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「婚約破棄代行人」の私ですが、今回の依頼人は未来で世界を滅ぼす魔王でした

作者: カルラ
掲載日:2026/05/19

依頼人が事務所の扉を開けたのは、秋雨の降りしきる午後のことだった。

私——ノア・フィールディングは書類の山に埋もれながら、羽根ペンを走らせていた。

先月片付けた案件の請求書がまだ三件残っていて、これが終わらないと今月の家賃が危ない。

貴族というのは概して支払いが遅い。

なぜ金を持っている側が払いを渋るのか、私には永遠に理解できない気がする。

 

「失礼します」

 

低い声だった。

顔を上げると、黒髪の青年が扉の前に立っている。

年の頃は二十前後だろうか。

整った顔立ちをしているのに、表情というものがほとんどない。

濡れた外套から雨の滴が床に落ちているのに、それを気にする様子もなかった。

私は羽根ペンを置いた。

職業柄、人を見る癖がある。

靴の質は良い。

外套の縫い目は細かい。

平民ではないが、貴族にしては飾り気がなさすぎる。

 

「予約は?」

 

「ない」

 

「では初回相談料として、銀貨二枚いただきますが」

 

青年は迷わず懐へ手を入れ、銀貨を二枚、テーブルの上に置いた。

即座だった。

私はそれを手元に引き寄せながら、向かいの椅子を示す。

 

「どうぞ」

 

依頼人の話を聞くのが私の仕事だ。

相手がどんな事情を抱えていようと、まず耳を傾ける。

それが『婚約破棄代行人』というこの奇妙な職業の、最初の一手である。

婚約破棄代行人というのはその名の通り、貴族社会における婚約問題を専門に扱う仕事だ。

浮気の証拠を集めることもあれば、契約書の不備を突くこともある。

示談交渉もするし、社交界での立ち回りを助言することもある。

要するに「別れたいけど揉めたくない」という人々の駆け込み寺で、私はその寺守というわけだ。

平民出身の私がなぜこんな仕事をしているのかとよく聞かれるが、答えは簡単である。

頭が回って口が達者で、かつ体力がないという人間に向いた仕事が、世の中にそう多くはないのだ。

 

「婚約を、破棄したい」

 

青年が言った。

声に抑揚がない。

 

「お名前は?」

 

「ルーク」

 

苗字はなかった。

貴族なら必ず苗字を名乗るはずだが、それも特に気にしないことにした。

偽名や匿名の依頼人は珍しくない。

 

「婚約相手の方は?」

 

「公爵令嬢だ」

 

「ずいぶんと格差のある縁組ですね」

 

「……そうだな」

 

どこか遠いところを見ているような目だった。

私はペンを取り、羊皮紙に走り書きをしながら、次の質問へ移る。

 

「破棄の理由は?」

 

少し間があった。

窓を打つ雨音だけが部屋に満ちる。

 

「……彼女を、巻き込みたくない」

 

私の手が止まった。

(重い案件だこれ)

直感というのは馬鹿にできない。

この仕事を三年やっていると、依頼の第一声でだいたいの重さが分かるようになってくる。

「浮気された」なら軽め。

「家が反対している」なら中程度。

「巻き込みたくない」は、たいてい何かとんでもないものが背景にある。

 

「もう少し詳しく聞かせていただけますか。なお追加の情報提供が必要な場合は、相談延長料が発生しますが」

 

「分かった」

 

「……即答なんですね」

 

金払いのいい依頼人は基本的に好きだ。

問題の重さとは、また別の話として。

私は改めて姿勢を正し、ルークという青年を観察した。

外套の下の体格は悪くない。

むしろ鍛えられている。

だが今、彼の左手はテーブルの下でわずかに震えていた。

怯えている。

これは不安ではなく、本物の恐怖だ。

 

「婚約者の方の評判を事前に調べさせていただく必要があります。公爵家のご令嬢とのことですが、お名前は?」

 

「エリシア・ヴァルモン」

 

聞いたことがある名前だった。

ヴァルモン公爵家のご令嬢といえば、社交界では評判の良いことで知られている。

賢く、品があり、慈善活動にも熱心。

非の打ち所がないと専らの評だ。

(なのになぜ、彼はこんなに怯えているのだろう)

婚約を破棄したい依頼人が怯えるのは、大抵は破棄後の報復や社会的失墜を恐れるからだ。

だがルークの視線は婚約者の方を向いていない。

もっと遠く、どこか別の方角を向いている。

 

「今日のところはここまでにします。明日から調査を開始しますので、改めてご連絡を」

 

「分かった」

 

立ち上がりかけたルークが、ふと足を止めた。

 

「……あんたは、私を変人だと思うか?」

 

「変人の依頼人は珍しくないので」

 

「そうか」

 

彼の口元が、ほんのわずかに動いた。

笑いとも呼べないような、かすかな変化だったが。

扉が閉まると、私はしばらく天井を眺めた。

雨音が続いている。

(公爵令嬢を婚約者に持つ青年が、評判の完璧な相手から逃げるように別れを望む)

