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からくり競艇人物外伝集  作者: 水前寺鯉太郎


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からくり競艇人物外伝第7話:平野菜奈編

1. 虚無の旋回

「……おかしな人がおる。マブイが微塵も感じられんのに、なんであの人のからくりはあんなに滑らかに回るん?」

香川支部から山口支部へと移籍してきたばかりの若き才媛、大谷菜奈おおたにななは、下関競艇場の練習水面を眺めながら、全身に鳥肌が立つのを感じていた。

視線の先にいるのは、平野一貴ひらのかずたか

彼の駆る機体からは、レーサーなら誰もが放っているはずの「マブイの残光」が一切立ち昇っていない。通常、からくり機艇は乗り手の魂を燃料として火花を散らし、水面を沸騰させるものだ。だが、一貴の航跡は、まるで剃刀で絹を裂くように静かで、一点の無駄もなかった。

この世界には、稀に「マブイネービラ」と呼ばれる者が存在する。

生まれつきコアマブイも外付けマブイも持たず、魂の波動を機械に伝えることができない体質。彼らにとって、精神感応型のからくり機艇は「動かない鉄の塊」に過ぎない。そのため、一貴は旧時代の内燃機関――ガソリン燃料のモーターとエンジンを物理的に改造し、自らの手足としていた。

「平野さん、あんたの機体、壊れとるよ。マブイが空っぽやんか。なんでそんなので動くん?」

整備ピットに戻ってきた一貴に、菜奈は堪えきれず、鋭い讃岐弁で詰め寄った。

一貴はヘルメットを脱ぎ、汗に濡れた顔をタオルで拭うと、感情の読めない瞳で菜奈を一瞥した。

「……マブイなんかに頼るから、本当の『音』が聞こえなくなるんだ。俺は、マブイを燃やして機械を黙らせているんじゃない。機械と対話しているだけだ」

その一言が、菜奈のレーサーとしての、そして一人の女性としての運命を狂わせた。

2. 「究極の器」への挑戦

一貴の戦いは、残酷なまでの逆境の中にあった。

マブイを爆発させて強引にターンを決める「G1の化け物」たちに対し、彼は物理的な摩擦抵抗、流体力学、そしてエンジンの回転数という「純粋なことわり」だけで挑んでいた。だが、人間の反射速度には限界がある。マブイによる精神リンクがない一貴は、常にコンマ数秒の遅れを抱えていた。

「一貴さん、うちが、あんたのマブイになってあげる」

ある夜、菜奈は決意を告げた。

彼女は自身の卓越した整備技術と、外付けマブイ30,000という強大な出力を、自分自身の勝利のためではなく、一貴の「感覚補助」のために注ぎ込むことを決めたのだ。

彼女が考案したのは、機体の駆動系に直接マブイを流すのではなく、一貴の脳波とエンジンの振動を同期させる「擬似神経網フェイク・ニューラル・ネットワーク」としての整備だった。

