君の温もりに右手を握る
久しぶりに短編を。連載の方を早く書けよ…って感じなんですがね。
舞台は現代の日本に似た別の世界と設定しています。
あらすじにも書かせていただきましたが、売春婦とそれを買う男が登場人物です。行為の一部始終を書いているわけではありませんが、そういう行為をする表現を使っています。苦手な人や、15歳以下の方は申し訳ありませんが、ご遠慮ください。
では、よろしくおねがいします。
むしゃくしゃしていた、とでも言えばいいのだろうか。別段嫌なことがあったわけでもないのに、俺はどこに行くでもなくふらついていた。
所持金はコートのポケットに札が二、三枚。同じく突っ込んだ右手に擦れて、時々かさりと鳴っている。喧騒はいつの間にか、耳に入り込む風の音に変わっていた。それに気づくと何故かポケットの札が、大層な金になったように感じた。薄くて軽いそれを、とっさに右手で握った。
「兄ちゃん、いるかい?」
「うぉ!?」
俯いた顔の前に、いきなり影が飛び出した。驚いてそれを凝視すると、それは一輪の花だった。
「えっと、たんぽぽ・・・?」
ひどく萎びたたんぽぽだった。茎は折れ曲がり、葉はない。花びらも所々抜けて、相当踏まれた後なのだろう。あの黄色がなければ、一瞬でたんぽぽだと答えられなかったのじゃないだろうか。
そんな俺の隣から、少し不機嫌そうな女の声がした。
「あん?何も知らねぇで、ここに入ってきたんじゃねぇんだろう?」
煤けた頬の少女に見えた。冬も近いのに、彼女の服は薄手のワンピース。破れた個所もあり、とてもじゃないが綺麗な格好ではなかった。しかし、露出された肩や胸、赤い唇の具合は、そういった類の女の香りを纏っていた。
「もしかして・・・」
「ここで声かけてんだからよ、花売ってんだ。当たり前だろ。ここいらじゃ一番若いよ?買うかい?」
「いや、えっと・・・」
ふらふらと辿りついたのは、どうやら貧困街の花を売る女たちの住処だったらしい。握っていた右手の中から、音がした。かさり。
「・・・まいど」
少女の手によって手折られたたんぽぽは、少女の笑みと共に―――捨てられた。
「兄ちゃん上手いね」
「そ、そうか?」
「あぁ。今月取った客の中でも、三番目くらいに上手かったよ」
「そ、そうか・・・」
少女の名前は、スィ。酒焼けでもしているのだろうか、少しばかり声が枯れている。
若いと思った。初めてその姿を見た時も、そしてこうして体を重ねた後も。言葉も、振る舞いもとても若く、この寂れた街の小さな部屋の中でさえ、自由奔放な少女が隠れない。しかし、なかなかどうして、男の喜ばせ方に長けた『女』だった。その体の緊縮も、滑らかな肌も、嗄れ声の嬌声は意外と腰に―――・・・いやいや、やめておこう。とにかくスィは、少女の面と女の体を持っているのだ。
スィに年齢を聞くと、多分十五か十六くらいだと答えた。生まれてすぐくらいに捨てられ、いつの間にかここに住みついていたらしく、正確な年齢もいつの間にか忘れてしまったのだそうだ。とはいえ、やはり若い。兄ちゃんは?と逆に聞かれたので、二十九だと正直に答えた。
「あたいより、えっと・・・十六、十七、十八、十九―――・・・十四も年上かぁ!」
スィには教養がないらしい。まぁ、こんなところでは当たり前か。指折りでも数を数えられるだけましだ、と考えるべきなのだろうか。俺がそんな風に考えているのがわかったのか、スィはむくれて言った。
「金の計算なら、早いんだ」
また、反応のしづらいことを・・・。
どうにも返事が出来ず、ふと思ったことを聞いてみた。
「スィはここから出たいと思わないのかい?」
「出る?ここから?」
スィはいまいちわかっていないらしく、怪訝な顔で首を傾げた。恐らく彼女は、ここしか知らないのだ。貧困街という内側しか。
「『お外』だよ『お外』。『外の世界』に興味はないのかい?」
そう聞くと、スィは途端に思案顔になり、云々とうなった。やがて合点がいったとばかりにあぁ、と小さく呟いた。
「客が帰っていくところだ。皆あたいを抱いたら、そこに帰るって言って行っちまうよ」
