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椿坂の勇者は、戦わずに勝つ  作者: 乾為天女


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第18話 読み聞かせと試食の一日、通りがひとつの教室になる

 九月中旬の土曜日、椿坂商店街のアーケードは、朝から光がやわらかかった。端のほうの古い椿の木の影が、地面に丸い模様を作り、そこを自転車の影がすべっていく。開店準備のシャッター音に混じって、子どもの笑い声が先に鳴った。


 学習室の前には、折りたたみ椅子が十脚並び、段ボールの上に「読み聞かせ 十時」と手書きの紙が貼られている。紙の角は、風で少しめくれていた。

 晴翔は紙の角を押さえ、テープをもう一度貼り直した。剥がれないように、指の腹でじっくり押す。隣で、まおが白い養生テープを床にまっすぐ伸ばしていた。一本、二本。曲がりそうになると、いったん剥がして引き直す。


 「ここが列。越えたら、先に来た人が困る」

 まおは、テープの端を爪で押さえ、言葉だけ置いた。笑いながら言うのに、手つきは真剣だ。


 佑人は、商店街の通りの入口に立っていた。胸ポケットの帳面は入っているが、開かない。今日は人の流れを見る。列の先頭がどこまで伸びても、誰かの肩がぶつからないように、椅子の位置を二歩ずつずらす。

 魚屋の前で立ち止まったおばあさんが、紙を覗き込みながら言った。

 「読み聞かせって、図書館の人が来るの?」

 佑人は一瞬、言葉を探し、喉が鳴った。それでも足を止めずに答える。

 「子どもが読みます。……続きを」

 「へえ。じゃあ、あとで行くわ」

 おばあさんは買い物かごを抱え直し、列の白い線をまたがずに回り込んだ。佑人はその動きが嬉しくて、でも顔に出し過ぎないように、口元だけを引き締めた。


 十時ちょうど、椅子に座った子どもが、膝の上の紙を両手で持ち上げた。紙の端が小刻みに揺れている。前の回に読んだ「夢物語」の続きを、今度は自分の声で出すのだ。

 読み手の子が、ひとつ息を吸った。

 「……星を拾ったぼくは、椿の木の下で――」

 その一行が出た瞬間、周りの大人が自然に静かになった。コロッケの油の匂いも、団子の甘さも、いったん奥に引っ込む。耳だけが前に出る。


 晴翔は、椅子の後ろで腕を組まず、手を前で重ねて聞いていた。読み手の子がつっかえると、すぐに助け舟を出さない。代わりに、ページの端をそっと指で示す。そこに行けるように、道だけ作る。

 まおは少し離れたところで、別の子の膝ががくがくし始める前に、椅子を一センチだけ近づけた。座面のきしみが鳴らない角度にする。子どもは気づかないまま、背中が落ち着く。


 物語は、思っていたより短く終わった。最後の行を読み終えた子が、紙を胸に押し当てる。

 「おわり」

 その瞬間、拍手が起きた。大きな拍手じゃない。買い物の手を止めたままの、指先だけの拍手が、波みたいに広がる。読み手の子が照れて顔を赤くし、隣の子が肩を小さく叩いた。


 拍手の余韻が残るうちに、通りの反対側から声が飛んだ。

 「試食、始めまーす!」

 惣菜店の前にテーブルが出て、紙コップと小さな皿が並ぶ。列が、白い線の上にすっと乗り、まっすぐ伸びた。まおが引いた線が、約束として働いている。


 佑人は列の横を歩き、途中で詰まりそうになる場所を見つけると、手を広げて止めた。

 「ここ、通ります。先に、こっちへ」

 声は大きくし過ぎない。怒鳴り声に聞こえないように、語尾を落ち着かせる。昨日の喫茶店のスプーンの音が、頭の隅で一度だけ鳴って、すぐに消えた。


 列の中の小さな男の子が、前の人の袋にぶつかりそうになった。佑人は体を半歩入れて、ぶつかる前に自分の肘で受けた。袋の中の揚げ物が、かさりと鳴るだけで済む。

 「ごめんね」

 男の子が言った。

 佑人は「うん」とだけ返し、男の子の頭の上の空間に手をかざして、前へ誘導した。触らない。触らなくても、道は示せる。


 試食のテーブルの端で、晴翔が小さな皿を持って立っていた。皿の上に、塩おにぎりが半分。横に、赤茶色のとろりとしたものが、ちょこんと乗っている。

 「これ、椿ジャム。……しょっぱいのに、つける」

 聞いた大人が目を丸くした。

 「えっ、おにぎりに甘いの?」

 晴翔は肩をすくめるだけで、言い訳をしない。代わりに、つまようじでほんの少しだけジャムを付けて差し出した。

 「一口だけ。合わなかったら、忘れてください」


 最初に食べたのは、まおだった。まおは口に入れた瞬間、眉が動いた。次に、笑った。

 「……意外と合う」

 言い切ると、周りの大人がどっと笑い、次の人が「じゃあ私も」と手を伸ばす。子どもが「えー」と言いながら真似して食べ、顔をしかめてから、もう一回かじる。


 列が伸びた。魚屋の前まで。和菓子屋の前まで。さっきまでの拍手が、そのまま足になって歩いているみたいだった。

 慧理香は人混みの端、アーケードの柱の影で、ノートを抱えて立っていた。ペンは持っているのに、今は書かない。視線だけで、列の曲がり、子どもの動き、笑いが起きる場所を追っている。誰かが割り込もうとすると、ノートの角が少しだけ強く握られた。


 そのとき、列の途中で、買い物かごを持った女性が困った顔をした。列を避けて通りたいのに、白い線の外側が狭い。

 佑人が気づいて、列の人に声をかけた。

 「一歩だけ、こっちへ。通ります」

 人が一歩動く。列が崩れず、道ができる。女性が通り抜けて、佑人の前で立ち止まった。

 「ありがとうね」

 たったそれだけの言葉なのに、佑人の胸の奥が、じんと熱くなった。喉が詰まって、返事が遅れる。

 佑人は、遅れた分だけ、きちんと顔を上げた。

 「……どういたしまして」


 通りの奥で、読み聞かせをした子どもが、もう一回拍手して遊んでいた。大人がそれに合わせて手を叩き、油の匂いの上に、笑い声が乗る。

 晴翔はテーブルを拭きながら、まおに小声で言った。

 「通りが、教室みたいになった」

 まおは白い線の端を踏まれないように、足先で守りながら答えた。

 「教室なら、みんなが先生。みんなが生徒」


 佑人は胸ポケットの帳面に触れた。今日は書かない。代わりに、目の前の白い線と、人の足の動きを覚える。怒鳴らなくても、押さえつけなくても、通りは整う。

 アーケードの外、空の青の中に、小さな白い点が見えた。昼なのに、薄く残った月みたいだった。


 佑人はその点を一度だけ見上げ、また列に視線を戻した。次に「ありがとう」が来たら、今度は遅れずに返そう。遅れないために、今ここに立つ。



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