(しかも理由は「巻き込みたくない」)

(怯えの向きが、婚約者ではなく別の何かを指している)

ペンを手に取り、羊皮紙に一行書いた。

『要注意案件。調査優先度:高』

それから追記する。

『追加料金の可能性:非常に高』

翌日から調査を始めた。

エリシア・ヴァルモンについては、公爵家への聞き込みと社交界の情報網を使う。

ヴァルモン家は王都の北、由緒ある大貴族だ。

令嬢についての評判は、予想通りだった。

慈愛に満ちている。

知性的で温和。

使用人への態度も丁寧で、家中の者から慕われている。

 

「完璧すぎる」

 

自室でノートを広げながら、私は呟いた。

人間というのはどこかに欠点があるものだ。

それが見えないとなると、情報が足りないか、あるいは意図的に隠されているかのどちらかになる。

そして一方で、気になる話が耳に入り始めた。

最初は些細な噂だった。

最近、王都の周辺で魔物の目撃件数が増えているという話。

次に、辺境の村ひとつが原因不明で消失したという話。

最後に、黒い炎の目撃情報。

ひとつひとつは繋がらない。

だが私の中で、何かが引っかかっている。

三日目に、ルークと進捗報告の場を設けた。

 

「エリシア様の評判に問題は見当たりません。婚約破棄の名目として使える明確な落ち度もない。このままでは正式な破棄手続きが取りにくい状況です」

 

「……そうか」

 

ルークは相変わらず表情がない。

だが今日は左手だけでなく、右の指先まで微かに震えていた。

 

「ルークさん、一つ確認させてください」

 

「何だ」

 

「破棄の理由は本当に『巻き込みたくない』だけですか。あなた自身は、エリシア様のことをどう思っているんです?」

 

ルークが口をつぐんだ。

沈黙が長い。

 

「……好きだ」

 

声が低かった。

 

「なら話が変わってきますね」

 

「変わらない。好きだからこそ離れなければならない。彼女の近くにいると、危険なんだ」

 

「その危険というのは、具体的に何ですか」

 

また沈黙。

今度はより長い。

 

「……近くにいる人間から、死んでいく」

 

私は羽根ペンを止めた。

その言葉が、事務所の空気の中にゆっくりと沈んでいく。

表情を変えないように努力しながら、ペンを置いた。

プロとして、依頼人の発言には動じないようにしている。

してはいるのだが。

 

「それは比喩ですか。それとも文字通りですか」

 

「文字通りだ」

 

「……なるほど」

 

なるほどという言葉が出てきたのは、ほとんど反射だった。

実際には全くなるほどではない。

どういう状況なのかまったく整理できていないが、今ここで「意味が分かりません」と言うのも業務上よろしくない。

私は腕を組んで、相手の顔を正面から見た。

ルークは目を逸らさない。

ただ静かに、こちらを見返している。

 

「もう少し詳しくお聞きしてもよいですか。追加料金になりますが」

 

「分かった」

 

「……こういう場面でも即答なんですか」

 

「金で解決できるなら安いものだ」

 

彼の声音が、わずかに変わった気がした。

諦めとも取れるし、覚悟とも取れる。

金で解決できるなら安い——その言葉の裏に、金では解決できないものが山積みになっているのが透けて見えた。

 

「ルークさん、左腕に何かありますか?」

 

不意に私はそう聞いていた。

ルークの目が細まった。

 

「……何故そう思う」

 

「左腕を、無意識に隠していらっしゃるので」

 

ここ三日で三度会っているが、毎回ルークは左腕を袖で隠している。

今日も長袖で、かつ袖口を指でつまんで下に引っ張る癖がある。

これは体感温度の問題ではない。

雨上がりで、今日は少し蒸し暑いくらいだ。

ルークは答えなかった。

 

「個人的な好奇心ではなく、業務上の確認です。依頼人の状況を正確に把握しなければ、適切な手続きが取れません」

 

「……業務上か」

 

「はい」

 

長い沈黙の後、ルークはゆっくりと左の袖をまくった。

前腕の内側に、それはあった。

黒い紋章。

まるで皮膚の下から滲み出るような、深い黒。

形は複雑で、見ているだけで少し目眩がするような文様だった。

私の背筋が、すうっと冷えた。

(これは……)

見覚えがある。

いや、正確には、読んだことがある。

平民が貴族の古文書を閲覧する機会など普通はないのだが、この仕事を始めた頃に貴族家の遺産整理を手伝った縁で、とある書庫への出入りを許可されていた時期があった。

その時に読んだ一冊の古文書。

ほとんど伝説の類だと思って半分読み流していたのだが。

(魔王刻印……)

未来で世界を滅ぼす存在に現れるという、呪いの印。

古文書にはそう書かれていた。

 

「……顔色が変わっている」

 

ルークが静かに言った。

 

