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キヲク  作者: けせらせら
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1・永作香澄の章 (1)

   1・永作香澄の章


 シンと静まりかえった事務所で永作香澄は書類整理に追われていた。

 伝票に書き込まれた金額を目の前のパソコンに次々と入力していく。

 香澄の勤める『ライフラインズ』は、主に海外で販売されている食器や衣類などの輸入販売を行っている。以前は四ツ谷に事務所を構えていたが、今年の春、香澄が入社した直後に完成したばかりの御茶ノ水駅近くのこのビルに引っ越してきた。

 オフィスビルのワンフロアを借り、役員の部屋以外は壁をぶちぬいた広い一室に全ての部署がおかれていた。奥から『総務』『経理』と続き、入り口付近には『企画営業部』の席が並んでいた。パーティションで区切ってはあるが、経理からも来客の様子ははっきりと見える。ドアは受付側に一つと、香澄のいる経理付近にもドアがあり、営業部のほうを通らなくても部屋の外に出ることが出来る。他に1フロア下に社内で使用しているコンピュータソフトを管理する『システム管理部』が存在しているが、そこはセキュリティがかけられ一般社員は出入りすることが出来ないようになっている。もちろん香澄もまたそこに入ったことはなかった。

 日中、企画営業部の人間の姿が見えない時、事務所内はひっそりと静まり返っている。

 香澄は売上や支払いに関する伝票を整理するのが主な仕事だった。売上や、支払いの締めは全て月末になるため、経理を受け持っている香澄の仕事は月末になるといつも倍増する。皆、月末になると急に溜まっていた伝票や資料を提出し始めるからだ。月末まではまだ余裕はあるが、今月は出来る限り月末までに処理しておかなければいけない理由があった。

 ふと手を止めて、ぼんやりと部屋の隅にある空いた席を見つめる。

 つい先日まで、そこには新山響子が座っていた。響子は香澄よりも6歳年上で、響子今年の春に入社した香澄に仕事を教えてくれたのも響子だった。化粧もほとんどせず、決して美人とは言えなかったが、知的な雰囲気を持った女性だった。

 響子は大人しい女性だった。香澄もわりと静かなタイプではあるが、その香澄から見ても響子は口数が少ないほうで、悪く言えば『暗い』イメージがあった。それでも決して香澄は響子のことが嫌いというわけではなかった。仕事は的確にこなし、業務上必要なことであれば、相手が課長であっても物怖じせずにはっきりと話す。そんな響子の芯の強いところは見習いたいと思うことも多かった。

 その響子が2週間前の10月3日、高円寺にあるマンションの浴室で手首を切って自殺した。第一発見者は響子の母親だった。無断欠勤など今まで一度もしたことがなかった響子を心配して、香澄が実家に連絡をし、母親がマンションを訪ねていって発見することになった。

 遺書はなかったが、部屋は鍵がかけられており、警察は響子の死を自殺と断定した。だが、香澄には響子が『自殺した』ということが信じられなかった。

(なぜ……?)

 いったい響子はなぜ自殺などしなければいけなかったのだろう。最近になって少し元気がなかったのは事実だ。仕事中もぼんやりしていることもあったし、よく一人で考え込んでいることもあった。それでも、自殺しなければいけないほど思いつめていたようにはとても見えなかった。その前日も香澄がコンビニで買ってきた旅行雑誌を眺めては、「私も温泉に行きたい」と話していた。そんな響子がなぜ死を選ばなければいけないのだろう。具体的な根拠があるわけではなかったが、どこか納得することが出来ない。

「どうしたの? ぼんやりしちゃって」

 いつの間にやってきたのか、黒のダブルのスーツを身につけた熊谷幸人が横に立っていた。「新山さんのことを考えてたの?」

「ええ……」

「寂しくなったね」

 熊谷もまたぽつりと呟いた。熊谷はまだ38歳だが、すでに会社の中心として企画営業部の部長を勤めている。気さくで人当たりが良く、若い社員たちからは広く慕われている。大学時代にラグビー部だっただけのことはあり、大柄な身体で見るからに頼りがいがある。

