1・永作香澄の章 (9)
日曜の有楽町、マリオンの前はいつものように人で溢れていた。
映画館を出ると、香澄と早苗はすぐ近くのイタリアンレストランに入った。二人で映画を観に来る時は、必ず昼食をここで食べる事に決めている。それほど大きな店ではないが、店内は小奇麗で店員の感じも良く、料理も安いわりにとても美味しかった。
まだ12時前のためか、店内はそれほど混雑していない。静かなバイオリン曲がゆったりとした雰囲気を演出している。
「お腹すいたねぇ」
席に着くなり、淡いピンクのブラウスを着た早苗が言った。「映画観ながら、お腹がなりそうでヒヤヒヤしちゃった」
「朝、食べてこなかったの?」
香澄は黒いカーディガンを脱いで隣の椅子の上に置いた。外の日差しが差し込み、店内はポカポカと暖かだった。
「ちょっと寝坊しちゃって慌てて出てきたから」
「無理しなくても良かったのに」
「だって、香澄、今日の映画楽しみにしてたでしょ?」
「でも、思ったほど面白くなかったね」
「そうかな? 私はけっこう楽しめたけど」
「なんか退屈しちゃって」
「意外だなぁ。香澄、ああいうの好きだったと思うけど」
映画はハチャメチャなコメディ物で、これは以前から香澄が観たいと言っていたものだった。
「うーん……でも、なんだか今日はあんまり楽しめなかったな」
「へぇ」
不思議そうに早苗は香澄の顔を眺めた。
20歳前後のウェイトレスが水を持って、二人のテーブルに近づいてくる。イタリアンレストランにも関わらず、明治時代の女学生風の白と紫を基調とした着物がこの店の制服になっていて、とてもかわいらしく見える。
「ご注文はお決まりですか?」
「――はい」
すでに決めていた早苗はちらりとウェイトレスを見上げた。「『蟹と海老のクリームスープパスタ』をお願いします」
そして、香澄のほうに視線を向ける。香澄はまだ難しい顔をしてメニューを睨んでいる。
「どうしようかな……」
「相変わらず決断力ないんだからぁ」
早苗はケラケラと笑った。
優柔不断な性格は昔からだ。子供の頃から両親や教師から注意されつづけてきたが、結局直ることはなかった。
「うん……それじゃあね――」
と言って香澄はメニューの一つを指差した。香澄が選んだのは『ナスとベーコンのトマトソース』だった。
「え? 香澄ってナス食べられたっけ?」
「前はダメだったけど……なんか食べてみようかなと思って」
ウェイトレスは二人の注文を受け付けると、軽く一礼してテーブルを離れていった。
「何の心境の変化?」
「そんなんじゃないわよ」
「なんか今日の香澄っていつもとちょっと違う気がする」
「そ、そうかな? どこが?」
「どこってわけじゃないけど……なんとなくね」
「変なの」
そう言って香澄はニコリと笑ってみせた。だが、その内心、香澄は早苗の言葉に妙な不安感を覚えていた。
(どうしたんだろう)
それは自分自身が何よりも感じていることだった。
この数日、自分の身体がまるで以前とは違っているような気がしている。これは食べ物に限ったことではない。テレビや小説、雑誌も含めて、興味の対象が少しずつ変化している。
――私、世の中でナスが一番好きかもしれないなぁ。変わってるでしょ?
ふと、以前、新山響子がそう言っていたことを思い出した。
やがて、ウェイトレスがパスタを運んできてテーブルの上に置いた。香澄は、以前は決して食べることの出来なかったナスの入ったパスタを綺麗に平らげた。それは自分でも不思議なほどだった。
「本当に食べられるようになったのね」
食後の紅茶を飲みながら、早苗がまるで変わった動物でも見るかのような目を香澄に向けた。
「すごい進歩でしょ?」
「大人になってから急に好みが変わるってこともあるものなのね。何がきっかけになったのかな?」
「さあ……」
それは香澄にもわからなかった。
「でも、好き嫌いが治るのはいいことよね」
「う、うん……」
香澄は曖昧に頷いた。実際には『好き嫌いが治った』というのとは違っている。確かに以前食べられなかったものが食べられるようにはなった。しかし、その反面、以前は好きだったものが食べられなくなったものもある。
これはどう理解したらいいのだろう。
「どうしたの?」
俯く香澄に対して早苗が訊いた。
「うん……ちょっとね……」
「何か悩みでもあるの?」
「悩みってわけじゃないんだけど……」
「何?」
大きな目で早苗がじっと見る。
「私……なんか最近おかしいんだ」
「おかしい?」
「なんか変な夢……見るんだ」
「どんな?」
「どんなって……夢そのものは普通の夢なんだ……ただ、夢に出てくる人、みんな知らない人たちなの。しかもその人たち、みんな私のことを『響子さん』って……」
「響子さん?」
「うん……会社の先輩」
「へぇ。香澄、その先輩に憧れてるとか?」
