第6話 椿の木の根元で、封筒が見つかった
五月のはじめ、朝の椿坂商店街はまだ眠りの匂いがする。シャッターの金具がひやりとして、パン屋の焼ける匂いだけが先に起きている。学習室の裏手に回ると、アーケードの音が遠のいて、椿の木の葉が、夜の名残りのように静かに重なっていた。
晴翔が鍵を回して戸を開けようとしたとき、土の匂いが鼻をくすぐった。
裏の地面が、ちょっとだけ掘り返されている。くっきりとした丸い跡。まるで、誰かが「ここ」と指で押したみたいな形だった。
椿の木の根元に、しゃがみ込む影があった。制服の袖口を土で汚さないように、指先だけでスコップを握っている。掘るたびに、手首がきゅっと止まって、土をそっとよける。乱暴にしない掘り方だ。
慧理香だった。
晴翔が「おはよう」と声をかけると、慧理香は顔を上げずに、椿の根を避けるようにスコップの角度を変えた。机の角を指でなぞるときと同じ動きで、土の境目を確かめる。
「……ここ」
それだけ言って、指を一本、地面に差した。まるで、星座の点を示すみたいに。
まおも来て、ひざをついて覗き込んだ。まおは床の白線をなぞるときと同じように、土の縁を指でなぞって、誰の足跡が新しいかを見分ける顔をした。
「昨夜、誰か来た?」
慧理香は首を横に振る。代わりに、ポケットから小さなメモを出して、まおに見せた。鉛筆で、短く書いてある。
――椿の木の下、硬いもの。紙の匂い。
晴翔は思わず鼻の下を指でこすった。
「紙の匂い、わかるんだ」
慧理香は返事をしない。けれど、スコップの先で土をすくう速度が、ほんの少しだけ上がった。からかわれたくない、というより「今はそれどころじゃない」と言っているみたいだ。
土の中で、かすかな抵抗があった。スコップが、木の根ではない何かに当たる。慧理香がそこで止まり、指先で土を払った。土の中から、茶色く変色した封筒の角がのぞく。
まおが息をのむ。晴翔は反射的に「破らないように」と言いかけて、飲み込んだ。慧理香の手がもう、破らない動きだったからだ。
慧理香は封筒の周りだけを掘り、両手でそっと引き上げた。封は、糊が乾いて固まり、紙同士がくっついている。角に、古い朱色の印が残っていた。
そのとき、背後で「何してんの」と、乾いた声がした。
佑人だ。朝なのに、いつもの胸ポケットの帳面を押さえている。靴の泥を払うでもなく、掘り返された土を見て、眉だけを動かした。
「ここ、勝手に掘っていいのか」
まおがすぐに返した。
「根を傷つけない。穴は埋め戻す。……それは約束」
佑人は「約束」と聞いて、口の端をほんの少しだけ引いた。笑いではなく、試すみたいな動きだ。
「約束で、紙は守れるのか」
晴翔は肩をすくめた。
「守れるかどうか、今からやる。濡らすな、破るな、なくすな。……条件、全部満たす」
佑人は「条件」という言葉に、目を細めた。帳面を開きかけて、やめる。代わりに、封筒から目を逸らさずに言う。
「中、何だ」
慧理香が封筒を胸の前で支え、まおのほうへわずかに差し出した。視線は封筒の角に落ちている。まおが受け取り、封の端を爪でなぞる。固まった糊を、無理に剥がさない。学習室の机を動かすときと同じ、慎重な手つきだ。
晴翔は学習室の戸を開け、机の上に薄いタオルを敷いた。まおは封筒を置き、タオルの上で封を少しずつほぐす。紙が「ぱり」と鳴りそうになるたび、手を止める。
中から出てきたのは、コピー用紙ではない。少し厚い紙。端が黄ばんで、角が丸い。表には、古い字体でこう書かれていた。
――椿坂分室 覚書(写)