「プロとして、依頼人の前では表情を管理すべきでした。申し訳ありません」

 

「謝らなくていい。私がこの印を見せた相手はだいたいそういう顔をする」

 

「……慣れているんですか」

 

「ある程度は」

 

あっさりと言うから、余計に胸が痛い。

私は深く息を吸って、改めてルークを見た。

蒼白な顔。

静かな目。

左腕の黒い紋章。

そして、近くにいる人間から死んでいくという言葉。

 

「確認させてください。この紋章を、抑えようとしているんですか」

 

「……ずっと」

 

「いつから?」

 

「二年前から。突然現れた」

 

「その間、誰かが亡くなりましたか」

 

またルークが目を伏せた。

今度は答えが来るまで時間がかかった。

 

「……三人」

 

私は何も言えなかった。

ただ羊皮紙の上で、ペンを持ったまま止まっていた。

(魔王刻印を持ちながら、それを必死に抑えている)

(婚約者を守るために、自分から離れようとしている)

普通の婚約破棄案件なら、ここまで調べた段階で手続きに入る。

証拠書類を揃えて、双方の合意を取り付けて、貴族院への届け出を行う。

定型業務だ。

でも今回はどう考えても、定型ではない。

 

「……あなた、まだ人間ですね」

 

気がついたら、私はそう口にしていた。

ルークが顔を上げる。

 

「どういう意味だ」

 

「もし本当に暴走していたら、こうして私と話せていない。今この瞬間も、あなたは抑えている」

 

ルークは答えなかった。

でも、その沈黙の中に何かがあった。

 

「なお」

 

と私は言った。

 

「特級危険案件と判断しましたので、追加料金になりますが」

 

ルークがわずかに目を見開いた。

次の瞬間、彼は静かに言った。

 

「分かった」

 

「……こういう場面でも即答なんですか」

 

これが私とルークという青年の、最初の本当の意味での会話だったと思う。

 

翌日、エリシア・ヴァルモンと面会の機会を設けた。

ルークの意向を確認した上で、「第三者の立場で婚約の状況を整理したい」という名目で申し込んだ。

ヴァルモン家の紹介状を持つ知人のつてを使えば、それほど難しくはない。

このあたりの人脈の広げ方は、この仕事を続けているうちに自然と身についてくる。

面会室に通されると、エリシア・ヴァルモンはすでに着席していた。

淡い金色の髪。

柔らかな目元。

見ているだけで穏やかな気持ちになるような、そういう種類の美しさを持つ人だった。

ただ、目に意志の強さがある。

 

「ノア・フィールディングと申します。婚約破棄の代行を専門に扱っております」

 

「存じています」

 

エリシアは穏やかに言った。

 

「ルークから婚約破棄の依頼を受けたとのこと、ですね」

 

「……どこから」

 

「彼から直接聞きました」

 

私は少し面食らった。

依頼人が婚約相手に直接話したということは、エリシアはすでに状況を把握しているということだ。

 

「婚約破棄について、エリシア様のお考えをお聞かせいただけますか」

 

「嫌です」

 

即答だった。

 

「……即答ですか」

 

「ルークが何を言おうと、私は別れません」

 

エリシアの声は穏やかだが、そこに一切の揺れがない。

柔らかい声質で、しかし中身は鋼でできているような話し方だった。

 

「エリシア様、ルークさんが抱えている事情については……」

 

「知っています。刻印のことも、魔物のことも、辺境村のことも」

 

私は言葉に詰まった。

全部知った上で、それでも嫌と言っているのか。

 

「危険です」

 

「分かっています」

 

「ルークさん本人が、あなたを守りたいからこそ別れを望んでいる」

 

「それも分かっています」

 

「では——」

 

「ノア・フィールディングさん」

 

エリシアが私の言葉を、静かに遮った。

 

「貴女のお仕事は、依頼人の婚約破棄を成立させることですか?」

 

「……そうです」

 

「では残念ながら、今回のお仕事は達成できません。私が同意しない限り、一方的な破棄は成立しませんから」

 

これは正論だった。

婚約は双方合意の契約である。

一方が強行した場合は違約扱いとなり、却って依頼人に不利になる。

 

「……なかなか手強い相手ですね」

 

思わず本音が出た。

エリシアは、初めてほんの少し表情を崩した。

 

「ありがとうございます」

 

「褒めていません」

 

「分かっています」

 

この人も即答だった。

なんとなく、ルークと同じ種類の強さがある人だと気づく。

どちらも覚悟の据わり方が、並大抵ではない。

私は帰り道、ひとりごとを言いながら歩いた。

 

「依頼人は別れたい。婚約者は別れたくない。でも依頼を遂行したら依頼人が危険で、遂行しなくても依頼人が危険……」

 

足を止めて、空を見上げる。

曇り空だった。

 

「なんで私、こんな仕事してるんだろう」


 


翌朝、事務所に戻ると扉の前に人影が二つあった。

黒い外套。

腰に剣。

どちらも表情がなく、立ち方が軍人のそれだ。

私は足を止めた。

(嫌な予感がする)

