からくり競艇人物外伝第9話:西野貴志編②
福岡支部の喧騒が嘘のように静まり返る、深夜の第4整備室。
ここは「ポンコツ会」の聖地であり、西野貴志が最も自分らしくいられる場所だ。だが、一年に一度、この部屋の空気はオイルの匂いではなく、どこか線香の煙に近い、鼻の奥がツンとするような静寂に包まれる。
西野は、棚の最下段に置かれた、埃を被った小さなスチール製の工具箱の前に座っていた。
表面には、油性マジックで無造作に、しかし力強く書かれた**「田所」**の二文字。
「……おい、田所。お前がいないと、ツッコミがいなくてボケ甲斐がねぇよ。最近の若手は、俺が怒鳴るとすぐ縮み上がりやがる」
西野は、安物の缶チューハイの蓋を開けた。一口飲み、残りの半分を床のコンクリートへ、手向けるように零す。
1. 狂犬と清流の邂逅
田所健太郎は、西野が初めて「こいつには俺の全てを叩き込みたい」と心から思った男だった。
西野の属性が周囲を焼き尽くす「爆炎」であるのに対し、田所の属性は、透き通るように清らかな**「清流」**。水と火、本来なら相容れないはずの二人だったが、その魂の根底にある「負けん気」だけは、同じ熱量で共鳴していた。
「西野さん! 今日の第8レースのダンプ、あれはやりすぎですって! 相手のボート、カウルが半分飛んでましたよ!」
「うるせぇ! あれが福岡の華なんだよ! 隙を見せる方が悪いんだ!」
「もう……無茶苦茶なんだから。でも、その後の第2マークの差し、僕の方が角度もスピードも綺麗でしたよね?」
そう言って、ヘルメットの跡がついた顔で生意気に笑う田所の姿。西野はその生意気さが、何よりも愛おしかった。
田所は西野の背中を追い、西野は田所が追いついてくるのを、わざと荒い航跡を残しながら待ちわびていた。いつか、SGの優勝戦で、師弟で1マークを競り合う。それが二人の、言葉にしない約束だった。
2. 宮島の暗転
運命の日は、あまりにも唐突に、そしてあまりにも静かに訪れた。
宮島競艇場。瀬戸内の穏やかな水面が、その日だけは牙を剥いたように見えた。
一瞬の暗転だった。
他艇との激しい接触。制御を失った田所の機体が、空を舞った。
青い「清流」のマブイが、水面に叩きつけられ、火花を散らすこともなく、ただ淡く、儚く霧散していくのを、西野は後続の艇から見ていた。
「田所! 田所ぉ!!」
ピットに戻るなり、西野は救護室へ駆け込んだ。だが、そこにいたのは、さっきまで生意気に笑っていた教え子ではなく、冷たくなり始めた「器」だった。
清流のマブイは、もうどこにも感じられない。
「起きろ! 田所! お前、次のSGで俺をまくるんじゃなかったのかよ! この嘘つきが……起きろよ、おい!!」
西野の叫びは、宮島の冷たい夜の波間に消えた。
その日以来、福岡支部の「爆炎」からは、どこか切ない、夕焼けのような色が混じるようになった。周囲のレーサーたちは「あの事件で西野も落ち着くか」と囁き合った。師匠として、命の尊さを知り、レースが丸くなるだろうと。
3. 世界一騒がしいレクイエム
しかし、現実は真逆だった。
西野は、以前にも増してバカなことをやり、以前にも増して激しい、壊れ物のようなレースをするようになった。
「ポンコツ会」を結成し、はみ出し者たちを集めて笑い飛ばし、水面では「死ぬ気か」と言われるほどのダンプをかます。
「……何でかって? あいつが空から見てるからだよ」
西野は、田所の形見である一振りのレンチを握りしめ、天を仰ぐ。
「俺が湿っぽくなって、安全運転なんてしてたらよぉ……『西野さん、スベってますよ。老け込むには早すぎじゃないですか?』って、あいつが空の上で腹抱えて笑いやがるんだ」
西野にとって、過激に走り続けることは、田所健太郎という男がこの世にいた証を刻み続ける行為だった。
あいつが届かなかった頂点。あいつが見たかった景色。
それを自分の爆炎で照らし、あいつの魂を横に乗せて、一緒に駆け抜ける。
「俺はあいつの分まで、この水面で暴れてやる。二人分のマブイを燃やして、誰よりも騒がしく走ってやるんだ」
4. 空への敬礼
現在の福岡支部。
レース直前、大音量のエンジン音が響くピットの中で、西野貴志が時折、誰もいない青空に向かって、小さく、短く敬礼する姿が見られる。
それは、親友の森田勝司や、弟子の渡辺優子だけが知っている、西野の「儀式」だ。
「田所、見てろよ。今日のレースは、お前の『清流』を俺の『爆炎』で蒸発させて、巨大な上昇気流にしてやる。お前を一番高いところまで連れて行ってやるからな」
シグナルが点灯する。
西野のレバーが引かれ、機体から猛烈な爆炎が噴き出す。
その中心には、一筋の、透き通るような青い光が寄り添っているように見えた。
西野貴志の爆音は、今日も水面に響き渡る。
それは、悲しみを燃やし尽くし、空の上で笑っているはずの愛弟子へ届けるための、世界で一番騒がしくて、世界で一番温かいレクイエムだった。
「行くぞ、田所。……捲り差しだ!!」




