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椿坂の勇者は、戦わずに勝つ  作者: 乾為天女


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第16話 夏の終わり、使用終了の通知が貼り出された

 八月下旬の朝、椿坂商店街のアーケードは、夏の匂いの上に、ほんの少しだけ乾いた風をのせていた。惣菜店の揚げ油の香りも、和菓子屋の甘さも、いつもより控えめに感じる。入口の外に出ると、空が高い。


 学習室の扉の前で、子どもたちが固まっていた。いつもの白線の内側に入らず、靴の先だけ揃えて、貼り紙を見上げている。


 貼り紙は新しかった。角がまだ反っていない。紙の端に、赤い印が押されている。


 「しよう……しゅうりょう?」

 小さな声が読んだ。「しよう」だけが分かって、「しゅうりょう」で息が途切れる。


 まおが、子どもの肩に手を置いた。抱きしめるより先に、床の白線を指でなぞる。いつもの動きだ。

 「中、入ろう。靴そろえて。水、飲もう」

 いつもの言葉なのに、声がわずかに低い。子どもは頷いたのに、目が潤んで、白線のところで足が止まった。


 まおは、迷わず抱きしめた。腕の中で、子どもの肩が小刻みに揺れる。泣き声は出ない。喉でこらえて、息だけが震える。

 「大丈夫。今日は泣いていい」

 まおは言って、背中を二回、軽く叩いた。叩く強さが、白線の太さと同じだった。


 そのとき、晴翔が紙袋を抱えてやって来た。惣菜店のコロッケの匂いが、ここまで追いかけてきたみたいに漂う。

 「……おはよう」

 晴翔は、扉の前の空気を一目で理解して、声を小さくした。紙袋の持ち手が、指に食い込む。


 貼り紙の上部に、太い文字で書かれている。

 『学習室 使用終了のお知らせ』

 その下に、日付と、短い文章。最後に、担当の部署名。


 晴翔は、貼り紙に手を伸ばしかけて止めた。剥がしてしまったら、誰かの怒りが先に走る。代わりに、ポケットから小さなメモ帳を出し、鉛筆の先を整える。


 「怒鳴りに行く?」

 まおが、子どもの髪を撫でながら聞いた。聞いたというより、確認だった。晴翔がどんな顔をするか、見ている。


 晴翔は、貼り紙の文章を、一行ずつ声に出さずに追った。視線だけが動く。行の終わりで、鉛筆が止まる。

 「怒鳴ると、相手が固くなる」

 晴翔は言って、紙袋を床に置いた。白線の外側に。いつでも動ける位置。

 「これ、撤回って言葉が一回もない」

 まおが眉を上げる。

 「……ほんとだ」

 「だから、こっちは“撤回してください”じゃなくて、“期限を伸ばしてください”に落とせる」

 晴翔は、貼り紙の中の条件らしい文を、鉛筆で丸く囲んだ。

 「ここ。『九月末日までに』って書いてある。期限があるなら、延ばす理由も作れる」


 扉のガラスに、カシャ、と短い音がした。慧理香が、スマホで貼り紙を撮っていた。撮ったあと、すぐに画面を拭く。指紋が残るのが嫌らしい仕草だ。視線は上げないのに、動きが速い。

 慧理香は、その場でノートを開いた。ページの端が少しだけ擦れている。「夢物語」の下に、別の見出しを作るみたいに、文字を書き足していく。


 晴翔が「何書いてる?」と聞くと、慧理香は机の角を指でなぞる代わりに、ノートの端を二回、軽く叩いた。

 「通知……条件……揃えるもの」

 言葉は短い。けれど、鉛筆は止まらない。


 その横で、佑人が立っていた。胸ポケットの帳面を開き、まっすぐな字で一行だけ書く。書き終わると、紙の上を指で一度押さえる。消えないようにするみたいに。

 『今日、逃げない』

 帳面を閉じても、佑人の指はその場所から離れなかった。


 晴翔は、佑人の手元を見て、息を吐いた。言葉が少しだけ軽くなる。

 「逃げない、は強いな」

 佑人は返事をしない。代わりに、貼り紙の下の部署名を指でなぞり、唇を動かさずに読んだ。読んだだけで、目の奥が硬くなる。


 まおが、抱きしめていた子どもにハンカチを渡した。子どもは受け取って顔を拭き、ハンカチを握ったまま晴翔を見上げる。

 「なくなるの?」

 その一言が、部屋の中の空気を全部引っ張った。


 晴翔は、しゃがんで目線を合わせた。笑いで逃げるのは簡単だ。でも、ここで軽く言ったら、あとで裏切りになる。

 「九月の終わりまで、って書いてある。だから——」

 晴翔は、指で二本、立てた。

 「一つ目。九月の終わりまで、使う」

 子どもの目が瞬きする。

 「二つ目。九月の終わりを、もう少し先にする理由を、みんなで作る」

 まおが、黙って頷いた。慧理香はノートに目を落としたまま、鉛筆の先を一度、紙に押しつける。決意の印みたいに。


 子どもは、指を一本ずつ折りながら確認した。

 「……じゃあ、今日も勉強していい?」

 「いい。白線の内側は、いつも通り」

 まおが即答した。声が揺れない。だから子どもは、ようやく白線を跨いだ。


 晴翔は、床に置いた紙袋を持ち上げ、扉を開けた。中の空気は、昨夜のまま少しだけこもっている。椿の葉の匂いが、窓の隙間から入り込んでいた。

 晴翔は、机の上にメモ帳を置き、貼り紙の写真を撮っていた慧理香の横に座る。

 「通知の文章、細かいとこまで読む。言い返すためじゃない。相手が“うん”って言える形にするため」

 慧理香は、ペン先を止めずに頷いた。佑人は、クリアファイルを取り出し、角を揃えて机に置く。まおは、子どもたちにコロッケを半分にして配りながら、白線の外側に落ちたパン粉を拾った。


 窓の外で、椿の葉が一枚だけ落ちた。くるり、と回って、土の上に着地する。

 晴翔はその音を聞いた気がして、胸の奥で言い直した。

 勝ち負けじゃない。九月の終わりを、もう少し先へ。今日、逃げないで。



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