プロローグ
ジャンルを「その他」とさせていただきましたが、ちょっとSF(本格的ではない)、ちょっとファンタジー?(本格的なものではない)、ちょっとホラーっちっく(本格的なホラーではない)…という分野かと思います。
そんな気持ちでお読み下さい。
プロローグ
身体はすでに自由を失っている。
(寒い……このまま死ぬのかしら……)
薄れゆく意識のなかで、ぼんやりとそんなことを考える。
目の前に転がったシャワーノズルから噴出すお湯が頬を濡らし続けている。
さっきまで感じていた恐怖はすでに消え去っている。いや、恐怖を感じる感覚までもすっかり麻痺してしまっているのかもしれない。
今更抗ったところで仕方がない。もう身動き一つ取ることの出来ない今、ただ全てを受け入れるしかないことを私は知っている。
いずれこの身体は、冷たいただの『物』でしかなくなるのだ。
思えばつまらない一生だった。死んで、また新たな人生を踏み出せるのだとしたら、それはそれで良いことかもしれない。思い残すことはたくさんあるけれど、このまま生きていたからといってそれを実現出来るとは限らない。考えてみれば、昔から自分の望んだことを実現できたことなど、どれほどあったろう。いつも誰かに気を使い、気持ちを押し殺して生きてきた。家では両親や妹に気を使い、学校では友達の目をうかがった。非難されること、のけ者にされることが何よりも怖かった。
子供の頃、童話作家になりたいと思っていた。そんな夢を持っていたにも関わらず、周囲の反対にあうと素直に従った。普通に大学を卒業し、その後、大学で紹介された会社で事務員として働くことになった。
別段、後悔はなかった。もともと諦めることには慣れている。それに自分に大きな可能性など求めていなかったのかもしれない。それよりも人と反目することが嫌いだった。いつも目立たないようにまわりの人にあわせて生きてきた。そうすることで波風立てることなく生きることが出来た。平凡な生活、あたりまえの毎日。でも、心のなかではそんな自分が何よりも嫌いだった。もっと強く、そして、もっと自分を表に出して生きたいと、常に思いつづけていた。そうすることが出来ない惨めな日々。いつの間にか愛想笑いだけが何よりの取柄となっていた。
そんな私をあの人が変えてくれた。
「君って変わってるね」
ちょっと子供っぽい笑顔を見せながら彼は私に話しかけた。そんな言われ方をしたのは初めてだった。どこを見ればそんな見方が出来るのだろう。何の特徴もない私。それは何の取柄もないということと同じ。
驚く私に彼はさらに続けた。
「君みたいな魅力的な子って珍しいよ」
その言葉に私は頬を染めた。
私は唖然とした。それは私が子供の頃からずっと求めていた言葉。どんな誉め言葉よりも、私はその言葉を待ち焦がれていたように思えた。
(この人だけが私をわかってくれる)
運命を感じた。シンデレラや白雪姫に運命の王子がいたように、私にもまた運命の人が存在していた。
その日から世界が変わった。退屈だった毎日は、夢のような日々へと一変した。私は彼を愛し、彼も私を愛してくれた。彼の瞳のなかにいる私だけが本当の自分なのだと信じ込むことが出来た。もちろん、それは二人だけの内緒。決して誰にも話したりはしない。そんなことをすればせっかく見つけた生活が壊れてしまうことを私は知っていた。
「君はダイヤモンドの原石なんだ。原石と石ころの区別が皆には出来ないんだよ」
そう言って彼はいつもそっと私の髪を撫でた。
愛してる。愛してる。愛してる。
彼のためならどんなことでもしよう。この世界で唯一私をわかってくれる人なのだから。
彼と過ごす日々は幸せなものだった。永遠にその幸せは続くものだと思い込んでいた。でも、それは突然終わりを告げた。
彼は私のもとを離れ、そして今、私は闇のなかに身を落とそうとしている。もう私は彼には不要な存在。私が消えれば、彼は幸せになれる。
(そうこれで良かったのよ)
薄れゆく意識のなかでぼんやりと思う。所詮、私は彼なしではいられない。そして、彼は私を必要としていない。
次第に視界が闇に閉ざされていく。
(本当に? 本当にこれで良かったの?)
意識が混乱している。きっと死が近づいているから。もうすぐ私の身体は冷たくなり、考える事も感じることも出来なくなる。
彼に触れる事も、もう出来ない。
私を理解してくれた人。私を愛してくれた人。
それなのに――
(あの人に忘れられてしまうのは嫌)
私が死ねば、きっとあの人はすぐに私を忘れてしまうだろう。
それは嫌……嫌……嫌……嫌。それだけは絶対に嫌。
足音が聞こえる。
誰? そこにいるのは誰? 暗くてよく見えないの。私を置いていかないで。
お願い……私の声を……せめて私の想いをあの人に伝えて。
あの人は私だけのもの。