嫌な予感というのは大抵当たる。

この仕事をしていると特にそうだ。


 


「ノア・フィールディング殿ですね」


 


「そうですが」


 


「王国内務省の者です。少しお話を伺いたい」


 


内務省。

国王直轄の情報管理機関。

普通の婚約破棄代行人が関わるような組織ではない。

私は笑顔を作った。

笑顔というのは武器だ。

感情を隠すのに最適な仮面でもある。


 


「どのようなご用件でしょうか」


 


「依頼人についてです。ルークという青年が貴女の事務所を訪ねたかと思いますが」


 


「守秘義務がありますので、依頼人に関する情報は一切お答えできません」


 


「これは命令です、お願いではない」


 


「それは存じておりますが、命令であっても守秘義務は守秘義務ですので」


 


二人が顔を見合わせた。

私は扉の鍵を取り出す。


 


「もし法的な根拠をお持ちであれば、書面でご提出ください。顧問弁護士を通じて対応いたします」


 


「フィールディング殿——」


 


「本日は先約がありますので、これで失礼します。良い一日を」


 


扉を開けて中に入り、鍵をかけた。

背中に二人分の視線を感じながら、私は事務机に向かい、羊皮紙を広げた。

手が少し震えている。

震えているのに気づかないふりをして、ペンを取った。

内務省が動いている。

つまり王国の上層部は、ルークのことを知っている。

魔王刻印のことを。

そして彼らの目的は調査ではない——もしそうなら、まず私には接触しない。

私に接触してきたということは、ルークの居場所を掴もうとしている。


 


(依頼人の情報を引き渡せ、ということだ)


 


私は羊皮紙に書いた。

『至急:ルーク殿に連絡。会合場所変更のこと』


それから少し考えて、もう一行追加した。

『追加料金について要協議』


連絡役を使って伝言を届け、夕方に王都外れの古い教会跡で落ち合う手はずを整えた。

廃教会は、こういう時に使う場所のひとつだ。

依頼人との秘密面会に向いた場所を、事前にいくつか押さえておくのは基本中の基本である。


 


「……状況が変わった」


 


向かい合って座ると、私は単刀直入に切り出した。

ルークは無言で続きを待つ。


 


「内務省が動いています。あなたの情報を求めてきた。私は断りましたが、今後も同じ手が通じる保証はない」


 


「……やはり動いたか」


 


「知っていたんですか」


 


「気配はあった」


 


ルークは視線を床に落とした。


 


「王国には未来視の能力者がいる。以前からそう聞いていた。私のことも、既に知っているだろうと思っていた」


 


「未来視の能力者」


 


「ああ。おそらくその者の視た未来に、私が魔王になる場面があった。だから王国は——」


 


「始末しようとしている」


 


私が続けると、ルークは静かに頷いた。

暗い教会跡に、夕暮れの光が斜めに差し込んでいる。

柱の陰にルークの影が長く伸びて、その先が壁に当たって折れていた。


 


「つまり婚約破棄どころではなかったわけですね、最初から」


 


「……依頼を返すなら今でも構わない」


 


「返しません」


 


私は即座に言っていた。

自分でも少し驚いた。

ルークも少し驚いたような顔をした——表情の少ない彼が、それでも微かに目を見開いた。


 


「なぜだ」


 


「守秘義務がありますし、それに」


 


私は羊皮紙を一枚取り出した。


 


「依頼料を受け取った以上は、正当な理由なく依頼を放棄できません。これは契約です」


 


「……それだけか」


 


「業務上の理由です」


 


そう言いながら、少し視線を逸らした。

業務上の理由だけではないのは自分でも分かっていたが、それを今ここで口にするのは何か違う気がした。


 


「では逃げるか」


 


ルークが淡々と言った。


 


「逃げましょう」


 


私も淡々と返した。

こうして私の業務は、婚約破棄の手続きから突如として国家追跡の回避へと移行した。

婚約破棄代行人として、想定した業務範囲を完全に超えている。

超えているが、請求書には書ける。

特別対応料金という項目で。


 


エリシアには、私からではなくルークが直接連絡を取った。

三人で合流したのは翌日の夜明け前だった。


 


「来なくていいと言ったはずだが」


 


「言いましたね。でも来ました」


 


エリシアはごく穏やかにそう言って、荷物を持ったまま立っていた。

旅装束だが、品がある。

ルークが何か言おうとして、口を閉じた。

こういう時の彼は、押し切られると分かると黙るらしい。


 


「ノアさん、方針は」


 


エリシアが私に向いた。

さらっと名前で呼ばれた。

まだ二度しか会っていないのだが、こういうところが彼女の強さだと思う。

距離の縮め方が自然で、警戒させない。


 


「まず王国が持っている情報の出所を確認したい。未来視の能力者が誰か、どこまで見えているのかを把握しないと、こちらの手が打てません」


 


「あてはあるか」


 


