第9話 父の写真が、古い本の栞から落ちた
六月のはじめの夜、学習室の天井灯は、白い紙みたいな明るさを床に落としていた。外のアーケードは店じまいの音が遠くで鳴り、裏手の椿の葉が、風に触れて小さく擦れ合う。壁の時計の秒針だけが、みんなの帰り道を数えるみたいに動いている。
晴翔は、棚の下段にしゃがみ込んだまま、さっき引いた角の擦れた児童書を両手で支えた。背表紙は色あせ、タイトルの文字が半分だけ消えている。紙の間で鳴った“何か”が気になって、指先が勝手にページをめくった。
ぱさり。
薄い写真が、開いたページから床へ滑り落ちた。落ちた場所がちょうど白線の内側で、写真だけが「ここから先は大事に扱ってください」と言われたみたいに見えた。
晴翔は息を止め、写真を拾う指をゆっくり動かした。つまみ上げた裏面は、指の腹にざらつきが残る。古い、でも、ただ古いだけじゃない紙の感触。
表に返すと、若い男が写っていた。今の晴翔より少し年上に見える。笑っているのに、口角の上げ方が控えめで、目の奥だけが先に笑っている。見覚えがある。写真の男は、晴翔の父だった。
晴翔は、写真の端を親指でそっと撫でた。撫でた瞬間、胸の奥が勝手に、ぎゅっと縮む。言葉を探そうとして、口の中の唾がやけに重い。
裏面に、鉛筆の走り書きがあった。
――椿坂分室・開設準備。
字は、晴翔が惣菜店の仕入れメモで見慣れた癖と同じだった。角の丸い「せ」。途中で一度止まって、また勢いよく続く線。晴翔は思わず、写真を顔に近づけた。
「……親父、ここにいたのかよ」
声が、天井に吸い込まれていく。学習室は返事をしない。代わりに、棚の隙間から紙の匂いがふっと出てくる。晴翔は写真を机に置き、児童書のページをもう一度めくった。写真が挟まっていたところは、椿の木の絵が描かれた場面だった。子どもが木の下で、折り紙の星を見上げている。ページの端がわずかに折れている。栞にしていたのだろう。
晴翔は、机の上に広げっぱなしの名簿とレシピ帳を見た。判子の増え方は、ゆっくりだけど確かだ。だけど、九月末の文字は、貼り紙のまま居座っている。
勝ちたいわけじゃない。誰かに負けてほしいわけでもない。残したいだけだ。
晴翔は写真を封筒に入れようとして、手が止まった。封筒に入れると、安心する。安心すると、見ないふりができる。見ないふりは、たぶん、勇者のやり方じゃない。
晴翔は机の引き出しから、透明のクリアファイルを出し、写真をそっと挟んだ。ファイルの角を、白線と平行に揃える。まおが見たら「合格」と言う角度。
帰り支度をしながら、晴翔は児童書を棚に戻した。戻した瞬間、背表紙の隣の隣にある本がちょっとだけ前に出て、また戻った。風が通っただけだ。そう思っても、なぜか足音を忍ばせてしまう。
学習室の鍵を閉め、裏口へ回ると、椿の木の影が地面に濃く落ちていた。晴翔は影を踏まないように、白線の外側を歩くみたいに迂回した。誰も見ていないのに、守る形を選びたかった。
その夜、晴翔は布団に入っても、写真の男の目が頭から離れなかった。夢の中で、学習室の床の白線が、いつもより太くなっていた。線の向こう側に、誰かが立っている。姿は見えないのに、声だけがはっきり聞こえた。
「勝ち負けより、守り方を選べ」
晴翔は夢の中でも、反射で答えてしまった。
「戦わずに、って言いたいんですけど……守るって、戦うのと何が違うんですか」
返事はない。代わりに、椿の葉が、ぱらぱらと降る音がした。落ちた葉が白線の上で止まり、風が吹いても動かない。動かない葉を見ているうちに、晴翔は目を覚ました。
窓の外は薄い青で、商店街のシャッターがまだ全部閉まっている時間だった。晴翔は顔を洗い、惣菜店の開店準備を済ませると、いつもより早く学習室へ向かった。胸ポケットには、クリアファイルが入っている。歩くたびに、紙の角が小さく当たる。
学習室の前で、まおが鍵を開けていた。まだ制服の子どもは来ない時間なのに、まおは床の白線を目で追い、端のガムテープを一枚だけ貼り直している。貼り終えた指先で、端を一度撫でる癖も、昨日と同じだ。
晴翔は声をかける前に、クリアファイルを両手で持ち直した。白線の内側に入ると、まおが顔を上げた。
「早いね」
晴翔は、返事の代わりにファイルを差し出した。まおは受け取らず、まず中身を見て、まばたきを一回だけ遅くした。晴翔がファイルを開き、写真を見せる。
「これ、昨日……本の栞から落ちた。裏に、これ」
晴翔が指で文字をなぞると、まおは黙って聞いた。黙ったまま、椿の木のほうへ一瞬だけ視線を流し、また写真に戻す。言葉を急がない目つきだった。
しばらくして、まおは小さく息を吐いた。息を吐いただけなのに、部屋の空気がわずかに柔らかくなる。
まおは机の端に、温い麦茶の入った紙コップを二つ置いた。冷蔵庫の冷たさじゃない。朝の体に、すっと入る温度。
晴翔はコップを手に取って、指の腹で熱を確かめた。まおは言った。
「守り方、選べる人がいるって、いいね」
晴翔は麦茶を一口飲んだ。喉の奥がじんわり温まり、昨日の夜の紙の匂いが、ちょっとだけ遠のく。
「親父が、何を守ろうとしてたのか……俺、聞いたことないんだ」
まおは写真を見つめたまま、コップの縁を、白線の端みたいに揃え直した。
「じゃあ、今から知ればいい。ここで」
晴翔はうなずいた。うなずいた動きが大きくなりすぎないように、背筋だけを伸ばす。戦わずに勝つために、今日やることは決まった。
写真を、ただの思い出にしない。誰かを殴る棒にもしない。再検討しやすい形にして、守る。
まおが椿の葉の形をした付箋を一枚、名簿の端に貼った。
「今日、まずは……この写真、コピーしよう。折れたら困る」
晴翔は思わず笑いそうになって、口を押さえた。まおの言い方は、優しいのに現実的で、ずるい。晴翔は笑いを飲み込み、代わりに紙コップを軽く掲げた。
「勇者の朝礼。麦茶、ありがと」
まおは「どういたしまして」とは言わず、白線の上に落ちていた小さな消しゴムのカスを拾い、指先で丸めて捨てた。守る形を、いつもの手順で整えていく。
外では、商店街のシャッターが一枚ずつ上がり始めた。学習室の朝も、同じ音で始まる。




