The rotten apple.
『こんな物、所詮死体じゃない。“奇麗”だとか何とか言い訳したって、そもそも虫だし。…気持ち悪い』
pH5.6の水滴が五月蠅く窓に打ち付ける、雷雨の夜。一時的な停電の最中、俺の部屋で“姉さん”は大事なコレクションの1つ、ベニモンアゲハの成虫を摘まみ上げた。――“潰すつもりだ”。壁中に飾られた蝶の標本は、正直家族からの評判は悪かった。
『この前。出かける時母さんに孵化した蝶を殺す様に頼んだでしょ。泣いてたわよ、“可哀想だ”って。…それでも、言う事を聞いてた。アンタが怖いから』
ぶちり、と音を立てて。胴体が圧迫され、バラバラに翅が落ちる。足が、触角が何処かに散らばって、直す事なんてもう、思いもよらなかった。ビニール袋を手袋代わりにした姉は、次の蝶を掴もうとする。
『…やめてよ。ねぇ』
他の誰かが同じ事をしたなら、きっと俺は怒り狂って殴りかかっていただろう。だが。どうしても、この人だけは傷つけられない。俺と全く同じ遺伝子を受け継いでいる筈なのに、どうしてこんなに強く、美しくセイチョウしたのだろう?多分、母の子宮にあった周りを惹きつける才能を、全部掻っ攫って生れてきたのに違いない。俺は姉の事を、“紗也”の事を酷く妬み嫉みながら、堪らなく愛していた。
――その日。家族3人が長野にスキー観光に出ていたが、俺は1人自宅でギフチョウの蛹の孵化を観察していた。珍しく地元にも、雪が降っていた。時間が経つ感覚も麻痺する程、俺はピクリともせずただ虫かごを眺めていた。
――『はい?もう一度聞いてもいいですか』ありきたりなコミュ障だった俺の日常は、繰り返し掛かってきた電話に、引き裂かれる様に唐突に終わった。『死んだ?…嗚呼、“1人だけ生き残っている”。それさえ分かれば十分です。ご苦労様です』
「“そうして、彼らはずっと幸せに暮らしましたとさ”。――どうだった、沙也。この童話、いい話だろう?」
「…うん。でも私はこの間の“100万回生きた猫”の方が好きかな。ねぇ、啓太。お腹空いた」
車椅子に座る、欲しくて堪らなかった姉は、上半身は何も変わら無い様に“見える”。3か月前、合法ドラッグを極めた暴走車が雪道でスリップし、俺の家族を轢き殺した。両親は体を2、3個のパーツに解体されてしまったが。沙也は奇跡的に外傷は右足切断だけで済んだ。こんな時にまで、幸運な人間とは祝福を与えられるのか。そんな妙な感心すらした。…おまけに。“沙也は、両親を亡くした悲しみすら味わう事は無い”。
「だったら、昨日のスープの余りがあるから。温めてくるよ」
「じゃあ、前見せてくれたアレを貸して。…凄くキラキラしてて、綺麗なの」
僕は買い直したばかりの絵本を床に置き、そして、沙也の目の前のデスクに手直にあった標本ケースを置く。今の彼女はこれがお気に入りだ。頭を痛打。記憶喪失。知能レベルは幼児まで退行(だから子供と同じ感覚で、昆虫を好むのかもしれない)。――自分では歩く事も、平仮名を読む事も、四則演算も出来なくなった沙也は、以前と同じ家で僕だけを見て暮らしている。ヘルパー派遣の案内は断った。大学は休学。義足も一番安い物を作成したが、物置に放りこんで手入れもしていない。電子レンジの耐熱皿がくるくる回る。タッパから皿に移してラップをかけた、スープの良い匂いが鼻孔を擽る。ちん、と音が鳴れば取り出して、熱すぎて沙也が火傷しないかをスプーンで掬って確かめた。
「美味しいかい?」
「沙也が俺と結婚してくれれば、毎日コレを作ってあげる。シチューでも、煮付けでも。――好きなモノを好きなだけ食べさせてあげるから、ね?」
一口一口、掬い食べさせていく。どんどん、どんどん。“姉”を自分の物にしていく実感が、堪らなく俺を幸福にさせた。昔から、美しい物が好きだった。そして、蝶以上の代物は沙也しか無いと信じていた。
――ぱん、ぱん。また部屋の片隅でラップ音が響き始める。…残念ながら、俺の中でもう生物学上の親なんて、もう終わった存在なのに。“マメなもんだ”と鼻で笑った。
――“沙也を返せ”。先刻のシンデレラの表紙に、油性マーカーで書き殴ったような字が浮かび上がっていく。内心で舌を出した。“絶対に嫌だね”。
The rotten apple.
2014/10/12