ルークが聞いた。


 


「一人、心当たりがいます」


 


王都の外れに、私が長年情報を買っている人物がいた。

名前はヴィクター。

元々は貴族家の書記官で、今は引退して古書の売買を副業にしながら暮らしている。

王国の裏事情に明るく、守秘義務の概念を持ち、金払いがよければ情報を売る。

私と同種の人間だと思っている。


 


「ただし」


 


と私は付け加えた。


 


「三人でぞろぞろ動くのは目立ちます。私が一人で行きます。二人は市場の近くで待っていてください」


 


「一人で大丈夫か」


 


ルークが聞いた。

心配しているような聞き方で、少し意外だった。


 


「体力はありませんが、口はあります」


 


「それは分かった」


 


「では問題ありません」


 


ヴィクターの隠れ家は、古書店の裏手にある小さな部屋だ。

私が顔を出すと、白髪交じりの老人は眼鏡の奥でじろりと私を見た。


 


「また面倒事の顔をしてるな」


 


「面倒事でないことはほとんどないので」


 


「まあ入れ」


 


ランプの灯りだけの狭い部屋に通された。

積み上げた書物の隙間に椅子が二脚あって、向かい合って座る。


 


「王国内務省が動いている。未来視の能力者が王国上層部に情報を流しているようです。その能力者が誰か分かりますか」


 


ヴィクターは少し黙った。

指を組んで、考えるような顔をする。


 


「金は?」


 


「金貨五枚」


 


「十枚だな、その話なら」


 


「七枚で」


 


「八枚」


 


「分かりました、八枚で」


 


値段交渉はさっさと終わらせる。

相手が出してきた数字の半分から入って落としどころを探るのが基本だが、今回は時間が惜しい。


 


「王宮付きの占星術師、ダレン・クロスという男だ」


 


ヴィクターは言った。


 


「未来視というより、正確には確率予測に近い能力を持っている。ある事象が起きる確率を数値で弾き出す。完全な未来視ではない」


 


「確率、ですか」


 


「そうだ。だから百パーセントではない。八十から九十パーセントの確率で、その青年は将来的に魔王化すると王国に報告を上げている」


 


私はその数字を頭の中で転がした。

八十から九十パーセント。

高い確率だ。

しかし百ではない。


 


「残りの十から二十パーセントの場合は?」


 


「魔王化しない。何らかの条件次第で、分岐する」


 


「その条件は」


 


「そこまでは把握していないが——」


 


ヴィクターが少し口を止めた。


 


「一つ言えるのは、過去に魔王化した記録を見ると、全員に共通した状況がある」


 


「何ですか」


 


「孤立だ。誰にも繋ぎ止められなくなった時に、最終的な暴走が起きている」


 


私は椅子の背にもたれた。

古い木が軋む音がした。

(孤独。ルークが魔王化する理由が孤独なら)

(今まさに彼がしようとしていることは、自分から孤独になることだ)


 


「もう一つ聞かせてください」


 


「追加料金だ」


 


「金貨二枚で」


 


「三枚」


 


「分かりました」


 


「何だ」


 


「王国は、いつ動くつもりですか」


 


ヴィクターが眉を上げた。


 


「早い。今週中には動くだろう。証拠もないまま動くのは違法なんだがな、内務省というのはそういうところだ」


 


私は立ち上がった。

財布から金貨を取り出して、テーブルに置く。


 


「最後に一つだけ、無料でいいことを教えてやろう」


 


ヴィクターが言った。


 


「王国が今回の件を公式に隠蔽していることの証拠書類が、王宮の第三書庫に保管されている。未来視情報を基に令状なしの処刑を計画した記録だ」


 


「……なぜそれを」


 


「あんたが使えそうだと思ったからだ」


 


老人の口元に、薄い笑みが浮かんだ。


 


「金貨八枚の仕事は、たまには元を取ってもらわないとな」


 


私は古書店を出た。

朝の光が路地に差し込んでいる。

頭の中で情報を整理しながら、足を速める。

今週中。

時間がない。

でも方針が見えてきた。

ルークを守る方法が、見えてきた。

ただしそれは、正攻法では絶対にない。


 


市場の近くで二人を見つけた時、ルークが私の顔を一瞬で読んだらしかった。


 


「何か分かったか」


 


「いくつか分かりました。良い知らせと悪い知らせがあります」


 


「悪い方から」


 


「今週中に王国が動きます」


 


「良い方は」


 


「勝てる方法があります」


 


ルークとエリシアが、同時に私を見た。

私は二人の視線を受け止めながら、言った。


 


「戦闘ではありません。私には無理なので。書類と契約と、あと少しの口で何とかします」


 


「口で何とかできるのか、こんな事態が」


 


「私の仕事はずっとそうです」


 


エリシアが静かに聞いた。


 


「ノアさんは、怖くないんですか」


 


少し間があった。


 


「怖いです」


 


正直に言った。


 


「でも依頼を途中で投げるのはもっと嫌なので」


 


