第5話 佑人の帳面には、許さない理由が並んでいた
四月下旬の雨は、春の顔をして冷たい。アーケードの屋根を打つ音が一定になったと思ったら、風に押されて斜めに変わる。学習室の入口の軒先には、水滴が数珠みたいに並び、落ちるたびに小さな輪を作った。
まおは、ドアの横に吸水マットを二枚重ねに敷き、端を足でそろえた。子どもが滑る前に、先に地面を整える動きだ。白いテープで引いた床の線も、剥がれかけた角を指で押さえ、爪の背でなぞって貼り直す。
晴翔は雑巾を絞りながら、入口の外を見ていた。雨の日の商店街は、人が減る。人が減ると、数字が減る。数字が減ると、話がややこしくなる。頭の中でそれを一段ずつ並べ、いま自分がやれるのは床を乾かすことだ、と手を動かしていた。
ドアの外に、影が一つ止まった。
フードの縁から落ちる雨粒が、肩で弾ける。佑人だった。傘は差していない。濡れた前髪を指で払うでもなく、胸ポケットのあたりを片手で押さえたまま、入り口の線の外側に立っている。
「……ここ、信用できない」
声は小さいのに、雨音を押しのける硬さがあった。まおの手が、テープの上で止まる。
晴翔は雑巾を床に置き、立ち上がった。近づくが、線は越えない。佑人が越えないからだ。
「どこが?」
「全部」
佑人は胸ポケットから小さな帳面を引き抜いた。黒い表紙。角が少し丸くなっている。雨が当たらないように、体で庇ってから開く。中には、細い字が一行ずつ並んでいた。
「一、あの夜、笑って言った一言。二、あとから“そういう意味だった”って言い訳。三、止める人がいなかった。四、俺だけが――」
最後の行は、読み上げずに指でなぞって閉じた。指先が、紙の端をつまむ力で白くなる。
晴翔は「違う」とも「そんなことない」とも言わなかった。言えば、佑人の帳面のページが、また増えるだけだと分かっている。
「その一行ずつ、確認しよ」
佑人が目を上げる。怒っているのに、目の奥は疲れていた。
「確認?」
「うん。誰が、どこで、いつ、何を言った。言ったつもりじゃなくて、聞こえた形。そこ、同じ形で持たないと、またズレる」
まおが、ゆっくり息を吐いた。叱るでも、同情するでもない顔で、佑人の帳面を見たまま言う。
「ここで人を笑いものにするやり方は、しない。……それは約束」
約束、という言葉で、佑人の視線が一瞬だけ床の白線に落ちる。すぐ戻る。
「約束って、紙に書けば守れるのか」
晴翔は首を横に振った。
「紙だけじゃ守れない。だから、帳面がある。……帳面があるなら、守れなかったとこも、守れたとこも、残せる」
佑人の口元がわずかに動いた。笑いではない。噛みしめる動きだ。
そのとき、雨脚が強くなり、入口の外の輪が大きくはねた。佑人の肩がさらに濡れる。まおは、入口脇の傘立てから一本、透明のビニール傘を抜いた。柄の部分に、子どもが貼ったシールが残っている。星形。少し傾いている。
まおは傘を差し出した。差し出す前に、柄の汚れを指で拭いてから。
「これ。……濡れると、風邪ひく」
佑人は一拍置いて、傘を受け取った。口は動かない。礼もない。けれど、傘の先端を上に向け、雨粒が中へ落ちないように持ち替える。その手が、胸ポケットの帳面を守る位置から離れない。
晴翔は、その動きを見て、ちょっとだけ眉を上げた。
「帳面、濡らしたくないんだな」
「……当たり前だろ」
「当たり前、いいね。守りたいものがはっきりしてる」
佑人が「うるさい」と言いかけて、飲み込んだ。雨が一段強くなる。ビニール傘が、入口の軒先に当たって、ぺこ、と情けない音を立てる。
まおが、思わず傘の位置を直した。佑人の手に触れないぎりぎりの距離で、指だけを動かす。触れない、でも放っておかない、その加減がうまい。
その瞬間、背後から「先生ー!」と子どもの声がして、濡れた靴下のまま走り込んできた子が、吸水マットで足を取られた。
転ぶ。
佑人の体が先に動いた。線の外側のまま、腕だけ伸ばし、子どもの肩を軽く引き上げる。引っぱり上げた手はすぐ離れる。子どもは転ばずに済み、目を丸くした。
「ありがとう!」
子どもがそう言った瞬間、佑人の顔が硬直した。返事が出ない。代わりに、胸ポケットの帳面をぎゅっと押さえる。
晴翔が、子どもに笑いかけた。
「走るのは、ここから先の白線の内側だけな。約束な」
「はーい!」
子どもは白線の手前で足を揃え、わざとらしく敬礼してみせた。室内に小さな笑いが起きる。まおも口元だけ動かした。
佑人はその笑いに乗らない。けれど、さっき助けた子どもの靴下が濡れているのを見て、入口の棚から乾いたタオルを一枚、黙って引き抜いた。タオルを渡す手が、ほんの少しだけためらい、すぐ決めたみたいに前へ出る。
子どもは受け取り、嬉しそうに頭を下げた。佑人は視線を外し、帳面を開き直す。
「……確認する。帳面の一行目から。だから、余計なこと言うな」
「了解」
晴翔はそう答えてから、わずかに声を落とした。
「でも、ひとつだけ。さっき、助けたのは余計なことじゃない」
佑人は返事をしない。帳面のページをめくる音だけが、雨音の間に小さく挟まった。
まおは床の白線をもう一度なぞり、晴翔の横に立つ。佑人のいる線の外側を見ながら、ドアをほんの少しだけ開けたままにしておく。入るか入らないかを、押しつけないための隙間だ。
雨はまだ止まない。けれど、帳面の一行目には、いま、誰かの手が触れた。




