第15話 夢物語の続きは、椿の木陰で読むために
八月上旬の夜、学習室の蛍光灯は一段だけ落としてあった。窓の外では、アーケードの明かりが遠くでにじみ、蝉の声が急に途切れては、また思い出したように鳴いた。裏手の椿の木は暗いのに、葉の影だけがゆっくり揺れている。
机の上には、さっきまで直していた「椿坂レシピ帳」の試し刷り。角をそろえた束の横で、赤ペンが転がらないように消しゴムが受け止めている。まおは雑巾を絞り、白線の内側だけを丁寧に拭いた。水気の匂いが、夏の熱をわずかに冷ます。
慧理香は、いつもの席に座らず、窓際の机にノートを置いた。表紙に太い字で「夢物語」。その横に、誰かがいたずらで書いた小さな星の落書きがある。慧理香は星を指で一度なぞってから、鉛筆を持った。
晴翔は声をかけるタイミングを探して、言葉を飲み込んだ。代わりに、机の端に置いた麦茶の紙コップを慧理香の方へ滑らせる。コップは白線の内側で止まる。まおがそれを見て、口の端だけ上げた。
佑人は、椅子に座っていた。足先で椅子の脚の位置を微調整し、白線から出ないところで止める。帳面は胸ポケットに入ったまま。机の上の封筒を、反らないよう指で押さえている。
鉛筆の音が、カリ、カリ、と小さく続いた。慧理香は一行書いて止まり、書いた字の上を消しゴムで軽くこすり、また一行書く。まおは「急がなくていいよ」と言いかけて、言わなかった。慧理香が自分で決めた速度を、邪魔したくないのだと晴翔は気づく。
十分くらいして、慧理香が鉛筆を置いた。机の角を指でなぞり、息を整えてから、ノートを晴翔の方へ押し出した。視線は上げない。けれど、ノートの端を離す手つきだけは、逃げていなかった。
「……読んで」
声は小さく、でも咳払いで隠さなかった。
晴翔はノートを受け取り、ページをめくった。新しい紙は、少しざらついている。そこに、短い文章が並んでいた。
『椿の木陰に、子どもが座っている。
本は一冊ずつ、順番に回る。
大人は味見をして、顔を見合わせる。
机を拭く人が笑って、笑い声が残る。
ここは、なくならない。』
読み終えた瞬間、晴翔の喉が詰まった。言葉を探しているのに、何も出ない。ページの端が、指の汗でちょっとだけ湿るのが嫌で、晴翔は慌てて持ち方を変えた。
まおが、即答した。
「それ、実現する」
声はいつもと同じ大きさなのに、背中がまっすぐだった。雑巾を置く手も迷いがない。
晴翔は、笑ってごまかすべきか迷って、やめた。代わりに、正直に言った。
「……俺、今の文、ずるいと思った」
まおが眉を上げる。
「どこが」
「椿の木陰、って入れるところ。あそこ、涼しいのに、夏はみんな避けるだろ。虫がいるって」
晴翔が言うと、まおはわずかに目を細めた。
「避けるから書いたんでしょ。読んだら、行きたくなる」
慧理香が、ほんの一瞬、肩を揺らした。笑ったのか、息を飲んだのか分からない揺れ。すぐに咳払いで隠す。
佑人が、ノートのページに手を伸ばした。触れる直前に止めて、指先の向きを変える。紙を引っかけないように、角をつまむ。ページを閉じる動きが、やけに丁寧だった。
ぱたん、と音がしないように、掌で受け止める。
晴翔は気づいた。佑人の指が、ほんの少し震えている。けれど佑人は、それを見せないように、ノートの背をそろえて机に置いた。
「……書類に入れろ」
佑人が言った。短いのに、逃げ道がない言い方だった。
「未来の話、って笑われるかもしれない。でも——」
佑人はそこで言葉を切り、喉の奥を鳴らした。帳面を開かないまま、視線だけを上げる。
「笑われても、同じ形で残せ。あとで、“言った”って確認できる」
晴翔は、胸の奥が熱くなって、また言葉が詰まった。だから、動いた。クリアファイルを開き、「利用者の声」と書いた仕切りの次に、新しい仕切りを一枚入れる。ペンで書く。
「夢物語」
まおが、白線の内側にノートを置き直した。
「ここに置く。踏まない場所。約束の場所」
晴翔が頷くと、まおは椅子の背に手をかけ、窓の方を向いた。椿の木の影が、さっきより大きく揺れている。
「ねえ、晴翔。椿の木陰、虫がいるなら——」
「いるなら?」
「虫よけを置けばいい。言葉じゃなくて、まず置く。そうしたら、子どもは座る」
晴翔は、思わず笑った。まおの言い方はいつも具体的で、逃げない。
「戦わずに勝つって、そういうことか」
「剣じゃなくて、虫よけ」
まおが言うと、慧理香がまた小さく喉を鳴らした。今度は隠しきれず、ほんの少しだけ声が漏れた。
佑人が、机の端に置いてあった封筒を持ち上げた。中身を確かめるように軽く叩き、封を指で押さえる。
「明日、商店街の店に回す。署名も、もう一枚増やす」
晴翔は返事の代わりに、椅子から立った。白線の外へ出ないように足をそろえ、窓をちょっとだけ開ける。夜風が入って、椿の葉の匂いがした。
机の上には、レシピ帳と、夢物語と、封筒と、雑巾の跡。どれも同じ場所に並んでいるのに、さっきより部屋が広く見えた。
晴翔はノートの表紙を一度だけ撫で、声を落として言った。
「椿の木陰で、読むために。ちゃんと残そう」
まおが、返事の代わりに、白線を指でなぞった。