呆気にとられる俺に、違うのかい?スィはまた首を傾げた。
「いや、違うってわけじゃないんだ。ただ、そうだな・・・ここじゃないどこかに行くの。嫌?」
「嫌って言われてもねぇ・・・あたいはここしか知らねぇからさ」
今一つ、ピンときていないようだった。仕方ないことだろうとは思う。だからなのかはわからない。でも、もう少し話がしたかった。
「変わりたくはないのか?」
「変わるぅ?兄ちゃん、あたいは難しい話は出来ないよ」
「難しくない、難しくない。他のこと、したくないかってこと」
「あん?次は兄ちゃんの上に乗れってか?」
「ち、違う!」
本当に理解していなかった。まさか、そんなとんでもない答えが返ってくるとは毛ほども思っていなかった。何か、具体例があればいいのだろうか。例えば・・・
「・・・大人になりたいと思ったことはないのかい?」
「大人ってなんだい?」
「大人ってのは・・・あれ、そう言われると難しいなぁ」
「じゃあ駄目だ駄目だ。あたいにゃ大人は無理だね。あたいってば難しいことはてんで苦手なんだ」
スィは呆れたように軽く手首を振った。けれど、すぐ照れたようにへへっと笑う。
「でもいつまでもここにいるわけにもいかないだろう?」
「どうして?」
「どうしてって・・・」
「ここを出ると何かもらえるのかい?」
「そういうわけじゃないが・・・」
「じゃあどこも一緒さ。ここも、あんたの言う『お外』ってとこも。あたいにゃどこも一緒」
「一緒だってんなら、出てみればいい。『お外』にさ」
「んにゃ、一緒ってこたぁ変わらねぇってことさ。だったら、ここも『お外』ってことだろ?」
「いや、まぁそう言われると・・・そんな気もしてくるが」
別にそんな気はないのに、どうしてだろうか。俺はまるでスィをここから出してやりたいような気分になった。きっと、気に入ったのだ。この少女を。だから、一緒に出ようかという気にもなるのだろう。
どうも口説けないスィは、すごいことを思い出したとでも言うように、顔を勢いよく俺に近づけた。
「あれだよあれ!んーと、なんだったけな。・・・あ、『=(イコール)』だよ『=』!難しい言葉知ってんだろ?こないだ取った客がよ、寂しさと愛おしさは=(イコール)なのさ、なんて言ってたよ。それで覚えてたんだ」
どうだ、とスィは自慢げだ。
「なんかそういうのを気障っていうのかな・・・俺にはわからないけど」
「さぁねぇ。あたいにゃ関係ないよ」
「その客はまた?」
「ん?んー、そういやこないだ飛ばされてきた黄色のちらしにでっかく顔が貼っ付けてあったよ。・・・あたい文字は得意じゃねぇからさ」
「そうかい」
得意不得意ではなく、本当に読めないんだろう。この調子じゃ、黄色のちらしが指名手配犯を示していることも、知らないのだろうな。
それにしても、スィはそういう犯罪に関与するような奴でもお構いなしに、自分を売っているんだなと今更ながらに当たり前のことを思った。そして、その感情がスィを蔑んでいるに等しいことだと、俺は一人静かに自分を恥じたのだ。
ふと、部屋のひび割れから、隙間風が肌を刺した。腕をさするが、あまり効果がない。
「なんか、薄ら寒くなってきたな」
「そりゃ冬が近いからさ。当たり前だろ?」
「防寒できるものはないのかい?」
「ぼーかん?」
「あー・・・暖かいもの、えっと毛布とか」
「あぁ。そんなもんがここにあったらよ、人間が四、五人は死んでらぁ」
そうか。ここではそんなものでも、争いの対象になってしまうのか。想像していたよりもこの世界は、酷く荒れている。
「君も、そんなものがあったら奪いたいと思うのかい?」
「いらねぇよそんなもん」
当然の如く、奪うと言うものだと思っていた。けれど予想に反して、スィはそれをすぐに否定した。
「なぜ?」
「暖かくなっちまったら、客がこねぇだろう」
「なんでそう思う」
「あたいの体で暖まんなくてもよくなるからさ」
「・・・」
言っている意味が、俺にはよくわからなかった。いや、何となくわかってはいる。だが、この少女がそんな感傷的な表現をするとは、思っていなかったのだ。
