第7話 まおの譲れない線は、謝るより先に言う
五月中旬の火曜日。市役所の二階の会議室は、空調の風が弱く、紙の匂いが濃かった。窓の外は昼の青で、商店街のアーケードとは別の静けさがある。机の上には、印刷された表が二枚、真ん中にぴしっと置かれていた。
「利用者数の推移です。……正直に言うと、伸びが弱い」
図書館担当の職員は、指先で数字をなぞりながら言った。言い方は丁寧なのに、紙の角がきれいすぎて、逃げ道がない。
まおは椅子の背から離れなかった。頭を下げる代わりに、膝の上の封筒を、指で一度だけ押さえた。床に白線を引くとき、端を押さえて空気を抜く動きに似ていた。
晴翔は自分の前の机を見た。表の数字は小さな星の点みたいに並んでいるのに、点と点のあいだが寒い。商店街の匂いがここまで届かないから、なおさらだ。
「いまのままだと、利用実態があるのに、続ける理由が説明しにくいんです。次の予算の話もありますから」
職員が視線を上げたとき、晴翔は先に口を開こうとして、喉で止めた。ここで「すみません」と言ったら、まおの膝の上の封筒が、ただの謝罪の包みになる気がした。
まおが封筒を机の上に置いた。封筒は薄い。中身は紙ではなく、小さな録音機だった。
「お願いがあります」
まおはそう言って、職員の目をまっすぐ見た。声は大きくないのに、部屋の角まで届く。
「数字の説明は、あとで晴翔が作ります。私は、先に“ここが何か”を伝えたい」
晴翔は横で頷きながら、まおの言い切り方に胸が熱くなった。熱くなったぶん、目で合図した。――数字は、俺が引き受ける。今は、任せて。
晴翔は椅子の下で拳を握った。ここで大声を出したら、録音に混ざった声がまた誰かを刺す。だから剣は抜かない。代わりに、数字の裏にある息づかいを、ここに置く。
まおは合図に気づいたのか、気づかなかったのか。録音機の再生ボタンを押した。
『あのね、ここでね、宿題ができるんだよ。わからないとき、隣の席の人が「ここ、こう」って、指で教えてくれる』
子どもの声だった。名前は言わない。背景に、鉛筆が机をこする音と、椅子がきゅっと鳴る音が入っている。学習室の匂いが、音だけで戻ってくる。
『ここはね、泣いてもいいんだよ。泣くと、まおさんがティッシュじゃなくて、まず椅子を動かす。だから、泣いてるのが目立たない』
別の声が続いた。そこで、晴翔は思わず口の端を噛んだ。あれは見た。まおが先に机をずらして、空気の流れを変えるところを。
『図書カードの裏にね、星のスタンプがつくんだよ。三つたまると、好きな本を一冊、いちばん先に借りられる。ずるはだめって、白い線を踏んだら、いったん戻るんだよ』
その言葉で、職員の眉がほんの少し動いた。まおは録音を止めず、もう一つだけ、短い声を流した。
『ここがなくなると、帰るところが家だけになる。家がいやじゃないけど、家だけだと、息がつまる。ここは、息ができる』
録音が終わると、会議室の空調の風の音が戻った。戻ったのに、さっきより薄く感じる。
職員は、表から目を離して、録音機を見た。次に封筒を見て、最後に、まおを見た。
「……今のは、いつ録りました?」
「五月の第二週。放課後の十六時から十七時半。保護者の許可をもらって、名前が入らないように、言葉だけ録りました」
まおはすぐ答えた。準備していた言い方だ。謝るより先に言う線が、そこに引かれていた。
職員が息を吐いた。吐き方が、紙を折り目に沿って曲げるみたいに慎重だった。
「居場所、ということですね」
「はい。居場所です」
まおはそこで初めて、椅子の背から少し前に出た。頭は下げない。その代わり、手のひらを机の上に置いた。押さえる。ずれないように。
晴翔はその横で、胸ポケットのメモを開いた。昨夜、商店街の惣菜店で書いた走り書きがある。“水曜は宿題相談”“土曜の午前は小学生の読書”“スタンプは星”。全部、数字に変えられる形にする。
佑人は黙って、自分の帳面を開いていた。ページの端に、細い鉛筆で一行だけ書く。「面談 五月中旬 録音提出」。書き終えると、帳面を閉じ、まおの手元の封筒を一度だけ見た。視線だけで「軽く流すな」と言っている。
慧理香は椅子の端で、指先で机の角をなぞっていた。なぞる動きが止まったとき、慧理香は小さく紙を差し出した。折りたたまれた紙には、学習室の窓から見える空の形が、点で描かれている。星座の形だ。晴翔はそれを受け取り、職員に見せずに、そっと自分のメモに挟んだ。
職員は表を指で叩いた。叩く音が、さっきより柔らかい。
「数字の改善案を、次回までに。具体的に。誰が、いつ、どこで、何を、どうするか」
晴翔は息を吸って頷いた。頷きながら、まおの方を見た。まおは、ほんの少しだけ口角を上げた。笑ったというより、「線は引いた」と言っている。
会議室を出る廊下で、晴翔は腕時計を見た。午前十時四十五分。商店街の昼の匂いが、ここからなら間に合う。
「今日のうちに、店を回る。星のスタンプ、協力してくれる店を増やす。学習室の利用記録も、子どもに負担がない形で取る」
言いながら、晴翔はまおの目を見る。言葉の最後に、目で付け足した。――任せて。今度は、俺が線を引く。
まおは歩幅を変えずに言った。
「嘘は混ぜない。白線の外に出るなら、ちゃんと戻る」
晴翔は笑って頷いた。佑人は帳面を開き、慧理香は椿の実をポケットの中で転がした。誰も頭を下げなかったのに、会議室の空気だけが、わずかに軽くなっていた。




