第一話 煮汁と魔石
石畳を叩く雨は、あちらの世界もこちらの世界も、同じように冷たいものだった。
守屋重蔵は、ボロ布のような羽織の襟を立て、異界の城下町「ルンガ」の細い路地を歩いていた。前世では、社員一万人を抱える上場企業のトップとして、高級車で都心を駆け抜けていた男である。
それが今や、膝の節々が痛む初老の風体で、明日のパン一塊の代金に頭を悩ませている。
ふと、どこからか甘辛い、醤油に似た香りが漂ってきた。
重蔵の足が止まる。その香りの主は、軒先が今にも崩れそうな飯屋『赤犬亭』だった。
「いらっしゃい……と言いたいが、悪いな。今日はもう仕舞いだ」
店主のガロンは、岩のような拳をカウンターに置き、力なく首を振った。
重蔵は、空になった大鍋を見つめる。店内の帳簿――といっても、木の板に刻まれた稚拙な印――を横目で盗み見ただけで、重蔵の「経営者の眼」はすべてを理解した。
「……ガロンさん。あんた、無理をしてるな。仕入れ値が上がってるのに、客から取る銭を据え置いてる。それじゃ、煮汁と一緒に自分の寿命を煮出してるようなもんだ」
ガロンは驚いたように目を見開いた。
「な、なんだあんた。乞食かと思えば……。ああ、そうだ。肉の魔石がな、高騰してやがるんだ」
この世界では、魔物の肉から採れる「魔石」を燃料に、じっくりと熱を通すのが料理の基本だ。だが、最近はギルドの締め付けで魔石の価格が跳ね上がっている。
重蔵は店内の片隅に、埃を被った古い鉄の樽を見つけた。
「あれは何だ?」
「ありゃ……先代が遺した『不浄の石』だ。火は出るが、煙が臭くて料理にゃ使えねえ。捨てちまうにも、処分市に回す銭がなくてな」
重蔵は、ガロンの隣に座り、懐から「社章」の形をした古びた天秤を取り出した。彼がこの世界に落ちた時、唯一持っていたものだ。
「ガロンさん。商売ってのはね、『適材適所』だ。臭い石は、直接焼くからいけない」
重蔵は、前世で倒産寸前の町工場を救った時の口調で語り始めた。
「その石を外で焚いて、煙突を横に這わせる。熱だけを伝えて、煙を逃がす『排気構造』を作るんだ。あんたの店は角地だ。風通しはいい。これなら、安物の石でも最高級のトロ火が維持できる」
数日後、『赤犬亭』には行列ができていた。
重蔵の助言で作られた「即席の床暖房兼、煮込み竈」は、安価な燃料で二十四時間、肉をホロホロに柔らかくした。客たちは「臭くないのに、どこよりも味が染みている」と、銅貨を差し出した。
ガロンは泣いていた。重蔵の手を握り、何度も頭を下げた。
「あんたは神様か、それとも……」
「ただの、引退し損ねた商売人だよ」
重蔵は満足げに店を後にしようとした。だが、その背中に、冷ややかな視線が突き刺さる。
路地の闇から、金銀の刺繍を施した法衣を着た男たちが、店を監視していた。
「……あの男か。理の外から知恵を持ち込む『帳簿持ち』というのは」
重蔵の胸元で、天秤がチリリと鳴った。
彼が救った小さな店の一灯が、この世界の「大きな歪み」を照らし出そうとしていた。