エリシアは何も言わなかったが、ほんの少し笑った気がした。

ルークも何も言わなかった。

それで十分だった。


 


次の問題は、王宮の第三書庫にある書類をどうやって手に入れるかだ。

私には王宮への入館証がない。

正面突破は不可能だ。

しかし、迂回路というのは必ずある。

私は頭の中の人脈を棚卸しした。

王宮勤めで、私に恩がある人間。

探す。

探して。


 


「……いる」


 


思わず声に出た。

ルークが眉をわずかに上げた。


 


「あてができました。ただし、今回の最大の問題はそこではないんです」


 


「どういうことだ」


 


「書類を手に入れたとして、それを表に出す場が必要です。王国が揉み消す前に、貴族社会全体に周知させなければならない」


 


「……どこで」


 


私は少し考えた。

今週中、という言葉を頭の中で繰り返す。

今週——そうだ。


 


「今週末、ヴァルモン公爵家主催の夜会があります」


 


エリシアが目を見開いた。


 


「父の——はい、あります」


 


「社交界の主要な面々が集まる場ですね。そこで書類を公開すれば、王国は手出しできない。貴族院の証人が大勢いる前で違法行為を暴かれた場合、内務省といえども動けなくなります」


 


「父は協力してくれるだろうか」


 


エリシアの声音に、初めて不安の色が混じった。

公爵を動かすのは、彼女にとっても簡単ではないらしい。


 


「エリシア様が動いてください。私はその間に書類を取ります」


 


「……ノアさん、一人で大丈夫ですか」


 


「さっきも言いましたが、口があります」


 


「体力はないと言っていましたが」


 


「体力は関係ない作戦なので」


 


ルークが、低く言った。


 


「無理はするな」


 


「心配性ですね」


 


「依頼人として依頼人を心配するのは当然だろう」


 


「……依頼人が依頼した相手を心配するのは普通は逆です」


 


ルークが黙った。

エリシアが何か言いたそうな顔をして、それを飲み込んだ。

私は荷物を持ち直した。


 


「では手分けしましょう。夜会まで三日あります。それで間に合わせます」


 


(間に合わせる、と言い切ったが、正直なところかなり綱渡りだ)

と心の中では思っていたが、それを口に出す理由もないので黙っておく。

プロというのは、依頼人に余計な不安を与えないことも仕事のうちだ。

そして、体力ゼロの婚約破棄代行人が王国を相手に立ち回るための三日間が始まった。


  


王宮への入館証を持つ、私への恩人。

その人物の名はセシル・オーウェン。

現在は王宮の文書管理部門に勤める女性で、三年前に私が彼女の婚約破棄を手伝ったことがある。

相手方の男が証拠書類を偽造していたのを暴いた案件で、当時かなり難しい交渉だったが上手く収めた。

彼女は今でも年に一度、礼の手紙を送ってくれる几帳面な人だ。


 


「まさかノアさんから連絡が来るとは思わなかった」


 


執務室の外の廊下で、セシルは私を見て目を丸くした。


 


「突然で申し訳ありません。折り入ってお願いがありまして」


 


「どんな?」


 


「第三書庫に入りたいんです」


 


セシルの顔が変わった。

表情が固くなるのが分かった。


 


「……ノアさん、それは」


 


「危険な頼みだということは分かっています。だからこそ直接来ました」


 


私は声を落とした。


 


「令状なしの処刑計画書類が、あの書庫に保管されています。それを表に出さないと、無実の人間が殺される」


 


セシルは廊下の両端を確認してから、私に向き直った。

目に迷いがある。

当然だ。

これは彼女にとって相当なリスクだ。


 


「……一人ですか」


 


「私一人です」


 


「どのくらいの時間が必要?」


 


「三十分あれば十分です」


 


セシルはしばらく何も言わなかった。

廊下の窓から午後の光が差し込んでいる。


 


「……昼食の時間帯に、書庫の見張りが手薄になります」


 


彼女は静かに言った。


 


「明日の昼、私が案内します。それ以上のことはできません」


 


「それで十分です。ありがとうございます」


 


「お礼はいらないわ」


 


セシルが少し笑った。


 


「三年前のお礼に、ようやくなれた気がするから」


 


翌日の昼、セシルに案内された第三書庫は古く薄暗い部屋だった。

羊皮紙の束が棚を埋めていて、年代順に整理されている。

私は素早く目的の書類を探した。

未来視の報告書。

内務省の処分計画書。

令状不在の記録。

全部ある。

しかも丁寧にまとめられて保管されていた。

お役所仕事というのは記録を残す習性があって、時々それが裏目に出る。

今回がまさにそれだ。

必要な箇所を書き写し、原本は一部だけ借用した。

借用というのは建前で、返すつもりはないが、後で正式な手続きを踏めば問題はないはずだ。

たぶん。


 


書庫を出た時、私の手は少し震えていた。

廊下で待っていたセシルに小さく頷くと、彼女も小さく頷き返した。

言葉はなかった。

それで十分だった。


 