すると、スィは俺から目を逸らし、壁と天井の角の辺りを見つめた。
「寒いときによ、何より暖かいものは人の肌なんだって、よく客が言うんだ。あ、一人じゃねーよ?いろんなやつがさ。だからあたいの仕事はさ、暖めてやることなんさ」
一つ一つ、覚えていることの全てを思い出しているようだった。スィの記憶に残る、大勢の男たちが、彼女に感じていった全て。感じさせてくれた全て。遥か遠い過去を辿る瞳を、こちらに向けたくて俺はスィを抱きしめた。
「・・・じゃあ、俺も温めてくれるのかい?」
「ん?はは、金を払えば皆客さ。客ってこたぁ、あたいは仕事しなきゃぁな」
丸い瞳を緩めて、スィは俺に向き合った。
こういっては下世話だが、俺はスィに一回分の料金しか払っていない。というか、ポケットの全財産を一回分として支払い切ってしまったのだ。それをスィに伝えると、
「いいさ。サービスってやつだよ。兄ちゃんは、あたいの話をちゃんと聞いてくれた。あたいを、『お外』に誘ってくれた。だから、特別さ」
スィは俺の唇を指でなぞり、女の顔で特別だと俺を誘う。単純にも俺は、それに煽られて体を火照らせてしまうのだ。
『女』の体を押し倒そうと手を伸ばすと、急に『少女』が微笑んだ。
「兄ちゃん。兄ちゃんはすごいや」
「え?」
唐突に褒められて、俺は伸ばしかけた腕を思わず引っ込めた。
「兄ちゃん、あたい今ね?ここがすごくぽかぽかして暖かいんだ。あたいのここが、お日様みたいだよ」
そういってスィは自分の胸に、両手を静かに当てた。俯き加減にまつ毛を震わせるその姿は、圧倒的な魅力を俺に放っていた。
彼女の感じている温かさはなんだろうか。愛情だろうか。喜悦だろうか。
彼女の温かさはどこで感じているのだろうか。胸だろうか。心臓だろうか。・・・『心』、だろうか。
「ねぇ、兄ちゃん」
見とれる俺に、今までになく―今日のスィしか俺は知らないが―ゆっくりと話しかけた。
「あたい、兄ちゃんに買ってもらって幸せだ」
その笑みは、満開の『花』だった――――――。
「じゃあね、兄ちゃん」
「あぁ、今日はありがとうな」
俺の言葉には、スィは小さく笑んだだけで答えてはくれなかった。代わりに、細い人差し指で、俺の右手の甲を突いて離れた。たったそれだけのことだが、とても満足していた。
俺は別れを惜しむことなく、コートを羽織って貧困街を後にした。スィの視線もまた、すぐに逸れてなくなった。再び、一人歩きが始まる。だが、足取りは軽かった。
風が変わり、喧騒が耳を撫でていく。あの貧困街が嘘のように、ここは明るい。けれど俺は俯き、コートのボタンを上まできっちり留めて、両手をポケットに突っ込んで、明るい大通りを真っ直ぐ歩いた。スィにもらった温もりを、一秒でも長く。せめて、家に着くまでは冷めなければいいと、熱い右手の甲を強く握った。
「あ」
電車待ちの踏切で、突風にあおられるたんぽぽを見つけた。なに、何の変哲もないたんぽぽだ。だけど、自然と笑ってしまうのは許してくれ。
あれからもう何日だろう。さすがに、もう蕩けるような熱さは消えてしまった。でも目を閉じれば、半日もなかったあの時間が蘇る。同時にあの熱さも蘇ってはくれないかと右手を握りしめても、それは叶いそうにない。
今も変わらずあの小さな部屋で、少女の面した女の体を売っているのだろうから、そうだなぁ・・・寂しくなったら、愛おしいあの子に会いに行こうか。
「兄ちゃん、いるかい?―――――――――」
いかがでしたか?もっとスィの持つ少女と女の間を表現したかった…!
貧困街の売春婦、という設定の割に暗さを感じさせない作品になっていると思いますが、スィが暗くないだけなのです。実際には犯罪の温床であり、花街であり、とても暗い場所です。スィは貧困街しか知らないし、物心つく前から花売りですから、心暗いものがないのでしょう。しかし、その暗さしか知らないことが、スィの一番暗い部分です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。