その下に、日付。十数年前の春。署名欄には、図書館の名前と、建物の持ち主の名字。それから、短い一文が目に入る。
「子どもの居場所を残す」
まおが、その一文のところで指を止めた。声を出さず、喉だけが動いた。晴翔はその横顔を見て、胸がちょっとだけ熱くなるのを感じた。まおは普段、頭を下げるより先に言葉を出す。だけど、今は、言葉が先に詰まっている。
慧理香が、もう一枚の紙をそっと取り出した。手書きのメモだ。鉛筆の跡が濃い。
――椿の木は、境目の目印。ここで約束を忘れないこと。
佑人が、初めて一歩だけ近づいた。床の白線がない場所なのに、足が止まる。帳面を押さえる指が、わずかに緩んだ。
「……覚書なんて、今でも効くのか」
晴翔は紙を見つめたまま言った。
「効くかどうかは、相手が再検討しやすい形にできるかだと思う」
佑人が「またそれか」と言いかけて、飲み込んだ。代わりに、封筒の角を指で押さえ、紙が風で飛ばないようにする。押さえる力が強すぎて、紙の端がわずかに反る。すぐ気づいて、指を緩めた。そういうところが、帳面の字みたいに細かい。
晴翔は、紙を一枚ずつ揃えながら続けた。
「誰かを責めて勝つ形にすると、相手は引く。……引いたまま、また押し返してくる。だったら、条件を満たして“続けられる形”にする」
まおが顔を上げた。目が、晴翔に一度だけ合う。そこから逃げずに、言った。
「卑怯なやり方はしない。紙を振り回して脅すのも、しない」
「うん。だから、確認する」
晴翔は、学習室の棚から古いファイルを引っ張り出した。背に「賃貸契約」と手書きのラベル。ホコリが舞って、朝の光に小さく浮く。晴翔はくしゃみしそうになって、鼻先を押さえる。まおが口元を動かす。笑いを声にしない、いつものやつだ。
佑人が、机の端を指で叩いた。
「確認するなら、順番。誰が、いつ、どこに出す。期限。……抜けたら終わる」
晴翔は、その言い方で、佑人が「手伝わない」と言いながら手伝う予感を感じた。だから、わざと軽く言う。
「勇者の武器、帳面だな」
佑人は「武器って言うな」と、短く返した。けれど、胸ポケットの帳面を押さえる手が、ちょっとだけ誇らしげに見えたのは、気のせいじゃない。
慧理香は椅子に座らず、机の角を指でなぞったまま立っている。封筒の元の場所を、頭の中で地図にしているみたいに。まおが「穴、埋め戻そう」と言うと、慧理香は小さく頷き、手の甲で土を払った。
晴翔は覚書の一文を、もう一度だけ読んだ。
「子どもの居場所を残す」
朝の椿の葉の隙間から、白い光が落ちる。昨夜の雨粒が残って、きらっと一瞬だけ光った。星形のシールみたいに、ほんの少しだけ傾いた光。
晴翔はファイルを閉じ、鍵を握った。
「今日、図書館の担当に連絡する。あと、建物の契約も確認する。勝ち負けじゃなくて、続けられる形を揃える。……まずはそこから」
まおが頷いた。頷き方が、床の白線を引き直すときみたいに、まっすぐだった。
佑人は帳面を開き、何かを書き足した。書き終えてから、紙を指で押さえたまま、ぽつりと呟く。
「……穴は、埋め戻せ。忘れるな」
慧理香が、椿の木のほうへ一歩戻る。土を手ですくい、穴に返す。その指先が、土の中から小さな木の実を拾い上げた。椿の実だ。慧理香はそれを掌に乗せ、誰にも見せずにポケットへしまった。
晴翔はその仕草を見て、何も言わなかった。言わないほうが、慧理香が逃げないと分かったからだ。
椿の木の根元の穴は、きれいに埋まった。誰かの居場所を残すための紙は、机の上で、風に飛ばされない重みを持っていた。




