1・永作香澄の章 (10)
すでに陽は落ち、辺りは薄闇に包まれ始めている。
香澄はぼんやりとコンビニの前に立ち、道路を挟んで反対側に建つ8階建てのタワータイプのマンションに視線を向けていた。マンションは白を基調とした外壁に、曲面部分などに黒でアクセントをつけられ、若い女性が好むようなタイプのものだ。
そのマンションの5階の灯りがついた窓を香澄は見つめつづけている。
(私は何をしているの?)
自分でも自分のやっていることの意味がわからない。
早苗と別れた後、香澄はレストランに戻ると、その後、ずっと革ジャンの男を尾行していた。男は連れの女性とレストランを出た後、1時間ほどデパートをうろつき、その後、電車で西日暮里まで来ると、駅から10分ほど歩いたマンションに入っていった。
部屋の前まで行って確認してきたが、ドアには『太田』という表札がかけられていた。その名前にはまったく覚えがなかった。
憶えているのはあの男の顔と、そして大きな手。
その男が何者なのか、そして、なぜこれほどまでにその男のことが気になるのか、香澄にもわからない。それなのに、男のことを忘れて帰ろうという気持ちにはなれなかった。
いったいどこであの男を見たというのだろう。昼間、男とすれ違った時、男のほうは香澄のことなどまったく知らない様子だった。香澄が一方的に知っているということかもしれない。
胸騒ぎがする。
(帰ったほうがいい)
そう思っても、体が言うことを聞かない。
「あれぇ? 永作さん?」
はっとして声のするほうに視線を向けると、そこに澤村義文が驚いたように立っている。ダボダボのジーンズに無数の毛玉のついたセーターを着て、買い物にでも行ってきたのかスーパーの袋をぶら下げ、もう片方の手にはマンガ雑誌を抱えている。
「どうしてここにいるの?」
澤村は嬉しそうな笑顔を見せて香澄に近づいてきた。
「いえ……別に」
「永作さんって吉祥寺でしょ?」
澤村は当たり前のように言った。澤村に自宅の場所を教えた事など一度もない。「誰かと待ち合わせ? この辺に友達でもいるの?」
「いえ、そうじゃないですけど」
香澄はどう説明していいか迷った。
「もし時間があれば飯でも食いにいこうか? そこに美味しいラーメン屋があるんだ。あそこのラーメン食ったら病み付きになるよ。俺なんて二日に一度は必ず食べてるんだ。俺、来週から出張で一週間大阪支社に行かなきゃいけないんだよね。その間食えないのが辛いんだよなぁ。香澄ちゃんはラーメン好き?」
澤村は一人でペラペラ喋り続けた。
その時、マンションの正面のドアが開き、あの男が姿を現した。咄嗟に視線を上げて部屋の窓を見る。
まだ灯りはついている。女はまだ部屋に残っているのだろう。ひょっとしたらこのマンションは女の部屋で、男はまた別のところに住んでいるのかもしれない。
「どうかした?」
香澄の表情に気づき、澤村が不思議そうに香澄の顔を覗き込む。
「ごめんなさい。私、もう行かなきゃ――」
香澄は小さく頭を下げると、澤村のことなど無視して、再び男の背中を見つめながら歩き出した。
その時、マンションからもう一つの人影が出てきたことに香澄は気づかなかった。
* * *
午後8時半。
真っ暗な部屋に携帯電話の着信音が鳴り響く。
テーブルの上に置かれた携帯電話の青いイルミネーションが呼び出し音に合わせて色鮮やかに点滅している。
香澄はゆっくりと手を伸ばすと鳴りつづけている携帯電話を取った。ディスプレイに『鮎川早苗』の文字が見える。
一瞬、迷った後で香澄は電話に出た。
「――はい」
――香澄? 大丈夫?
電話に出るなり早苗が訊いた。
「うん、別に大丈夫だけど。どうして?」
冷静な声で香澄は答えた。
――昼間、なんだか様子おかしかったから。
「べつに。何でもないわ」
――そう……それならいいんだけど……それと今日話してた部長さんとのことなんだけど……
「そのことならもういいわよ」
――いいってことないでしょ? ちゃんと考えないと……
「しつこいなぁ。大丈夫って言ったじゃないの!」
自分でも信じられないほど冷たい言葉が口から零れる。
(何を言ってるの?)
自分で自分の言った言葉に驚いた。
――……香澄、どうしちゃったの? 何か変よ。
「早苗はあの人のこと知らないのよ!」
――でも――
「早苗になんか私の気持ちはわからないわ! いいからほっといて!」
そう言うと香澄は早苗がまだ何か言おうとしているのを無視してプツリと電話を切った。
(どうしてしまったんだろう)
暗い部屋を見つめながら香澄は思った。早苗が自分を心配してくれているのは痛いほどわかる。それなのにその早苗に対して、どうしてあんな酷い言い方をしたのだろう。
自分で自分がわからなくなる。思っていることとまるで反対の行動をしている。何よりも早苗の助けを欲しているのは自分なのに。
(こんなの私じゃない)
そう。この身体も心までも誰か他の人に操られているような気がしてくる。
香澄はベッドのなかにもぐりこむと、ぎゅっと自分自身の身体を抱きしめた。
今日、何をしていたのか……そして、どうやって帰ってきたのかもまったく記憶に残っていない。ただ、手に妙な感覚だけが残っている。
(何なのこれは……)
それが何なのか、香澄にはわからなかった。
(助けて……助けて……)
ベッドのなかで振るえながら、香澄は心のなかで呟いた。