 香澄も熊谷のことは嫌いではなかった。

「響子さんが死んだなんて、なんか信じられなくて」

「僕もだよ。まだ若いのに自殺なんてね。死んだ人にこんな言い方したら失礼かもしれないけど、死ぬなんて間違っているよ。大バカだよ」

 そう言って熊谷は響子が座っていた席をじっと見つめ下唇をぎゅっと噛んだ。その表情からは響子の死を心から残念がっている思いが伝わってくる。

「でも……本当に自殺なんでしょうか?」

 香澄はふと思いを漏らした。

「どういうこと?」

 熊谷は驚いたように香澄の顔を見た。

「だって……自殺だなんて考えられます?」

「それじゃ君は自殺じゃないと思ってるのかい? なんか理由があるの?」

 熊谷は表情を硬くして、空いていた香澄の隣の席に腰をおろした。

「いえ……そんなんじゃないですけど……でも、いつも話をしていても、自殺しなきゃいけないほど何かに悩んでるようなふうに見えなかったから」

「そっか。そういうことか」

 熊谷はいくぶん表情を和らげた。「信じたくない君の気持ちもわかるけどね。もちろん僕だって彼女が自殺したなんて考えたくなんてないよ。ただ、人って情けないものでね。本気で悩んでいることとか、苦しみとかってなかなか他人に話しだせないものだろ。むしろそれを口に出す強さがあれば、自殺なんてしなくて済んだんだろうね」

「だからって何も死ななくっても……死んでしまったら何もかもおしまいじゃないですか」

「そうだね。確かにそれは君の言う通りだ」

 熊谷はそう言うと響子のいなくなった机を眺めた。「僕ももう少し彼女の様子に気をかけるべきだった」

 それはまるで親しい人を失ったもののように聞こえた。あまり熊谷が響子と話をしている姿を見たことはない。

「部長は響子さんとは親しかったんですか?」

「彼女は入社してすぐに僕の下で仕事をしていた時期があるんだ。知らなかったかい?」

 それは初耳だった。響子もそのことについては話してくれたことはなかった。

「響子さんが? ずっと経理の仕事をしてたと思ってました」

「営業の仕事はけっこうキツイからね。それで身体を壊したことがあって、経理に移ったんだよ。それにどちらかといえば彼女の性格からして営業よりも経理のほうが向いていたからね」

 確かに熊谷の言う通りだったかもしれない。香澄が入社するまで、経理課の事務員は響子しかおらず、たった一人で全ての業務を管理していた。おそらく課長の長谷川よりも響子のほうが業務について詳しかっただろう。

「そうだったんですか」

「君も大変だね。彼女の業務は君が受け継いだの?」

 熊谷は視線を香澄の手元に置かれた伝票の束に向けた。

「はい」

「大丈夫? 彼女しかわからないことも多かったろ?」

「ええ、私じゃとても響子さんみたいには出来ないから、今のうちから少しでも伝票処理しておかないと月末にパニックになっちゃいます」

 そんな簡単に響子の代わりを勤められるはずもなかったが、かといって他に頼る人がいるわけでもない。

「うちの部のやつらにも今月は出来るだけ早めに伝票処理しておくように言っておくよ。がんばってくれよ」

「お願いします」

 香澄は小さく頭を下げた。

「ところで――」

 と、熊谷はそっと周囲に気を配りながら言った。「今度、二人で食事にでも行かない?」

「え? 私ですか?」

 熊谷の言葉に香澄は驚いた。

「ここに君以外に誰かいる?」

「いえ……」

 香澄は戸惑っていた。「二人でなんて言うから」

「いけない?」

「またぁ。からかわないでくださいよ」

 香澄はわざと笑い飛ばそうとした。「奥さんに怒られますよ」

「大丈夫だよ。食事くらいで怒るような奴じゃあないさ。それに会社の同僚と食事するのに、いちいち女房の許可をもらう必要もないよ。そうだろ?」

「はぁ……」

 熊谷の真意がわからず、香澄は曖昧に答えた。

「じゃ、仕事がんばってくれよ」

 熊谷はポンと香澄の肩を叩いてから立ち上がった。


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