3・永作香澄の章 (2)
いつものように事務所は静かだった。
そんな中、香澄の胸のなかだけが激しくざわついていた。
経理伝票をジッと見つめる。
(大丈夫よ)
それは決して難しいことではない。この会社の通帳も小切手も今は自分が預けられている。多くの社員がいるのだから、毎月のように接待費などを始めとした費用が発生する。その全てに正式な受領書があるわけでもない。多少、金額は大きくなるかもしれないが、架空の請求書を起すことも不可能ではないはずだ。
そうすれば今の状況から逃れることが出来る。熊谷と一緒になることも出来る。
(そうよ)
長谷川は今朝も経営会議のため席を外している。川口玲子はその手伝いのために一緒に会議に参加している。
香澄はパソコン内にある経理データにアクセスしようと専用ソフトのショートカットをダブルクリックした。
IDとパスワードを入力するための小さな画面が表示される。
香澄はいつも入力しているIDとパスワードを入力し、OKボタンをクリックする。緊張から全身に力が入る。
やがて、メニュー画面が表示され、香澄はすぐに支払いボタンを押した。
(大丈夫よ)
自分自身に言い聞かせる。
自分以外に誰もこんなデータ内容をチェックする人間はいない。長谷川がチェックするのは最終的に集計された数字だけで、詳細まで確認はしない。数万円の架空伝票なら誰も気づくはずがない。
ごくりと唾を飲み、香澄は10万円の伝票を入力した。
(伝票起票者は……)
あの澤村義文にしてしまおう。ルーズなあの男ならば、自分がいくら経費として請求したかも憶えてはいないだろう。
「おはよう」
背後からの突然の声に香澄はビクリと身体を振るわせた。振り返るとそこに澤村が立っている。
「あ……お、おはようございます」
「ほら、お土産だよ」
澤村は小さな紙袋を香澄に差し出した。
「お土産?」
「あれ? 忘れたの? 俺、先週、出張で大阪に行ってたんだ」
そう言われてみればそんなことを言っていた気がするが、はっきりいってすっかり忘れていた。
「ありがとう」
香澄は差し出された紙袋を受け取った。
「仕事忙しい?」
澤村はそっと香澄の肩に触れながら隣の席へ腰をおろした。その馴れ馴れしい仕草に香澄は思わず眉をしかめた。
「まあまあです」
「香澄ちゃんは大阪に行ったことある?」
「ええ、高校の修学旅行と、大学の時に友達と」
「良いとこだよねえ。今度、俺と一緒に旅行に行こうよ」
「何言ってるんです?」
香澄は澤村を睨んだ。パソコンのディスプレイには登録ボタンを押すだけとなった伝票画面が表示されている。長谷川が戻ってくるまえに処理してしまいたかった。
そっと手を伸ばし、登録ボタンをクリックする。伝票入力画面が消え、メニュー画面に切り替わる。
香澄はほっと息をついた。
「この前さぁ――」
と澤村は突然、話を切り替えた。「香澄ちゃんが追いかけていった男って……あれは誰なの?」
「え?」
冷水を浴びたように、全身の血液が引いていくのがわかった。「何言ってるんですか?」
声が震えそうになるのを押さえながら聞き返す。
「この前の日曜だよ。マンションから出て行った男を追いかけて駅のほうに行ったじゃないか」
「さあ……」
「隠さなくってもいいんだよ。実を言うとね、俺も香澄ちゃんのあと、追いかけたんだ」
「どうして、そんなことを?」
唇が震える。
あの後のことは香澄自身はっきりと記憶していない。気がついた時には、自室でシャワーを浴びていた。
(あの後、何があったのだろう)
だが、それを知るのはあまりにも怖い。
「そりゃ、香澄ちゃんの様子がおかしかったからじゃないか」
「そうですか……それで?」
「あの男、誰なの?」
「何のことですか?」
「教えてくれたっていいでしょお? ねえ、誰なの? まさか彼氏とか?」
「違いますよ」
香澄は繰り返した。
「それじゃ誰なの?」
澤村はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた。その時、ガチャリとドアが開き、長谷川が姿を現した。ジロリと澤村に視線を投げる。
「澤村君、何してるんだ?」
「いや……別に」
澤村は小さく舌打ちをすると慌てて立ち上がった。そして、そっと香澄の耳元に顔を寄せた。「今夜、飯でも食べに行こうよ。そこでゆっくり話そうじゃないか」




