第3話 夢物語のノートは、夜の机に置かれていた
四月上旬の夜、椿坂商店街のアーケードは、昼の賑わいを畳んでいた。シャッターの金属が冷えて、通りの灯りだけが床を薄く照らす。
学習室の小さな部屋では、まおが最後の机を拭いていた。布巾を絞る音が静かに響き、壁の時計の秒針がちょっとだけ大げさに聞こえる。
晴翔は入口の鍵を確かめ、窓を閉めて回った。ふと、椅子を机の上に上げようとして、手が止まる。
誰もいないはずの中央の机に、一冊だけノートが置かれていた。表紙に太い字で、たった四文字。「夢物語」。
晴翔は眉を上げ、まおの方を振り向いた。
「今日、誰か忘れてった?」
まおは布巾を止め、視線だけで机を追った。すぐに首を横に振る。返事の代わりに、床の白線を指でなぞり、入口の方を見た。『置き忘れなら返さなきゃ』という顔だ。
晴翔はノートを持ち上げず、机の上でそっと表紙をめくった。紙の匂いが、教室のそれに似ている。中は、文字と図がびっしりだった。
照明のスイッチの位置に丸が付けられ、「暗いと子どもが眉を寄せる」「窓側は夕方に影が落ちる」と書かれている。机の配置図には矢印が何本も引かれ、読み聞かせの順番、絵本の置き場所、掃除の手順まで、細かい。
まおが近づき、覗き込んだ。ページの端に、小さな星のシールが一つ貼られている。ほとんど気づかないくらいの銀色で、角度を変えるとだけ光った。
「これ……学習室のこと、全部見てる人の書き方だね」
晴翔は口角を上げかけて、すぐ真面目な顔に戻した。
「夢物語って、言われたことあるのかな」
まおの目がわずかに細くなる。誰かが、頑張った案を笑ったのだと分かったからだ。まおはノートの端を指先で押さえ、乱れないように整えた。
「置いていった人が困る。明日、来たら返そう」
晴翔は頷き、ノートを透明のクリアケースに入れた。棚の一番上、落ちない場所に置く。鍵のかかる引き出しではなく、あえて見えるところ。『隠した』と思われないためだ。
二人で灯りを落とし、外へ出ると、アーケードの入口から夜空がのぞいた。雲の切れ間に、ひとつだけ強い星が見えていた。
「あれ、勇者の目印みたいだな」
晴翔が言うと、まおが小さく息を吐いた。笑い声にはならない。けれど肩の力が少し抜けたのがわかった。
翌朝、まおが鍵を開けると、扉の前に先客がいた。制服の上に薄いカーディガン。慧理香だった。
慧理香は「おはようございます」と言いながら、視線は床の角に落ちていた。手の中の指が、空をなぞるように動く。まおが扉を開けた瞬間、慧理香はまっすぐ机へ向かい、棚の上のクリアケースに手を伸ばした。
その動きが速すぎて、まおは言葉より先に一歩出た。大声では止めない。ただ、慧理香の手の行く先に、自分の手を置いた。
「それ、慧理香ちゃんの?」
慧理香の肩が小さく跳ね、咳払いで隠すように息を整えた。目は合わせない。けれど、うなずきは嘘じゃない速さだった。
まおは責める顔をしなかった。代わりに、ノートの表紙を見せるように角度を変えた。
「借りたい。……役に立つなら、みんなで使っていい?」
慧理香の指先が、机の角をなぞった。すべる音が、紙の上の鉛筆の音に似ている。しばらく黙ってから、慧理香は小さく言った。
「……笑われると思って」
まおは首を横に振る。床の白線を指でなぞって、慧理香に見える位置で止めた。
「ここ、約束の線なの。人を下にして勝つやり方は、しない」
そのとき、入口が開いて晴翔が入ってきた。手には紙袋。惣菜店のコロッケと、和菓子屋の団子。昨日の言い合いの続きを、食べ物で終わらせる気らしい。
晴翔は状況を一瞬で見て、紙袋を机に置いた。
「あ、これ。昨日の夜の……」
慧理香は顔を上げかけ、すぐ視線を落とした。まおがノートを指で軽く叩く。
「晴翔くん。これ、すごいよ。照明も机も、読み聞かせも、全部。誰かがずっと考えてた」
晴翔はノートのページを数枚めくり、星のシールのところで止めた。真面目な顔のまま、言葉を選ぶように口を開く。
「これ、戦わずに勝つための道具だな。……誰かの顔を踏まずに、理由を増やせる」
慧理香の喉が小さく鳴り、また咳払いが来た。今度は隠しきれず、ほんの一瞬だけ、笑い声の端っこが漏れた。
まおはクリアケースを慧理香の方へ押し戻す。でも手は離さない。渡すのではなく、一緒に持つ形にする。
「慧理香ちゃん。今日の放課後、ここで一緒に机、動かしてみない? 子どもが来る前に」
慧理香は机の角をなぞるのを止め、ゆっくり頷いた。頷いたあとで、自分でも驚いたみたいに、胸ポケットの端を握りしめる。
晴翔は紙袋から団子を取り出し、慧理香の前にそっと置いた。甘い方と、塩味の方を一本ずつ。どちらかに寄らない並べ方だ。
「まずは、口より先に。……ここから始めよ」
慧理香の指が、団子の串をつまむ。迷ってから、二本とも持ち上げた。
机の上で、銀色の星がまた小さく光った。学習室の朝が、ちょっとだけ明るくなる。九月末までの残り時間が、ただ減るだけじゃなく、形になる気がした。




