3・永作香澄の章 (4)
新聞記事に写った写真を見つめる。
茶色のドットで描かれた不鮮明な顔写真。これはあの男ではないだろうか。
その記事に気づいたのは、昨夜のことだった。すでに事件からは一週間以上が過ぎ去っている。しばらく溜まっていた新聞をゴミに出そうと、まとめている時に偶然、その記事が目に入った。
記事には西新宿の公園で殺された男のことが書かれていた。
男の名前は『松野真一』。中野に住む21歳の無職の男で、鋭利な刃物で背中から刺され出血多量で死亡したと書かれている。
その名前にはまったく憶えがなかった。だが、あの日、香澄が後を追いかけた男がこの松野真一という男であることは間違いないように思える。
澤村はこのことをすでに知っているのだろうか。先日の口ぶりでは、男が死んだことを知っていた様子は見えなかった。もし知っていれば、もっと違う言い方をしてきたことだろう。だが、もし気づいたとしたら……
(あの日、いったい何があったの?)
思い出そうとするたびに、ズキリと頭の芯に痛みが走る。まるで思い出すことを何かが阻んでいるかのようだ。
未だに手に残っている妙な感触。
(まさか私が?)
いったい何のために? 名前も知らない男をなぜ殺されなければいけないのだろう。どう考えても理解出来ない。だが、その反面、男とはどこかで会っているような気がしている。
(どこで?)
それもまた記憶にない。
思い出そうとすればするほど、記憶が混乱していく。
(いったいどうしてしまったの?)
香澄は記憶を整理しようとするように、頭を左右に振った。ふと、テーブルの上に置かれた今日届いたばかりの結婚式の招待状が目に入る。差出人は『井上祥子』。小学校の頃からの同級生で、高校、大学と同じ道を歩んできた香澄にとって誰よりもかけがえのない親友だった。
大学の頃は早苗を含めた3人でよく遊びに行ったものだが、大学を卒業後、祥子は実家の福島へと帰っていった。祥子が東京を離れる最後の日、新幹線のホームまで早苗と二人で見送りに行ったことは昨日のことのように覚えている。
それなのにその親友の顔が今は思い出すことが出来ない。
それどころか結婚式の招待状に書かれた名前を見ても、香澄はすぐに祥子のことを思い出すことが出来なかった。
いや、それだけではない。子供の頃の記憶そのものが薄れてきている気がする。そして、思い出そうとするたびに、まるで見たことのない別の風景や思い出が頭のなかに浮かんできては消えていく。
まるで別人の頭のなかを覗いているかのようだ。
香澄は携帯電話を手にとると、祥子に電話してみることにした。だが、すぐに香澄は顔をしかめた。
携帯から聞こえてきたのは、番号確認を促すメッセージだった。
――おかけになった電話番号は使用されていません。
どういうことだろう。
仕方なく、香澄は招待状に書かれた井上祥子の家の電話番号にかけてみることにした。
規則正しいダイヤル音が聞こえてくる。
これまでも何度も電話をしているというのに、どうしたのか携帯電話を持つ手が震える。
――はい、井上ですけど。
やがて、落ち着いた女性の声が聞こえてきた。
「あの……井上祥子さんのお宅ですか?」
――ええ
「祥子さん、いらっしゃいますでしょうか?」
――香澄なの?
相手の声のトーンが変わった。懐かしい響き。その声と共に古い懐かしい記憶が蘇っていく。さっきまで思い出すことが出来なかった祥子の顔までもがぱっと頭のなかに浮かび上がってきた。
「祥子ちゃん? お久しぶり」
――え? どうしたのぉ?
「招待状、今日、届いたの」
――そっか。来てくれるよね。
「……どうかな」
瞬間的に熊谷のことが気にかかり、はっきりと答えることが出来なかった。以前ならばすぐに「出席する」と即答出来ただろう。だが、今の香澄にとって、何より大切なのは熊谷と過ごす時間だった。
――え? 来れないの?
驚きと寂しさの混じった声で祥子が言った。
「ごめん。まだわかんない。仕事の都合もあるし」
――でも、この前、電話した時には大丈夫って言ってくれたよね。
その言葉に香澄は愕然とした。
「この前? この前っていつのこと?」
記憶がなかった。祥子と電話で話をするのも、大学を卒業して以来のような記憶がある。
――憶えてないの? この前、携帯の番号が変わった時に電話して話したわよね。
「携帯の番号……変わったの?」
――え? 忘れちゃったの? 一週間も経ってないわよ。
「そ……そう。ごめんなさい」
香澄は額を押さえた。必死になって思い出そうと努めたが、電話で話をしたこともまるで憶えていない。
――ううん。気にしないで。……香澄、大丈夫?
「え? 大丈夫よ。どうして?」
――うん。大丈夫ならいいんだけど……あ、それじゃ電話番号言うね。
祥子はそう言って新しい携帯電話の番号を教えてくれた。香澄は急いでメモ帳に大きくその番号をメモした。
「ありがとう。もう忘れないようにするから」
――うん。それと結婚式だけど……
「少し時間もらえるかな? ちょっと時間調整してみるよ」
――わかった。よろしくね。
「うん、それじゃ」
香澄はそう言って電話を切った。
大きく深呼吸をする。
ほんの一週間前にあった電話のことも忘れていたということが何よりショックだった。大切な親友からの電話まで忘れてしまうとは、まったくどうかしてしまっている。
(でも、本当に?)
そんなことがあるのだろうか。自分のこととはいえ、電話があったことすら記憶していないなど、あまりにもおかしい。
きっと祥子は携帯電話を変えたことと、結婚式の招待状を送ることで、複数の友人に電話をしたことだろう。そのなかで、自分にも電話をしたと思い込んでしまったということはないだろうか。
(そうね……その可能性だってあるじゃないの)
香澄はすぐに二度と同じ間違いを繰り返さないようにと、携帯電話に記録されている祥子の電話番号を教えられたものに書き換えた。さらにバッグのなかからアドレス帳を取り出し、祥子の電話番号が書かれたページをめくる。ボールペンで新しい番号を書き換えようとした瞬間、香澄ははっとした。
そこにはすでに古い番号が書かれたところにボールペンで二重に線が引かれ、その脇にさっき聞いたばかりの新しい電話番号が書き込まれていた。