先日、話をした新山響子のことを早苗はすっかり忘れているようだった。
「違うわ。この前、早苗が家に来た時話したでしょ?」
「ああ……あの人……」
早苗はやっと思い出したように呟いた。「私、一度しか会ってないからよく憶えてないけど、香澄とは全然似てなかったと思うよ」
「うん……何で、そんな夢見るのかな」
「別にそんな気にすることなんてないわよ。ただの夢なんだしさ」
「……うん」
「でもさ。やっぱり香澄って前に比べて雰囲気が変わったような気がするね」
早苗がぽつりと呟いた。
「そうかな?」
「うん。でも変な意味じゃないよ。なんか綺麗になった感じするよ。ひょっとして誰か好きな人がいるとか?」
「え……」
一瞬、頭のなかに熊谷の顔が浮かぶ。あの日から毎晩のように、熊谷は香澄のマンションに訪れては身体を重ねている。早苗にそのことを見抜かれた気がして、香澄は思わず恥ずかしくなった。その表情を見て、早苗は目を輝かせた。
「やっぱりいるんだぁ。恋をすると綺麗になるって言うもんねぇ。付き合ってるの?」
「う……うん」
香澄は小さく頷いた。
「誰?」
「会社の人」
「どんな人なの?」
早苗は大きな目で香澄の顔を覗き込みながら訊いた。
「……営業企画部の部長さんなの」
「部長さん?」
早苗はピクリと眉を動かした。それが何を意味しているのかは香澄にもすぐにわかった。
「部長っていってもそんな年配ってわけじゃないのよ。まだ30半ばだし――」
「ねえ……その人って独身なの?」
遠慮がちに早苗が訊いた。
「ううん……違う。結婚してる」
それを聞いて早苗の表情が明らかに変わった。眉間に皺を寄せて、次に出す言葉を捜している。当然の反応かもしれない。香澄自身も、誰か友達が妻子ある人と付き合っていると聞けば同じことを思うだろう。
香澄は紅茶のなかのレモンをスプーンで弄びながら早苗が口を開くのを待った。
「どういうことなの?」
早苗はため息とともに言った。「それってまさか不倫ってこと?」
「……うん。でも、大丈夫だよ」
「大丈夫ってどういう意味? 相手の人は奥さんと別れるつもりなの?」
早苗が自分を心配してくれているのはわかっている。だが、その早苗の言葉は針のように心に突き刺さった。
「そういう意味じゃないけど……」
「だったら――」
「大丈夫だから」
香澄は早苗の言葉を遮った。「私もそれが良くないってことはわかってるんだ。でもね、彼と一緒にいると楽しいの。これからのことを考えるのも大切だけど、でも、それ以上に今、彼と一緒にいたいの」
「香澄……」
「ちゃんとわかってるから……大丈夫だから。ねっ」
自分のやっていることが間違っていることはちゃんとわかっている。ただ、そこから引き返せない自分がいる。
「わかった」
と早苗は小さく言った。「でも、香澄。自分自身を失っちゃだめだからね」
「うん」
「そろそろ行こうか?」
早苗はそう言って立ち上がった。いつの間にか店内は混み合って来ている。戸口にはすでに席が空くのを待っている人たちで溢れていた。
レジで勘定を済ませ、店を出ようとした瞬間、香澄の目にドア横の壁に寄りかかって順番を待っている男女のカップルが目に映った。二人とも20代前半の若者で、革ジャンを着た男のほうは髪を金色に染めている。そして、髪を赤く染め、緑のトレーナーにミニスカートを履いた女がその男の腕にしなだれかかっている。
「なんか頭痛いぃ」
女が甘えたような声で、こめかみを右手の指先で押さえながら言うのが聞こえた。中指に大きなシルバーの指輪をはめているのが見えた。
香澄は、その男の顔を見た時、鼓動が大きく高鳴り始めるのを感じた。どこかでその男を見たような記憶があった。
(誰だったろう)
こけた頬、尖った顎、わずかにつりあがった目。確かにどこかで逢っている。だが、それがどこだったかが思い出せない。
香澄の視線に気づいた男がジロリと香澄を見返す。
「何だよ」
「いえ、すいません」
香澄は慌てて視線を逸らすと、早苗の後を追って店を出た。
「どうしたの?」
早苗が振り返って訊いた。「誰か知ってる人?」
「わからない。でも、どこかで逢ったような気がするんだけど、それが思い出せなくて」
「気のせいなんじゃない? 他人の空似ってよくあるじゃないの」
「……そう……よね」
早苗の言葉に頷きながら、香澄はゆっくりと歩き出した。
それでも頭はあの男から離れなかった。どこかで逢っている、という思いが心の奥で強く湧き上がってくる。
「これからどうする?」
早苗が振り返って訊く。
「悪いんだけど……」
香澄はピタリと足を止めた。
「何?」
「用事を思い出したの」
「え?」
「ごめん、私、これで帰るから」
「ちょっと――」
驚く早苗を残し、香澄は背を向け走り出した。