夜会の当日、ヴァルモン公爵邸は灯りで満たされていた。

王都の主要な貴族がほぼ全員集まっているといっていい規模の夜会だ。

エリシアが父親の公爵を説得したと聞いたのは昨日の夜のことで、その時の私は正直かなり安堵した。

公爵が協力してくれるということは、会場の舞台を使える、ということだ。


 


「準備はいいか」


 


ルークが隣で言った。

夜会の服装に着替えているが、やはり表情がない。

ただ今夜は、目の奥に何か固いものがある。


 


「書類は揃っています。あとは場のタイミング次第です」


 


「私にできることはあるか」


 


「今夜は何もしないでください」


 


「……それが一番難しい」


 


「分かっています」


 


私はルークを見た。


 


「ルークさん、一つ聞いていいですか」


 


「何だ」


 


「エリシア様のことが好きだと言っていましたね」


 


ルークが口をつぐんだ。


 


「……それを今聞く必要があるか」


 


「夜会が始まる前に確認しておきたかったので」


 


「……好きだ」


 


声は低かった。

でも今回は、最初の時とは少し違った。

迷いが薄くなっている。


 


「そうですか」


 


私はそれだけ言って、扉の方へ向いた。


 


夜会が始まって一時間後、エリシアが父親の公爵に何事かを耳打ちしたのが見えた。

公爵の眉がわずかに上がった。

それから彼は手を叩いて場を静め、中央に進み出た。


 


「皆様、本日は余興を一つご用意しております」


 


ざわめきが広がった。

余興というには、公爵の顔が少し硬い。

それに気づいている人間が、会場に何人いるだろうか。


 


「婚約破棄代行人のノア・フィールディング嬢より、重要な書類の開示があります」


 


全員の視線が私に集まった。

百人以上いる。

体力ゼロの平民がこれだけの人数を前にするのは、なかなかの重圧だ。

だが私はゆっくりと前に出て、書類の束を持ち上げた。


 


「王国内務省が、令状なしの処刑を計画した記録です。対象は無実の民間人。根拠は未来視情報のみ。違法な処分が、正式な手続きを一切経ずに進められていた証拠です」


 


会場が凍りついた。

沈黙は三秒ほどだった。


 


そのあとは、騒然となった。


 


貴族というのは社会秩序に敏感だ。

王国が法を無視したという話は、彼らの根幹を揺るがす。

自分たちも同じことをされかねないという恐怖が、あっという間に場を支配した。


 


扉が開いたのはその時だった。

黒い外套の男たちが数人、会場に入ってくる。

内務省だ。

先頭の男が私を見た。


 


「フィールディング、大人しく依頼人を引き渡せ。その書類も返せ」


 


「できません」


 


私は答えた。


 


「守秘義務がありますので」


 


「もうその言葉は通らない。令状を持ってきた」


 


「拝見させていただけますか」


 


令状を受け取り、私は素早く目を通した。

ルークの名前がある。

容疑は国家反逆罪。

根拠は未来視の報告書。


 


「この令状の根拠に使われている報告書と、それが違法に作成されたことを示す書類が、今この会場にいる皆様の手元にあります」


 


私が言うと、エリシアの合図で使用人たちが書類の写しを配り始めた。

昨日の夜のうちに準備していたものだ。


 


「つまりこの令状は、違法な書類を根拠に作られた無効な令状です」


 


「屁理屈だ」


 


「法律論です。貴族院の方々がいらっしゃいますね、ご確認いただけますか」


 


会場の一角から、白髪の老貴族が進み出た。

貴族院の長老格の人物だ。

書類を手に取り、眼鏡をかけ、しばらく読む。


 


「……確かに、これは問題だ」


 


老貴族が言った声が、静まり返った会場に低く響いた。


 


「未来視の結果のみを根拠に処分を行うことは、貴族院法三十二条に明確に違反する。この令状は無効だ」


 


内務省の男の顔が歪んだ。


 


「しかし未来で魔王になると分かっている人間を、放置しろというのか」


 


「放置しろとは言っていません」


 


私は言った。


 


「その人間が現在、自分の意志で暴走を抑え、周囲を守るために行動していることをご存知ですか」


 


「関係ない。未来視では——」


 


「未来視は確率です」


 


会場にいる数人が、顔を上げた。

私は続けた。


 


「王国が保有する未来視情報は百パーセントの確定ではありません。八十から九十パーセントの確率予測です。残りの確率では、魔王化は起きない。しかも、その分岐の鍵が何であるかを王国は調べることなく、処刑の準備を進めていた」


 


「……それをどこで」


 


「調査しました。私の仕事は調査と交渉なので」


 


男が何かを言おうとした時、別の声が会場に響いた。

ルークの声だった。


 


「私のことは私が答える」


 


人垣が割れて、ルークが前に出た。

表情はない。

でもその立ち方が、さっきとは違う。

逃げようとしている人間の立ち方じゃない。


 


