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椿坂の勇者は、戦わずに勝つ  作者: 乾為天女


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第2話 恋のスタートラインは図書カードの裏

 四月のはじめ。学校のチャイムが鳴り終わっても、椿坂商店街の奥にある学習室は、まだ昼の匂いを残していた。古い本の紙の匂いと、誰かが持ち込んだ消しゴムの甘い匂いが混ざって、机の上に薄く積もっている。


 床には、昨日までなかった白い線が一本、すっと引かれていた。ビニールテープだ。線の手前に、丸い字で「ここから告白ゾーン」と書いてある。さらにその横に、小さく「走るな」「押すな」と注意書きまである。


 晴翔は入口で靴を揃えながら、その文字を読んだ。読んだあと、視線を上げて、まおを見た。


 まおは、机と机の間を少しずつ動かしながら、子どもたちの通り道を作っていた。机の角が白線にかからないよう、指先で距離を測り、最後にテープの端を爪で押さえる。終わると、白線を指で一度だけなぞった。短い動きなのに、そこに「約束」が置かれたみたいだった。


 「それ、誰が書いたの」


 晴翔が聞くと、まおは答える前に、視線をいったん机の角へ落とした。指が角をなぞって、そこから言葉が出た。


 「一年生。……昨日、誰かが『告白する場所ない』って言ってね。なら、ここでって」


 「学習室で?」


 晴翔が白線の向こうへ、片足を出そうとした瞬間、子どもたちが「だめー!」と声を揃えた。笑いが跳ねて、椅子ががたがた鳴る。


 「勇者、侵入禁止!」


 「勇者って言うなって」


 晴翔が引っ込めた足を見て、まおが口元を押さえた。声は出さない。けれど、一瞬だけ、息が漏れるみたいに笑って、すぐに咳払いで隠した。


 机の上に、薄いカードケースが置いてあった。図書カード。学習室がまだ「図書館の分室」と呼ばれていた頃のものらしく、角が丸く擦れている。まおはカードケースを開き、紙のカードを一枚抜き、裏を晴翔に見せた。


 裏には、鉛筆で短いメモが並んでいた。

 「4/1 利用 7名」

 「4/2 利用 9名」

 数字の横に、小さな星印がいくつも描かれている。押し花のように薄い星だ。


 「これ、誰の?」


 「私。……毎日、書いてる。数を増やせって言われたわけじゃないけど、誰かに聞かれたとき、答えられるように」


 晴翔はカードの裏の星を見て、何も言わずに頷いた。余計な「偉いね」は言わない。代わりに、カードの端をそっと戻して、言葉を探すみたいに息を吸った。


 「昨日の張り紙の話、続き、聞いていい?」


 まおはカードをケースに戻さず、そのまま手のひらに置いた。角が折れないよう、親指が端をそっと押さえている。子どもたちが「宿題やるー」と騒ぎ始めると、まおは机を叩かずに、白線の手前で手を上げた。手のひらが上を向く。すると、声が少しずつ落ちた。


 「九月末で使用終了って書いたの、私じゃない。管理してるところが貼った。……理由は、利用が減ったからじゃない」


 まおは、言い終わる前に、カードの裏をもう一度指でなぞった。星印の上を。


 「建物の契約。更新の見通しが立たないって」


 その言葉が落ちた瞬間、室内の音が一拍遅れて静かになった。消しゴムのカスを払う音がやけに大きい。


 晴翔は、すぐに誰かの名前を探して叩くようなことはしなかった。椅子に腰を下ろし、机の上を片手で整える。鉛筆が転がらないように揃える。そうしてから、まおを見た。


 「相手に負けを飲ませるのは、簡単なんだよな。言い負かすとか、噂を広げるとか。……でも、それだと、残っても、あとがぐちゃぐちゃになる」


 まおの指が白線の端を押さえた。ぐい、と力が入る。


 「それ、しない」


 「うん。しない。俺も、しない」


 晴翔は、自分の胸ポケットから小さなメモ帳を出した。表紙に、惣菜店のレシートが挟まっている。ページを一枚開いて、鉛筆で項目を三つ書く。


 「①更新されない理由を、ちゃんと聞く」

 「②代わりの場所があるか、候補を探す」

 「③ここを残すなら、相手が『再検討できる形』を作る」


 子どもが「再検討ってなに」と聞いた。

 晴翔は、白線の手前でしゃがんで、その子の目の高さに顔を合わせた。


 「んー……『やっぱり、やめとこ』って言えるようにする、ってこと。大人はね、『やっぱり』を言うとき、理由がいるんだ」


 「理由、星でいい?」


 子どもが図書カードの裏の星を指した。

 晴翔は一瞬、言葉を止めた。止めたあと、笑って頷いた。


 「星、いい。数も、声も、写真も。……ただ、誰かを困らせる星はだめ」


 まおが、白線を指で二回なぞった。二回目は、ちょっとだけゆっくりだった。


 「うん。卑怯なのは、だめ。ここは、そういう場所にしたくない」


 晴翔は立ち上がり、白線のこちら側に足を揃えた。越えない。越えないまま、まおの手元の図書カードを見た。


 「じゃあ、作ろう。理由。ここで勉強してる子の声。商店街の人の声。昨日の甘い派も塩派も、同じ列に並べるやつ」


 「列……」


 まおが小さく繰り返す。机の角を指でなぞってから、カードケースを閉じた。


 「読み聞かせと試食の会、なら、できるかも。……歩けるように、机、もっと動かしておく」


 まおが机を引く。きい、と床が鳴った。その音に合わせて、子どもたちが机を押す。押し方が乱暴になりそうになると、まおは手を出さずに、白線の上に指を置いた。指先が触れるだけで、子どもたちの手がわずかに優しくなった。


 晴翔は、告白ゾーンの文字をもう一度見た。白線の向こうは、まだ笑いで守られている。でも、いつか、そこを越える日が来るのかもしれない。商店街の小さな部屋を守るために、そして、まおの指が置いた約束を守るために。


 晴翔は図書カードの裏に、鉛筆で小さく星を一つ足した。日付の横じゃない。白線の文字の横でもない。まおの書いた星の列の、いちばん端に。


 「まずは、来週の放課後。人が集まれる形、作ろう。ここが必要だって、言えるように」


 まおはカードを受け取り、星の増えた場所を見た。見たあと、視線を上げずに言う。


 「……勇者、線は越えないで」


 「今日は越えない。今日は、線のこちら側で勝つ」


 子どもたちが「かっこいいー!」と騒ぎ、別の子が「告白じゃなくて、勝つの?」と首を傾げる。

 晴翔は、答えずに笑った。笑い方は大きくない。けれど、学習室の空気が、ほんの少しだけ軽くなる。


 白線の上の「告白ゾーン」の文字が、夕方の光で薄く光っていた。



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