3・永作香澄の章 (1)
3・永作香澄の章
「愛してる」
ベッドの上で一つ呟いてみる。
隣では熊谷が静かな寝息を立てている。香澄はその寝顔をじっと見つめた。
(なぜ――)
こんなことになってしまったのか。熊谷には真知子という美しい奥さんがいる。そして、そのお腹のなかには来年には生まれてくる子供がいる。それなのに、ついさっきまで自分はその熊谷と身体を重ねあっていた。
これからどうなっていくのだろう。熊谷に抱かれている間は、その快楽に全てを忘れていられても、事が終わると急に不安が全身を包みこむ。
(助けて)
そっと熊谷の頬をさする。
「ん……」
熊谷の頬がピクリと動き、瞼がわずかに開く。香澄は顔を近づけると、そっとその頬に唇を触れた。熊谷の目が一瞬、驚いたように見開かれた。
「どうしたの?」
「なんだ……香澄か」
すぐに安堵の表情に変わり、熊谷は苦笑いをした。
「何なの?」
「今、一瞬、君の顔が新山君に見えたよ」
「響子さん?」
「ぜんぜん似てないのにな」
熊谷は笑いながら身体を起こすと枕もとに置かれていたタバコを取った。「今、何時だ?」
「もうすぐ11時になるとこ」
枕もとに置かれた目覚し時計に視線を走らせて香澄は答えた。
「そうか。そろそろ帰らないとな」
そう言いながら熊谷はタバコを咥えた。
「ねえ――一つ教えてください」
「なんだ?」
「赤ちゃん……いつ生まれるんですか?」
「確か、来月の末くらいかな」
壁に掛けられたカレンダーに目を向けながら熊谷は答えた。「どうしてそんなこと聞くの?」
「お祝いしなきゃいけませんね」
「よせよ」
と、熊谷は鼻で笑う。「なんで君が僕の子供のお祝いを?」
「だって、部長にとって初めての子どもじゃないですか。嬉しいでしょ?」
「そりゃ、そうだけど。なんか君が言うと皮肉に聞こえるよ」
「そんなつもりありませんよ。お祝い、何がいいです?」
「そうだなぁ」
ちらりと横目で香澄を見る。「現金が一番だな。とりあえず500万ほどあると助かるかなぁ」
意外な熊谷の言葉に香澄は途惑った。
「え……何、言ってるんですか? そんなお金、私が持ってるわけないじゃないですか」
「でも、君なら出来るんじゃないか? 長谷川なんて仕事を全部、君に任せっきりなんだろ?」
「どういう意味ですか? まさか会社のお金を横領しろっていうんじゃ……」
さすがに驚いて険しい口調で聞き返すと、熊谷は大きく笑い出した。
「やだなぁ、冗談だよ。冗談に決まってるだろ」
「冗談……?」
「当たり前じゃないか。いくらなんでも横領してまで貢いでくれなんて言うわけないだろ。マジメに受け取らないでくれよ」
「そう……ですよね」
「ま、家のローンで苦しいのは事実だけどな」
あの真っ白な家が頭に浮かぶ。温かみのある光溢れるリビング。親子3人で過ごす姿を想像し、香澄は寂しさに襲われた。
(この人には帰る場所がある……愛してくれる人がいる)
その時、壁にかけられていた熊谷の上着のポケットに入っていた携帯電話が鳴り出した。熊谷はベッドから抜け出ると、携帯電話を取り出した。だが、すぐに顔をしかめると、電話を切ってしまった。
「どうしたんです? 奥さんからじゃないんですか?」
「いや、違うよ」
熊谷は言葉少なに答えると、ベッドに戻った。
「私のことなら、別に気にしなくてもいいですよ」
「そんなんじゃないって」
熊谷は煩そうに答えた。すると再び、熊谷の手のなかで携帯電話が鳴り出した。困ったように眉をひそめる。
「出たらいいじゃないですか」
わざとそっぽをむいて香澄が言うと、熊谷は背中を向けて携帯電話を耳に当てた。
「……はい」
声を潜めて電話に出る。
その様子を香澄は横目でちらりと覗き見た。
(奥さんじゃないのかしら?)
これまでにも真知子が熊谷に電話をかけてくることはよくあった。だが、熊谷は香澄の存在などまったく気にも止めない様子で、電話に出ると平気で嘘をついた。
だが、今日はいつもとはまったく様子が違っている。
「――ああ……わかってる……」
ボソボソと香澄に聞かれるのも嫌なように低い声で喋っている。
(誰なの?)
隠されることで、むしろ誰と話をしているのが気になってくる。香澄は何気ないそぶりをしながら、熊谷の電話を聞き取ろうとした。
「……そんなこと言われても……無茶言うなよ……あいつが殺されたことだって……それはおまえが勝手にやったことじゃないか」
相手の言葉はほとんど聞き取れないが、激しい口調で喋っているのが聞こえてくる。
(殺された?)
いったい誰のことを話しているのだろう。
(響子さん?)
ゾクリと背筋に冷たい感触が走る。
「わかったよ……。だからバカなことするんじゃないからな」
熊谷は投げやりに言うと、携帯電話を閉じた。
「誰だったんです?」
「ん? ちょっとした知り合いだよ」
ぶっきらぼうに答えると熊谷はベッドを降りた。
「誰が殺されたんですか?」
「何?」
熊谷は振り返った。いつもに増して険しい視線を香澄に向けた。
「さっき、電話でそんな話してましたよね?」
「聞いてたのか?」
その厳しい口調に香澄は驚いた。
「聞いてたわけじゃありません。聞こえただけです」
「君には関係ない」
そう言うと服を着始めた。
「……どうしてそんな怖い顔するんですか? 何を怒ってるんです?」
「別に……怒ってなんていないよ」
すでに熊谷の表情からは、さっきまでの厳しい表情は消えている。熊谷はまるで何事もなかったようにスーツを着込むと、黒い鞄を手にした。
「待ってください……余計なこと言ってごめんなさい。だから、もう少しだけ一緒にいてください。いいでしょ?」
「悪いけど、もう時間がないんだ。わかってるだろ」
熊谷はそう言って香澄の髪に触れた。
「ずっと部長と一緒にいたい……奥さんとは別れられないんですか?」
言ってはいけない言葉。だが、それを言わずにはいられなかった。その言葉に熊谷は目を伏せた。
「僕だってそうしたいよ。でも、とても無理な話だ」
「どうして?」
「わかってるだろ。僕には家のローンはあるし、離婚なんてことになったら慰謝料を払わなきゃならなくなる。そんな金はどこにもない。もし、君と一緒になることが出来たとしても、その時は借金に追われることになる。そんなんじゃ君を幸せにすることなんて出来やしないよ」
「お金さえあればいいんですか?」
「え?」
「お金さえあれば、一緒になれるんですね」
熊谷は驚いたような表情をして香澄の顔を見つめた。




