第17話 佑人が初めて、頭を下げた
九月上旬の夕方、駅前のロータリーは、風の匂いだけが先に秋になっていた。バスが吐いた温い排気がすぐ冷え、制服の袖口にまとわりつく。改札から出てくる人の足音が、アスファルトの上で乾いたリズムを刻む。
駅前の喫茶店「スピカ」は、ガラス越しに電球が小さな星みたいに光っている。入口の黒板に「一番星ブレンド」と書かれていて、チョークの粉が少しだけ落ちていた。
佑人は看板の前で、胸ポケットの帳面を開いた。ページの上のほうに、昨日の字が残っている。
『今日、逃げない』
その下に、鉛筆で一行足す。ゆっくり、丁寧に。
『言い訳しない』
ドアの鈴が鳴った。晴翔が先に入り、席を見つけて手を上げる。窓際の二人席だ。佑人が入ると、晴翔は椅子を引き、佑人が座るまで立ったまま待つ。余計な言葉はないのに、背中の力が抜ける。
佑人は喉の奥で乾いた唾を飲み込んだ。謝る言葉は、舌の上に乗せるとすぐ形が崩れる。帳面の紙に書けば真っすぐなのに、声にすると曲がるのが分かっていて、余計に怖い。
少し離れた四人席に、まおが座っていた。コップの水を一口だけ飲み、コースターの端を指でなぞる。床の白線を触るときと同じ動きだ。目線は雑誌のページに落ちているのに、紙のめくり方が遅い。
佑人の向かいの椅子は空いている。そこに置かれたスプーンが、光を拾って銀色に尖って見えた。
佑人はその尖りが怖くて、目を逸らし、帳面を閉じた。閉じたのに、指が離れない。
ドアの鈴がもう一度鳴る。
入ってきたのは、学習室に何度か顔を出した大人――商店街の外れの印刷屋で働く男だった。肩に紙の匂いがついている。佑人が「うるさい」の言葉を聞いた夜、笑って「まあまあ」と言って場を終わらせた声も、この人だった。
男は佑人の視線に気づくと、眉を少しだけ寄せた。
「……呼んだの、君か」
声が硬い。硬いまま、椅子に座る。手は膝の上で組まれ、指先だけ動く。
晴翔が軽く会釈した。
「急にすみません。短く済ませます」
その言い方は、相手の逃げ道を塞がない。佑人はそれを横目で見て、喉の奥を押さえた。
佑人の口が開きかけて、閉じる。
息を吸うたび、喫茶店のコーヒーの香りが胸に入って、逆に言葉が重くなる。
男が先に言った。
「俺は、悪く言った覚えはない。あの日も、ただ……」
続きが「空気を軽くしたかった」になるのは、佑人にはわかっていた。帳面の中の行が、勝手に先を読んでしまう。
佑人は、そこで帳面を開かなかった。開いたら、文字に逃げる。今日は逃げない、と書いたばかりだ。
佑人は、テーブルの端に手を置き、指の腹で木目をなぞった。ざらり、と小さく引っかかる。
「……俺のせいです」
声が出た。自分でも驚くくらい、まっすぐだった。
男の眉が上がる。
「は?」
晴翔の肩が少しだけ動く。止めない。見守る。
佑人は言葉を続けた。早口にならないように、一語ずつ置く。
「あの夜、俺が『そういう言い方、やめろ』って言った。言い方は……刺さった。俺、止めたつもりで、周りを見てなかった」
男が口を開きかける。佑人はそれを待たずに、次を出した。
「次の日、俺が怒鳴ったって広がった。泣いた子が来なくなった。俺は腹が立って、誰かを責めたくなって……それで、みんなを巻き込んだ」
まおの席で、ページが一枚だけめくれる音がした。紙が擦れる小さな音なのに、背中が温くなる。まおは見ている。逃げないように、見ている。
男が椅子の背に体重を預けた。
「それは……俺のせいって言いたいのか」
声が少しだけ低くなる。
佑人は首を振った。否定の動きが、ゆっくりだ。
「俺のせいです。俺が、言葉を切り取られない形にしなかった。誰かが『まあまあ』で終わらせたとき、止め切れなかった」
そこで、佑人は一度、息を吐いた。胸の中の尖りが少しだけ丸くなる。
「だから……謝りに来ました」
男が鼻で短く笑った。
「謝るって、何を」
その笑いは軽くない。守るための笑いだ。
佑人は、椅子から立ち上がった。テーブルの縁に指が当たり、スプーンが一度だけ鳴った。チン、と短い音。店内の会話が一瞬、薄くなる。
佑人は、そこで止まらなかった。
背筋を伸ばし、視線を落とし、頭を下げた。帳面の字より深い角度で。
「俺のせいで、学習室の人たちを巻き込みました。あの日、止められなかったのに、怒りだけで動きました。ごめんなさい」
下げた頭の向こうで、椅子がきしむ音がした。
男が何か言う気配があって、でも言葉にならない。
佑人は頭を上げず、呼吸だけを数えた。返事がどうでも、これは自分の行動だ。そう決めて、下げた。
しばらくして、男が小さく息を吐いた。
「……俺も、軽かった。『まあまあ』で終わらせた。あれ、楽なんだよな」
声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。柔らかくなったのに、責任が消えたわけじゃない音だ。
佑人はようやく頭を上げた。目の奥が熱い。擦ったら負ける気がして、瞬きを一回だけした。
「次は、終わらせません。笑って流さない」
男は視線を外し、テーブルの砂糖袋を指で弾いた。袋が少しだけ滑る。
「……じゃあ、俺も。言う。あの子に、俺が悪かったって」
その言葉を聞いた瞬間、佑人の胸の中で、ずっと引っかかっていた木目のささくれが、少しだけ削れた気がした。
窓際の向こうで、まおが雑誌を閉じた。目元に光が溜まっているのに、拭かない。代わりにコースターを裏返し、指で一本、線を引く。越えるための線だ。
晴翔は、何も言わずに水のグラスを佑人の前へ寄せた。佑人が飲める距離に。言葉じゃなく、形で渡す。
店の外は、夕焼けが駅前の看板を赤く染め、空の上に白い点がひとつ見え始めていた。一番星みたいに、遅れて追いつく光。
佑人は胸ポケットの帳面を取り出し、今日の日付の下に一行だけ書いた。
『下げた』
書き終えると、ページの上を指で一度押さえた。消えないように。