「あんたのマブイはうちが用意する。あんたはただ、前だけ見とって。この鉄の塊に、うちの魂を詰め込んであげるから」

菜奈は、自身のレース出場を削ってまで一貴の機体を磨き続けた。

彼女の指先がボルトを締めるたび、一貴の機体には「熱」が宿るようになる。それは一貴が持たざる魂の代償であり、菜奈の献身そのものだった。

やがて一貴は、後に天才・瓜生を育てるほどの、山口支部を代表する名レーサーへと上り詰めていった。

3. 海響館の不器用な鼓動

二人の距離が縮まったのは、あるオフの日、菜奈が強引に誘い出した下関の「海響館」でのデートだった。

しかし、マブイネービラである一貴とのデートは、菜奈の想像を絶するものだった。

「一貴さん、見て! お魚綺麗やね! あのペンギンの泳ぎ方、めっちゃ可愛いやん!」

「……菜奈。あそこの水槽、L-3ブロックの循環ポンプの音が少しズレているな。ベアリングが摩耗している。このままでは3日以内に流量が15%落ちるぞ」

「な、何言ってんの! デート中に機械の心配せんといて! せっかくのペンギンが台無しやんか!」

菜奈は頬を膨らませて呆れたが、ふと一貴の横顔を見て気づく。

彼は魚の美しさを見ていないのではない。その魚たちが泳ぐための「環境」を維持する、機械の微かな鼓動を、誰よりも真剣に見守っているのだ。

自分にマブイがないからこそ、彼は世界のあらゆる振動に対して、誠実であろうとしていた。

「……あんた、ほんまに不器用やな。でも、そういう『嘘のない耳』を持っとるところ、嫌いじゃないわ」

菜奈は、油の匂いが少しだけ残る一貴の袖を掴み、山口の潮風に吹かれながら、そっと距離を縮めた。

4. マブイなき王の愛

数年後、一貴はG1の常連となり、菜奈は彼専用のメカニックとして、競艇界にその名を轟かせていた。

ある日の夜。翌日に大一番の優勝戦を控えた誰もいないピットで、菜奈は一貴の愛機の最終調整を終えた。

「できた。これで明日の優勝戦、絶対勝てる。うちの最高傑作や」

満足げに工具を置いた菜奈の背後に、影が落ちた。一貴だった。

「菜奈。……俺の機体には、マブイがない。俺自身にも、魂の輝きなんてものはない」

一貴は、自分の右手をじっと見つめ、静かに語り始めた。

「だが、お前が組んでくれる時だけ、この鉄の塊が、俺の体の一部になったように『生きてる』音がするんだ。お前のマブイが、俺の空っぽの胸の中に流れ込んでくるのがわかる」

一貴は菜奈の前に立ち、ゴツゴツとした無骨な手を差し出した。

「俺は一生、マブイネービラのままだろう。……だから、俺の魂の代わりになってくれないか。死ぬまで、俺の隣で世界の音を聴いていてほしい」

それは、感情表現を削ぎ落として生きてきた男が絞り出した、最大級の愛の告白。魂を持たない男による、魂を懸けた誓いだった。

菜奈の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。彼女は一貴の胸に飛び込み、彼の心臓の音を確かめるように、力の限り抱きしめた。

「……当たり前やん! あんたが最高のレーサーになれるのは、うちが世界一の器を準備しとるからなんよ。一生、責任取ってよ!」

5. 水上の祝賀パレード

山口支部の神社で行われた結婚式には、これまでの激闘で絆を深めた競艇界の猛者たちが集結した。

厳かな式の後、披露宴の代わりに行われたのは、下関競艇場の水面を使った前代未聞の「祝賀パレード」だった。

「ひゃっはー! 祝砲だ、ドカンと行くぜぇ!!」

福岡の西野貴志が、自機の「爆炎」を空高く打ち上げ、昼間だというのに夜花火のような閃光で空を染める。

「おめでとう、一貴。……でも、次のレースでは容赦しないからね」

大分から駆けつけた大峰幸太郎が、黄金の「日」のマブイを放ち、水面をキラキラと黄金色に輝かせた。

主役の二人は、菜奈がこの日のために紅白のデコレーションと、二人のマブイ波長を完全同調させる回路を組み込んだ「特製タンデムからくり艇」に乗っていた。

「見て、一貴さん! みんな暴れとるよ! めっちゃ騒がしいね!」

操縦桿を握る一貴の腰に、菜奈がしっかりと手を回す。

「……あぁ、騒がしいな。だが、悪くない音だ」

一貴は菜奈のマブイが全身を巡るのを感じながら、スロットルを開けた。

マブイなき王と、その魂となった女王。

二人の航跡は、一滴の無駄もなく、しかし誰よりも力強く、祝福の歓声に包まれた水面を駆け抜けていった。

それは、山口支部の歴史に刻まれた、最も美しく、最も静かな「魂の共鳴」の記録。

今でも下関のピットには、二人が磨き上げた機械の鼓動が、静かに、だが絶えることなく響き続けているという。



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