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椿坂の勇者は、戦わずに勝つ  作者: 乾為天女


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20/20

第20話 椿の木の下で、白線を引き直す

 十月上旬の夕暮れは、九月より一段だけ早い。学習室の裏口を開けると、商店街のアーケードの光が背中で小さくなり、代わりに椿の木の影が地面に長く伸びていた。


 影の端で、空が薄い青を残している。商店街の灯りとは別の場所に、いちばん星がひとつ、早起きしていた。


 風が、紙の匂いを運んでくる。新しい看板を貼ったばかりの、まだ乾き切らない糊の匂い。晴翔は看板の端を指で押さえ、最後に一度だけ息を吹きかけた。

 「これで、ひとまず……“続き”だな」

 口に出してから、照れたみたいに喉を鳴らす。勇者だと言い張るくせに、決め台詞の前に呼吸が浅くなる。


 まおは椿の木の根元にしゃがみ、落ち葉を拾っては、指先で折り目をつけていた。子どもたちが作った栞と同じ折り方だ。

 「“続き”って言い方、好きだな」

 「撤回じゃなく延期。勝ち負けじゃなく続き。……言葉を選ぶと、胸が楽になる」

 「じゃあ、今夜も言葉を選んで」


 まおが立ち上がり、晴翔の方へ歩いてくる。背中に夕日を背負っていて、輪郭だけが少し金色だ。晴翔は、まおの靴先が地面の小石を避けるのを見て、胸の奥が勝手に温かくなった。


 「まお。あの面談のあとさ」

 晴翔は、惣菜店の白いビニール袋をそっと地面に置いた。中でプラスチックの容器が控えめに鳴る。

 「ほうじ茶プリン、持ってきた。佑人のやつと同じじゃないけど、店の人が“甘いのに、後味がちょっと塩っぽい”って言ってた」

 「それ、絶対、晴翔の好みで選んだでしょ」

 「バレた?」


 まおが笑いかけた瞬間、学習室の窓がきしんで、内側から影が二つ動いた。慧理香と佑人だ。二人は「外、寒い」とか「まだ片づけ終わってない」とか、言い訳みたいな顔で出てきて、わざとらしく別方向へ歩いていく。


 慧理香はノートを胸に抱えたまま、椿の木から少し離れた所で立ち止まり、背中を向けた。耳だけはこちらに向いている。

 佑人は胸ポケットの帳面を取り出しては閉じ、取り出しては閉じを繰り返している。落ち着かないのに、逃げない。


 「……今は、二人の時間ってことにしとく」

 まおが小声で言い、晴翔の袖をつまんだ。九月の会議室でもそうだった。つままれた袖の布が、妙に心強い。


 晴翔は、椿の木の根元に視線を落とした。春に見つかった古い封筒の場所。あの短い文言――子どもの居場所を残す――を思い出すたび、胸の中に、小さな火が灯る。

 「俺さ。守りたいものが増えた。学習室も。椿の木も。……あと、まおの笑い方も」

 言った瞬間、頬が熱くなった。商店街のアーケードなら、揚げ油のせいにできるのに、ここは秋の冷たい空気だ。誤魔化せない。


 まおはすぐに返事をしなかった。代わりに、ポケットからチョークの小片を取り出した。学習室の床に白線を引くときに使うやつだ。

 しゃがんで、地面に小さな線を引く。たった十センチほどの、細い白い線。葉っぱの影の上に、白が重なる。


 「ここから先、正直になるゾーン」

 まおは、口に出してから自分で肩をすくめた。大人のくせに、子どもが書いた言葉を借りている。

 「卑怯なやり方は、しない。誰かを落とす言葉も、使わない。……でも」

 まおは線を見下ろし、自分の靴先を揃えた。片足だけ、線の手前に置く。もう片足は、わざと置かない。

 「守るって言ったら、守る。続けるって言ったら、続ける」


 晴翔が息を吸うより先に、まおが自分の足で線を越えた。砂利が小さく鳴る。越えた後、まおは振り返らない。まっすぐ晴翔の方へ手を伸ばし、その手で袖じゃなく、指を引いた。

 「晴翔も、来て」

 言い方が、命令じゃないのに逃げ道がない。晴翔は笑ってしまい、そして、笑いながら線を越えた。


 指先が触れ合う。まおの手は冷たい。なのに、手のひらの奥が熱い。晴翔は、握る力を強くしすぎないように気をつけた。相手の面子が潰れない言い回しを選ぶのと、似ている。

 「一緒に、守る」

 「うん」

 まおはそれだけ言って、視線を上げた。夕焼けの中で、目が少し潤んでいるのがわかったけれど、晴翔は「泣いてる?」とは言わなかった。代わりに、プリンの袋を持ち上げた。

 「じゃあ、ここから先は、甘いのから?」

 「……塩っぽいって言ったでしょ」

 「戦わずに勝つには、順番が大事なんだよ」

 「その理屈、どこで覚えたの」


 遠くで、慧理香がノートを閉じる音がした。ぱたん、という小さな音なのに、秋の空気はよく響く。

 慧理香は振り返らずに、咳払いを一つしてから、さっきより少しだけ軽い足取りで学習室へ戻っていった。背中が「次のページ、書く」と言っているみたいだった。


 佑人が足を止めた。帳面を開き、鉛筆で一文字だけ書く。晴翔には見えない距離なのに、佑人の手首が揺れたのがわかった。

 佑人は帳面を閉じ、胸ポケットにしまう。そして、初めてこちらを見た。眉間にいつもの皺を寄せたまま、でも口の端だけが上がっている。

 「……今日」

 呟いたと思ったら、次の瞬間、声が漏れた。笑い声だ。短くて、少し掠れていて、本人が一番びっくりした顔をしている。

 まおが、喉の奥で笑った。

 「佑人、今の、聞いた」

 「聞くな」

 「聞こえた」

 「……聞こえたなら、しょうがない」


 学習室の入口の方から、子どもたちの声が飛んできた。

 「看板、できたー!」

 「夢物語って書いてある!」

 「次のページ、いつ読むの?」

 誰かが走ってきて、足音がアーケードの床を叩く。甘い匂いと、塩辛い匂いと、紙の匂いが混ざっていく。


 晴翔は椿の木を見上げた。枝の隙間に、まだ明るい空が残っている。星は見えない。でも、九月の会議室で見た小さな白い点みたいなものが、胸の中に残っている。

 「夢物語は、誰のものでもあるまま」

 晴翔が言うと、まおが頷いた。

 「うん。だから、次のページも、みんなで書く」


 椿の木の下で引き直された白線は、風が吹いても消えない。誰かを叩き潰すための線じゃない。越えるための線だ。

 晴翔はまおの手を引き、学習室の方へ歩き出した。戦わずに勝つ勇者は、今日も剣を抜かない。代わりに、看板の釘を一本、まっすぐ打ち込む。



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