「私は魔王刻印を持っている。それは事実だ」


 


会場のどこかで息を呑む音がした。


 


「二年間、一日も欠かさず抑えてきた。近くにいる人間に害が及ばないよう、できる限りのことをしてきた。それでも三人が死んだ。私のせいで」


 


ルークの声が少し変わった。

固い声だが、その奥に何かが滲んでいる。


 


「だから婚約を破棄しようとした。彼女を巻き込みたくなかった。でも——」


 


エリシアが歩み出た。


 


「最初からそう言っています」


 


会場中がエリシアを見た。

彼女はルークの隣に並んで、内務省の男たちを真っすぐに見た。


 


「ルークが魔王化する原因が孤独であるなら、彼を孤独にしないことが解決策です。それを王国は調べもしなかった。違いますか」


 


誰も答えなかった。


 


私はその沈黙の中で、最後の書類を取り出した。


 


「婚約破棄代行人として、一つ申し上げます」


 


内務省の男に向けて言った。


 


「私の仕事は婚約破棄を成立させることです。しかし同時に、不当な破棄を阻止することでもあります。今回の件でルークさんが婚約を破棄しようとした背景には、王国の不当な圧力がありました。当事者の自由意志による破棄ではない。それは不当破棄です」


 


私は書類を高く持ち上げた。


 


「婚約破棄代行人なので、不当破棄は嫌いなんです」


 


それが今夜の決め台詞だった。

自分で言っておきながら、少しだけ気恥ずかしかったが、こういう場では言い切ることが大事だ。


 


その後の展開は早かった。

貴族院の長老が介入し、内務省の男たちは退場を求められた。

書類は貴族院に提出され、王国の違法行為についての正式な調査が開始されることになった。

内務省の一部が貴族社会から猛烈な批判を受けたのは、翌日から始まる話だ。


 


夜会が終わり、人が引き始めた庭で、ルークと二人になった。

エリシアは父親と話し込んでいる。

夜の風が冷たかった。


 


「……終わったな」


 


ルークが言った。


 


「ひとまず、ですね」


 


「婚約破棄の依頼はどうなる」


 


「取り下げますか?」


 


「……分からない」


 


正直な答えだと思った。


 


「分からなくていいと思いますよ。今夜すぐ決める必要はない」


 


「お前はどう思う」


 


私は少し考えた。


 


「エリシア様はああいう方で、あなたもああいう方なので、別れてもどうせまた引っ付くんじゃないですか」


 


ルークが目を細めた。


 


「……それはプロの意見か」


 


「観察の結果です」


 


しばらく沈黙があった。

遠くで笑い声がする。

夜会の残り香がまだ漂っている。


 


「ノア」


 


ルークが名前を呼んだ。

苗字なしで呼ばれたのは初めてだった。


 


「何ですか」


 


「……ありがとう」


 


短い言葉だった。

それだけだった。

でもルークが礼を言う時は、余分な言葉を足さないのだと今なら分かる。


 


「依頼料に含まれていますので」


 


私は言った。


 


「含まれてない部分が多かっただろう」


 


「追加料金で対応しましたので」


 


「……そうだな」


 


ルークが珍しく、少し笑った。

本当に少しだったが、確かに笑ったと思う。


 


後日、正式な依頼完了報告書を作成した。

事務机に座り、羽根ペンを走らせる。

いつも通りの朝だ。

書類を整理して、請求書を作って、ファイルに閉じる。


 


案件名の欄に、私は丁寧に書き込んだ。

『未来魔王婚約破棄未遂事件』

備考欄には、追加料金の合計と、最終的な結果として『婚約継続』と記入した。

婚約破棄の案件で婚約継続が結果になるというのは、私の仕事人生でおそらく初めてのことだ。


 


「変な仕事だ」


 


独り言を言いながら、報告書をファイルに閉じる。


 


「普通の案件が来ないかな」


 


言い終わった瞬間に、扉が開いた。


 


依頼人が入ってきた。

中年の男性で、草臥れた様子をしている。

顔色が悪い。


 


「あの……婚約破棄代行人の事務所はこちらでしょうか」


 


「そうですが。ご依頼の内容は?」


 


男が深刻な顔で言った。


 


「妻が、ドラゴンになりました」


 


私は羽根ペンを置いた。

天井を見上げた。

雨音はしていない。

今日は晴れだ。


 


「帰りたい」


 


「え?」


 


「なんでもありません」


 


私はため息をついてから、依頼人に向かいの椅子を示した。


 


「初回相談料として、銀貨二枚いただきますが」


 


男が財布を出した。

この仕事を続けている限り、普通の案件は来ないのかもしれない。

そういう体質なのかもしれない。


 


「……追加料金になりますが、ご了承ください」


 


扉の外、春の光が路地に差し込んでいる。

婚約破棄代行人の一日は、今日も普通に始まろうとしていた。

どう考えても普通ではないのだが、それはまた別の話だ。


 




終幕







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