かった」
熊谷はほっとしたような顔で封筒をポケットに押し込めた。「何かお礼をしなきゃいけないかな」
「そんな……気にしないでください」
「僕にして欲しいことある?」
「そうですね……」
本当は『ずっと傍にいてください』と言いたかった。だが、それは熊谷が重荷に感じることだろう。
ふと、一つの考えが頭に浮かんだ。
「何かある?」
優しく笑いかける熊谷に香澄は口を開いた。
「ちょっと無理なお願いかもしれないけどいいですか?」
「何? 言ってみてよ」
「澤村さんのことなんですが……」
「澤村? あいつ、また君に何かした? 時々、君の席に行ってるみたいだったから気にはなってたんだけど……」
「あの人……遠くに行ってもらうなんてこと出来ませんか?」
「転勤ってこと?」
「……はい」
支社の数はそれほど多くなかったが、それでも札幌と大阪、宮崎の3箇所に小さな事務所を構えている。
「そうだな……」
熊谷は難しい顔をした。「君も知ってるだろうけど、企画営業部は私の管轄にあるけど、実際に人事権を握っているのは専務なんだ。いくら僕でも彼を支社に飛ばすのは簡単にはいかないよ。彼は一応、成績もいいからね」
「そうですか」
香澄は少しがっかりした。
「君、そんなに彼のことが嫌いなの?」
「……ええ」
香澄は素直に頷いた。
「そうか。すぐに転勤させることは出来ないが、いずれ何か理由をつけて支社に行ってもらうようにやってみるよ。それまでは少し我慢してくれ。出来るだけ出張にいってもらうようにするからさ」
「ホントですか?」
「ああ」
熊谷はそう言うと手を伸ばして香澄の手を握った。「僕に任せておいて」
その大きな手を通して熊谷の温もりが伝わってくる。




